2005-10-06(Thu)
マガ9ブログに良い記事が
先日、私がケチをつけたせいでは全然ないけれど、http://blog.livedoor.jp/magazine9/\" target=\"_blank\">マガ9のブログにいい話が出ていた。
伊藤真さんの講演で紹介されている「憲法というものは、私たち国民が国家に守らせるものであって、われわれ国民が守るものではない、ということを初めて知った」という言葉。
これを見て、はじめてハッと思って、なるほどなあと感じた人は、ぜひ羽仁五郎師のhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-5840771-6447501\" target=\"_blank\">「自伝的戦後史」を読んで欲しい。たぶん古本しかないけれど、講談社文庫で結構出回っている。
この本は、反対の立場の人をいちいち手取り足取り説明するような書き方はしていないので、ある程度読む人を選ぶかも知れない。けれど、上記の言葉を聞いて、ハッと思う人ならばきっと、「ハッ」の連続だと思う。
で、この伊藤氏の講演をもう少し読み進むと、「国家権力に歯止めをかけるということは、実は、『国民の多数派に歯止めをかける』ということなのです」というくだりがある。
微妙だなあ というのが正直なところ。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-9.html\" target=\"_blank\">真理は少数にあり で私も述べたように、思考停止の多数派に、もの申す少数派が押さえ込まれてはいけない。その意味ではその通りだし、一人一人の自覚を促す意味で言っておられるのはわかる。
しかしその上で、国家権力=国民の多数派 というのはちょっとどうだろう。ネオコンなどのように、思考停止の多数派を意図的に扇動する「少数者」は必ずいる。また、実効的な権力というのは、選挙の時以外は相対的に国民の多数派から独立した「少数者」が握っている。
その「少数者」の報道コントロールや、弾圧や、扇動や、教育や、ありとあらゆる手を使って人間の嫌らしい部分を掘り起こすことよって、思考停止の国民多数派が創られていく。
この「少数者」の画策に歯止めを掛けるのが、憲法の精神なのではないだろうか。多数が形成されてしまってからでは遅いのである。憲法も「民主的」である以上、多数が形成されてしまってからでは、簡単に改悪され、文学的な意味しか残らなくなる。
講演の後半は、実に迫力のあるお話しだ。伊藤氏の言われる意味は十分理解しているつもりだが、しかしなお、実体的な権力というものを 国民多数に解消してしまう危険性は指摘したい。
天皇の戦争責任を、一億総懺悔に解消したバーターとして今の憲法がある、ということは、かの「自伝的戦後史」を読むとよく分かる。戦争責任を壺に入れてフタをした重しが、憲法だ。
だから、憲法に手を付けるなら、かつての戦争責任が問われる、国民の多数を戦争に引っぱっていった、その責任者が、60年の時を経て被告席に引きずり出されるんだ、ということだ。これはもちろん、国内だけの問題ではない。日本人が引きずり出せなければ、アジア各国の人民がそれを実行するだろう。
当然それに対し、ナショナリズムの扇動がマスコミ総動員でなされるに違いない。そのような動乱の時代を前にして、責任者を明確にすることから目をそらしては、ナショナリズムに対抗できない。国民総懺悔の論理では、劣情をそそり立てるようなナショナリズムに勝つことはできない。
伊藤氏のすばらしい講演録を読みながら、そんな危機感を募らせた。
※半共分子さんのブログに都市の論理が出ていたので、TBさせてもら います
伊藤真さんの講演で紹介されている「憲法というものは、私たち国民が国家に守らせるものであって、われわれ国民が守るものではない、ということを初めて知った」という言葉。
これを見て、はじめてハッと思って、なるほどなあと感じた人は、ぜひ羽仁五郎師のhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-5840771-6447501\" target=\"_blank\">「自伝的戦後史」を読んで欲しい。たぶん古本しかないけれど、講談社文庫で結構出回っている。
この本は、反対の立場の人をいちいち手取り足取り説明するような書き方はしていないので、ある程度読む人を選ぶかも知れない。けれど、上記の言葉を聞いて、ハッと思う人ならばきっと、「ハッ」の連続だと思う。
で、この伊藤氏の講演をもう少し読み進むと、「国家権力に歯止めをかけるということは、実は、『国民の多数派に歯止めをかける』ということなのです」というくだりがある。
微妙だなあ というのが正直なところ。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-9.html\" target=\"_blank\">真理は少数にあり で私も述べたように、思考停止の多数派に、もの申す少数派が押さえ込まれてはいけない。その意味ではその通りだし、一人一人の自覚を促す意味で言っておられるのはわかる。
しかしその上で、国家権力=国民の多数派 というのはちょっとどうだろう。ネオコンなどのように、思考停止の多数派を意図的に扇動する「少数者」は必ずいる。また、実効的な権力というのは、選挙の時以外は相対的に国民の多数派から独立した「少数者」が握っている。
その「少数者」の報道コントロールや、弾圧や、扇動や、教育や、ありとあらゆる手を使って人間の嫌らしい部分を掘り起こすことよって、思考停止の国民多数派が創られていく。
この「少数者」の画策に歯止めを掛けるのが、憲法の精神なのではないだろうか。多数が形成されてしまってからでは遅いのである。憲法も「民主的」である以上、多数が形成されてしまってからでは、簡単に改悪され、文学的な意味しか残らなくなる。
講演の後半は、実に迫力のあるお話しだ。伊藤氏の言われる意味は十分理解しているつもりだが、しかしなお、実体的な権力というものを 国民多数に解消してしまう危険性は指摘したい。
天皇の戦争責任を、一億総懺悔に解消したバーターとして今の憲法がある、ということは、かの「自伝的戦後史」を読むとよく分かる。戦争責任を壺に入れてフタをした重しが、憲法だ。
だから、憲法に手を付けるなら、かつての戦争責任が問われる、国民の多数を戦争に引っぱっていった、その責任者が、60年の時を経て被告席に引きずり出されるんだ、ということだ。これはもちろん、国内だけの問題ではない。日本人が引きずり出せなければ、アジア各国の人民がそれを実行するだろう。
当然それに対し、ナショナリズムの扇動がマスコミ総動員でなされるに違いない。そのような動乱の時代を前にして、責任者を明確にすることから目をそらしては、ナショナリズムに対抗できない。国民総懺悔の論理では、劣情をそそり立てるようなナショナリズムに勝つことはできない。
伊藤氏のすばらしい講演録を読みながら、そんな危機感を募らせた。
※半共分子さんのブログに都市の論理が出ていたので、TBさせてもら います
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