2016-08-15(Mon)

敗戦の日に

決してやってはいけない侵略戦争をやり、大負けして逆に植民地となった。
この当たり前のことを覆い隠す 「終戦」という言葉を、私は決して使わない。

侵略したことを無かったことにする「右翼」と、植民地化されたことを見ぬふりする「左翼」とがチカラをあわせて築き上げた戦後日本。その出発点が、「終戦」だ。

その戦後日本はしかし、経済的には地球史上希に見るバラ色の世界を作り上げたこともまた事実である。
私にとっては10代から20代であった1970~80年代。このころの日本ほど豊かで平和で格差も少ない社会は、どこを探しても見つからないだろう。

差別も貧困も汚職も国家の横暴も、圧倒的なバラ色に覆い隠され、結果、自民党の民主的な独裁政治がつづいた。
全共闘世代も、ほとんどは企業戦士としてバラ色に吸収されていった。

侵略の加害と植民地にされたことをともにベールで隠すことで、バラ色の日本は「しあわせ」を謳歌した。
そうやって目をそらせているうちに、新自由主義の菌糸は日本中に蔓延していった。

1990年代は、これまでため込んできた贅肉を、新自由主義に奪い取られた。
真実に目をつぶってきた日本人は、抵抗するどころか、誰に何をされているかすらわからぬままに富を吸い取られた。

贅肉を奪った新自由主義は、より深く継続的に奪い続ける。
小泉-竹中改革で幕あけた2000年代。これまで日本のバラ色を担ってきた土着の利権構造を解体しつつ、ありとあらゆる手で富を吸い取る仕組みを作った。

日本だけが経済成長しないことを誰も不思議と思わず、長期不況などと呑気なことをいいながら、自覚無く吸い取られ続けた。
吸血鬼に血を吸われながら、「最近、貧血気味なんですよ」みたいな。

そしてリーマンショック。
さすがにバラ色の幻覚も醒めかけて、ついに政権交代。

しかし、敵は何枚も上手だった。
あらかじめ民主党には自爆装置が仕込まれていた。

リーマンショックの真っ暗闇が過ぎ去ってみれば、色々問題はあるけれど「もっと悪くなるよりは、まあ今のままでもいいか」という新たな色のベールが。
ライトグレーの時代。

もうバラ色でないことは誰の目にも明らかだけれど、真っ黒じゃないライトグレーならまあいいや。
70年間、真実から目をそらせ続けた日本人の精神は、グレーのなかの黒よりも白をみる。

これが、「敗戦」を「終戦」と言い換えた、戦後日本の帰着。
侵略の加害も被害もないことにした因果応報。

■■
第二次大戦で日本は、人口の約4%が死んだ。
そして、その5~10倍の人を殺した。

この凄まじさは、いくら語られても、当事者にしかわからないものがある。
しかも、「殺した」ことについてはほとんど語られていない。

とても語ることのできない「殺した」記憶をこころに秘めた人々が、殺された悔しさをも噛みしめながら作ったのが戦後日本。
侵略の加害には、当事者個人にすればまさに心の煉獄ゆえに触れることができなかったに違いない。

だから、重い記憶を秘めた人たちが担っている間は、いくらゴマカシの世の中でも芯があった。
保守も革新も、ごく少数を除いては、本気で戦争に反対だった。

しかし、いまや「殺した」記憶を心に宿している人はほとんどいない。
残されたのは、ゴマカシの世の中だけ。

子や孫の私たちは、「殺した」記憶を引き継いでいないが、「殺された」側は繋いでいる。
それは、日本でも原爆や空襲は忘れないのと同じこと。

それでも、当事者ではない私たちの世代だからできることもあるはずだ。
親や祖父母の時代の侵略の加害も、植民地化の真実も、はっきりさせる時期なんじゃないか。

どんな侵略をやってしまったのか、そして、どうやって植民地化されたのか。
冷静に知るべきなんじゃないか。

バラ色の終焉のライトグレーの薄明かりの中で、日々たゆたう日本人。
その方向を決めるのは、71年間封印してきた、侵略の加害と植民地化の真実を、ワンセットでひもとくことなのではないか。

8月15日敗戦の日
私はそんなことを考えた。





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2016-08-12(Fri)

「敵」ってなんだ? ~三宅洋平氏と安倍昭恵氏の件をめぐって~

なんだよ、まだ引きずってるのか? と言う人もいるだろうけれど、これはとっても大事なこと、本質的なことだと思うので、いくらでも引きずってやろうと思っている。

三宅洋平氏が参院選後に安倍昭恵氏とメシを食い、何回か話し合った挙げ句、沖縄県高江の座り込み現場に昭恵氏をアテンドした。
 これは、日本の中ではメザシの目ほどにもならない小さな出来事かもしれない。 しかし、この問題をめぐっておきた小さな嵐は、とても大きな問題をはらんでいる。

 三宅洋平氏が提起した問題は、ひとことでいうと 「敵vs味方」という対立軸の否定 だ。 それは私の想像ではなく、直接言葉にしてもいる。
 だから三宅氏に対して、「敵を引き込むとは何事か!」とか「安倍昭恵は島尻を涙ながらに応援してたぞ!」とかいくら批判しても、そもそも「敵」という概念がないのだから、まったくかみ合わない。
逆に、「敵vs味方」じゃダメと思っている人からは、「まだそんなこと言ってるのかよ」「古くさいな」というこれまたかみ合わない応答が返ってくる。

それが、かの事件をめぐって起きている現状だといえる。  そして、感情的な対立が静かに深まりながら、本質的な議論はなされていない。

 ■■
いいか悪いかは別にして、今議論すべきは 「敵vs味方」はナンセンスなのか? それを乗り越えるものはあるのか? ということではないか。

 私個人は、「敵」はいるし、峻別すべきだし、敵は優秀だし、よって常に疑ってかかるべし と思っている。
ただし、「敵」は常に固定されてものではない。 自分たちの命や誇りを守る ということに対して、危害を加えるものが「敵」なのであり、それは時と場合によって変化する。

わかりやすい最近の例で言えば、
大阪都構想においての自民党大阪府連。
参院選の野党共闘における民進党。
脱原発の小泉純一郎。
TPPに反対するトランプ。
  などなど、そのシーンでは敵じゃない、ということはよくある。 政治における「敵」というのは、時代劇に出てくる「父の仇」とは違うのである。
安倍晋三にしても、今のところ「敵」でないシーンを想像することはできないけれども、これから先何が起きるかはわからないとは言える。

 しかしだからこそ、「いま敵は誰か」を判別し、焦点を絞り、峻別することは非常に大事だ。 最も鋭い対立軸を設定し、そこで問題を問題として皆の目に見えるようにしなければ、辺野古にしろ高江にしろ他の全ての問題にしても、気が付かないうちに圧倒的な権力を握っているものの好きなように進められてしまう。
圧倒的なチカラの差があるという現実を見ずに、「対立ではなく話し合い」と弱い側が言ってしまえば、強い側にとってこんなにオイシイ話はない。 まさに、思う壺というやつである。

対立が先鋭化しているからこそ、話し合いという可能性もうまれることはある。 典型的なのが、ガンジーだろう。
インド全土に暴動が吹き荒れるなかで、非暴力不服従で人望を集めるガンジーは、イギリスから見ても「落とし所」だった。 イギリスから見たインドは、国内の暴動、日本のファシズム、中国の共産主義、という危機が迫っていた。その中で、ギリギリの妥協としてのガンジーだったのだ。 単純に非暴力は強い という話ではない。

もちろん、そうした情勢を的確に判断し、自らその戦略を実行したガンジーは不屈の天才政治家だとおもう。 ただ、非暴力を半ば宗教的に信奉し、ガンジーを聖人に祭り上げてしまうのは、裏があるなと感じてしまうのである。

■■
と、私は「敵vs味方」OK論者なのであるが、では三宅氏の提起した「敵vs味方」ではない とナンセンスと思っているかというとそうではない。  なぜならば、圧倒的多数の日本人が「敵vs味方」という感覚を持っていないからだ。

「問題」を感じている人は結構多いけれども、彼ら彼女らは「敵」がいるという感覚はたぶん持っていない。 それどころか、「敵vs味方」という構図を見せられた瞬間、「自分の世界じゃない」と感じているのではないだろうか。
このことは 日頃「敵vs味方」の現場で汗を流している人たちは、よくよく直視しなければならない。

私は、現場で頑張っている人に対しては、それがオールド左翼スタイルであろうが、ニューウェーブであろうが、敬意をもっている。
高江の現場から伝わってくる話を見聞きすると、まさにオールドとニューが融合した味のある運動が展開されているようだ。 運動のための運動ではなく、真剣に対峙する人たちが集まれば、こうしたことが起きるようだ。

その現場の人たちの気持ちを無視してやらかした、という意味では三宅氏のやったことの無神経さは弁護のしようが無いと私も思うけれども、ただ、高江の問題を現場から日本中に広げていくためにどうしたらいいのか、という観点で考えた時、先ほど述べた「ほとんどの日本人は、敵vs味方という構図を避ける」という現実は重い。

私個人は、だからと言って安倍昭恵に話をしても意味は無い、と思っているけれども、その個人の考えとは別に、「そういうことも含めて、数千万人に声を届けるにはどうしたらいいんだ」 ということを考えてみたい、とも切実に思う。

よって、私からの提案は以下の通り
・三宅洋平氏は 高江の現場の人たち対しては 気持ちを無視したことを謝罪するべき
・三宅洋平氏の提起した問題について、正面から議論すべき

「どうやって言葉を届けるのか」 そこから逃避してはいけない。


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2016-04-25(Mon)

北海道5区補選の結果をちょっと分析してみる

昨日の北海道5区補選、イケマキ候補の敗戦は残念至極。
とは言え、ここまで迫られたことに安倍晋三の心胆寒からしめたのは確かなようだ。

衆参同日選、首相見送り 熊本地震の対応優先
2016年4月25日 朝日

地震対策とか言ってるが、このタイミングなのだから本音は丸わかりだ。
候補者のキャラクターもばっちりで、野党共闘もそれなりに機能しているように、遠目には見えた。
たしかに、善戦だったと言えるのだろう。

しかし、善戦だったという総括からは何も生まれない。
現場を知らないものが言うのもおこがましいが、少し数字を睨んで分かることだけ書いておきたい。

資料は、開票結果NHKの出口調査北海道新聞の世論調査 それに古谷経衡氏の分析記事だ。

三つの基礎資料から数字を拾って一覧にすると下記のようになる。
20160425-1.jpg 
(クリックで拡大)

上の表の政党支持率はNHKの出口調査記事から推定したもの。
2行目の支持率(棄権含)は、1行目に投票率(57.63%)を掛けたもの。棄権の支持者もカウントした。
各候補者の獲得率は、各政党支持者の何割がその候補に投票したか。これも出口調査の文言から推定。ただし惜敗率が実際に近くなるように少し調整してある。

下の表は公示直後に行われた世論調査から。
政党支持率は世論調査の数字そのまま。
投票行動率は、それらの人がどれだけ投票に行ったかの推定。上の表の支持率(棄権含)との比較である。

こうしてみると、イケマキ候補の野党共闘は、取るべき票はしっかりまとめており、自民党はむしろ支持者が投票に行かなかった率がやや高い。また大地の票が大きく自民候補のお役に立った形跡は無い。
よって、趨勢としては自民が苦しく、野党が勢いのある選挙だったと、数字からも想像することができる。

ではなぜ勝てないのかと言えば、野党が取るべき票を取っただけでは勝てない ということだ。
古谷経衡氏の記事(野党共闘は成功したのか?北海道5区補選分析)に、前回選挙との比較が出ているが、要するに自民党は前回とほぼ同じ票数で、野党は前回の民主+共産の票数なのである。
つまり、これでは勝てないということは、最初から分かっていたことなのである。

だからイケマキ陣営は、あえて(見え見えなのに)政党色を薄め、旗を隠し、市民選挙のような装いを凝らして無党派層の積み増しを狙ったのだろう。残念ながら、その成果は出なかった。

表の最後を見ると、世論調査で無党派だった43.5%のうち、選挙に行ったのが約3割。
その中の約7割がイケマキ候補に投票しているので、要するに無党派の約2割は獲得したと言うことになり、それはたぶん前回とほぼ同じだった。

後でも書くが、政党を隠すなどというのは有権者をちとバカにしたやり方ではないだろうか。
民進と共産が実態だというのは誰でもわかること。それを表に出さないことが無党派の取り込みになるというような発想は、もうやめるべきだ。
無党派を獲得できない理由は、他にあるはずだ。そこから目をそらして、こんなゴマカシに逃げてはいけない

■■

この表をいじって無党派の投票率を50%まで上げると、獲得率が同じならばイケマキ候補は逆転する。投票率50%x獲得率70%=35%の無党派層から投票をしてもらえば、ギリギリ勝てる目がある。40%なら勝てる。
これを全体の投票率にすると、約10%アップで68~70%程度と言うことになる。

選挙にすら行かない人も含めた無党派層の40%に実際に自分に投票してもらうにはどうしたらいいのか。
これが、これから選挙をたたかうための、全国でほぼ共通した課題ではないか。

最近の投票率などを見ていると、無党派の40%とか投票率70%と言うと途方も無い数字に見えるが、実はあの2009年総選挙は投票率69.28%だった。わずか7年前だ。
途方もない数字なのではない。この7年間で何かが失われ、何かが劣化してしまったのだ。

それは、私は「リアリティ」だと思う。
政策のリアリティ。明日のメシなのか、絵に描いた餅なのか、ということ。
それは、候補者が本気かどうか ではない。
近い将来に政権を取る可能性が見えるかどうか だ。

圧倒的多数の有権者とは普通の生活者であり、日々に追われて生きている。
コイズミからアベノミクスに至るカイカクの犠牲になり、給料は下がり待遇は悪化し、もうノンビリ何十年先の政策を聞いている余裕はない。
明日、せめて2~3年で実現しそうな話でなければ、絵に描いた餅にしか見えないし、そんなものにわざわざ投票所まで行って票を入れようとは思わない。

北海道5区補選の場合、補選にもかかわらず本選と同じ投票率だったのだから、一般論で言えば充分高い投票率だったとも言える。
しかし、投票率も得票率も、ほぼ前回と同じだったと言うことは、あのイケマキ候補ですら、無党派層の目には絵に描いた餅にしか見えなかったのだ。

それは、候補や陣営の問題と言うよりは、やはり全国の野党共闘のもたつき感、バラバラ感のせいだ。全国ニュースを見ていれば、本気で政権とる気がないのは一目瞭然。
5区はたしかに野党共闘だけれども、実際は無所属だ。無所属ということは、国会に行ってもたったひとり。質問すらほとんどする機会がない。
無所属の候補がもし政権交代を言ったとしても、あまりにもリアリティが乏しい。

政権交代を目指すならば、政党を隠すなどと言うのは愚の骨頂だ。
政党が垣根を越えて協力し、そこに無党派の市民も合流する、という普通の姿を普通に見せればいいではないか。そうでなければ、政権をとって本当に政策を実現してくれるのだな、とは思えない。

繰り返しになるが、多くの有権者は「政権とりそうだ」「政権とる気まんまんだ」という臭いを感じなければ、投票には行かない。
ウナギの写真は食えないけれども、さばいて焼いていれば「近々食えそうだ」と言う予感がする。しばらくは煙の臭いでご飯を食べながら、我慢して待ってみようという気にもなる。

そこが、今回の北海道5区補選でも決定的に欠けていたということではないだろうか。


附記:ここで政党と書いているのは、今回の選挙に限って言えば既存の党のことだが、近未来を考える時は、既存の党だけでは無い。以前に書いたまったく新しい党の必要性とも関連する。漠然とした市民派や無所属ではなく、ポデモスやシリザのように明確に政権を目指す党でなければならない、ということ。





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2015-08-20(Thu)

山本太郎を第二の山宣にしてはいけない

2015年8月19日 参議院で日本の戦後史を画する質遅疑が行われた。
質問者は 山本太郎さん。





山本太郎議員が日本政府の「属国タブー」を追及!(IWJ)

彼の命がけの発言には、当選時からの覚悟がある。

太郎さんを守ること、そして太郎さんを広げること。それが焦眉の急だ。

2013年の当選直後に私が書いた記事から抜粋しておく。

(以下抜粋)

政治家というもののあり方、立ち位置が、これまでの「政治家」とはちがっている。

と同時に、山本太郎は身の危険を自覚しながら国会に乗り込む。
勝利の記者会見でも、万歳もせずニコリともしていなかった彼の姿を見た人も多いだろう。

86年前、やはり国会で孤軍奮闘していた山本という議員がいた。
山本宣治は1929年、治安維持法への国会での反対討論を封じられ、その直後に右翼に暗殺された。その時の日本人は、山宣を守らず一人にしてしまった。

山本太郎は、自分をウォッチングして欲しい、と言っていた。圧倒的な注目があることが自分の身を守る と。
意識的に注目するという意味と,視覚的にユーストなどで注目するという 両方の意味があるだろう。
いずれにしても衆人環視で山本太郎の身の安全をはからなくてはならない。
山本太郎を、第2の山宣にしてはいけない。

(抜粋以上)

なによりも孤立させないこと。

彼の発言が突出していれば、敵は容易につぶしに来る。
しかし、口々に同じレベルを叫び始めれば、抹殺することを躊躇(ちゅうちょ)する。

彼を守るとは、ひとりでも多くの人が、まずは「同感だ」と感じる人が、明確に同じレベルで語り始めることだ。
私たちは、もはや「対米従属に文句を言いながら戦後日本を享受する」というぬるま湯からあがり、「植民地からの独立」という正確なスローガンを掲げるべきだ。

「反戦と独立」 を曖昧さなく掲げるべきだ。



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2014-06-27(Fri)

政界のことが10分で分かる解説 「己を知る」編

彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危うし。

孫氏の言うとおりです。
私たちは、安倍は危ない、橋下は非道い などと言うけれども、よく考えてみれば、敵も己もほとんど理解していない。
なんとなく目の前に現れた者を「敵」と認識し、なんとなく隣にいるものを「味方」と思い込んでいる。

しかも勧善懲悪の単純思考で、「敵」と「味方」に二分しなくては気が済まない。
それどころか、昨日まで「味方」だったものが、ちょっと気に入らないといきなり「敵」に見えてきたり、ついこの間まで「敵」だったものを褒めそやしてみたりもする。

結局、戦後の歴史の中で、攻められれば必ず負けてきたのは、ここに原因があるのではないでしょうか。
いま、いまわの際まで追い詰められているこの時だからこそ、遅きに失しているとはいえ、それでも改めて敵と味方を認識する必要があります。

「敵を知る編」は先日のエントリーを見てください

■■

敵を知る編で書いたとおり、敵は一枚岩ではないし、「敵は全部敵!」と聞く耳も持たない潔癖症は、決して好ましい態度ではない。敵の亀裂に指を突っ込んで、少しでも好機を作り出すことも必要だからだ。

この敵に対する強硬な態度の裏返しで、味方に対しても、白と黒にはっきり分けようとする傾向が広く見られる。
あの都知事選に顕著だったように、昨日まで同じ方向を向いていた人どおしが、口を極めて罵りあうということが珍しくない。

だいたい私たちが日常的に経験している組織というのは、このような形のものだ。

20140627-2.jpg

会社も自治会もお役所も、ほとんどがこういう縦割り上下関係になっている。
こういうタイプのは、責任の所在がはっきりしているときは有効に機能するけれども、往々にして無責任の体型になってしまい、原発が爆発しようが戦争を始めようが、誰も責任を取らない。

この形にあまりに慣れきっているので、こういう形に馴染まない市民運動や政治運動でも、ついついこういう発想をして、勝手に暴走してみたり、逆に何か言われないと何もできないということが起きる。
自立と共生にはほど遠い状況が、どの勢力に限らずある。

さすがにこれではダメだろうと気がつくと、こういう形になる。

20140627-3.jpg

立場的にはフラットになり、世話人や理事が大きな権力を振るうことはなくなるし、各メンバーの自主性も尊重される。
だが、今度は逆に、そもそもの目的や目標があやふやになってしまう。その割りに、メンバー間の同質性が言外に求められ、風土の合わないものは疎外されていき、やがて感情的な問題に発展して分裂し、ややこしい禍根を残すことになる。

これらの数多い失敗例の反省に立つと、このような形が求められいるのが分かる。

20140627-1.jpg

共通目標を明確にした上で、連携はゆるやかに。
ポイントは、それぞれのメンバーが点線の内側と外側を使い分けるということ。内側の活動をするときは最大公約数で動き、外側の活動をするときは好き勝手にやる。
他のメンバーが外側で気に入らないことをしても、イチイチ文句つけない。

もう一つのポイントは、共通目標をしっかりと決めることだ。
抽象的な目標では各メンバーが使い分けするための「行動指針」が定まらない。かといって、あまりに限定的だと身動きが取れなくなる。
とにかくこれができていないと、あっと言う間に組織は崩壊する。

この組織原則は、ひとつの市民運動や政治運動にも適用できるし、色々な運動体の連携時にはもっと必要であるし、政治的な野党共闘においても同じことが言える。

■■

現在の状況を眺めてみる。

まずは、共通目標を何にするかだ。それによって、どこまでが「味方」なのかが変わってくる。
味方というのは、感情や好き嫌いで決まるのではなく、その目標に合致するのかどうかで決まるのであり、時と場合によって同じ人や団体が敵になったり味方になったりするのは当たり前の話だと言うことを、すぐに感情に流れる日本人はよくよく肝に銘じておきたい。

共通目標は脱原発とか解釈改憲反対とか色んなことが考えられる。
私は一番上位に置くべき共通目標は、「国民の生活が第一」と「政権交代」だと考えている。

「国民の生活が第一」というスローガンは小沢一郎氏の専売特許で他党は与しにくいだろうから、意味として同じならば言い換えてもいい。
「政権交代」は言うまでもない。政権交代しなければ「国民の生活が第一」は口先だけに終わるし、安倍の暴走も止められない。

話がちょっとそれるけれども、「国民の生活が第一」というスローガンは、あまりにも練り上げられていて、実は他に言い換えがきかない。なにせ、文字の一つ一つに意味がある。

「国」 対米従属からの解放
「民」 脱官僚依存
「の」 国民が主体
「生活」 経済や安全という抽象でななく日常の暮らし
「が」 他でもないこれが
「第一」  イチバン

これをどうやって他の言葉に言い換えたらいいのか私には分からない

閑話休題
「国民の生活が第一」と「政権交代」を最も主要な共通目標として設定すると、おのずと誰が味方で、誰が敵で、誰が「味方ではない」かが見えてくる。

既存の政治勢力に限って言うならば、自民党、公明党が全体として敵方なのは言うまでもない。あの世の党(じゃなくて次世代の党だったかな)は限りなく自民党に近い。みんなの党も、なりふり構わず自民党にすり寄ることによって分裂と代表辞任を引き起こしたわけで、ほぼ自民と分類できる。

ややこしいのは橋下維新、結いの党、民主党の前原グループだ。この連中は、自民党の補完勢力なのは確かだが、そのやりかたは直球ではない。この連中の共通項は、新自由主義と米国の言うなりという点だ。そして、親分から与えられていりる使命は、野党の乗っ取り、分裂である。
新自由主義者がぜんぶ自民党に行ってしまったら、数は少なくとも野党は結束してしまう。それを防ぎ、惑乱し、戦えなくするためにあえて非与党の立場に固執する。俗に言う 「ゆ」党である。

では、味方はどこにいるのかというと、本気の本気は小沢一郎と山本太郎ということになる。より大きな枠組で見れば、社民、社大、民主の一部日和見、自民党のごく一部ということになる。
理想的には、民主党が分党し、自民から辛抱たまらん人たちが飛び出して、野党共闘ができれば少しは形ができるが、民主党が分党するという可能性が一番の問題だ。

必ずしも前原たちの新自由主義、従米が第一の勢力に賛同しない議員は民主党の中にも多いとは思う。たぶん、数だけ言うなら過半数かもしれない。しかし、何が足りないかというと、根性が足りない。半数の議員が立ち上がれば維新のように財産を分割して分党することができるはずだが、そこまでやろうという議員が、ただの一人もいない。
それができるくらいなら、一昨年の7月に決起しているだろう。

では共産党はどこに入るのか。
これは、別枠に入れておくのが私は得策ではないかと思う。やたらと敵視してケンカを売るのではなく、かといって一切あてにはしない。300~500万票は基礎控除と思うしかない。

共産党は政策的には何も文句はない。ただ一点、「政権交代」をまったく目指していない。その点では敵対する立場ですらあるので、最初から味方の内にはカウントしない。
300選挙区に通らない候補を立てて比例票を集めることで生きると決めているのだから、票が割れるとか嘆くよりも、そんな票は最初から無いと思った方がいい。

■■

ということで、とにもかくにも問題は民主党だ。
そして現実的には、民主党がどうにか役に立つ可能性は限りなくゼロに近い。

にもかかわらず、小沢さんは一貫して民主党に野党共闘の旗頭になれと言っている。無駄じゃないのかと思いつつ、しかしその真意も分からないでもない。

選挙には金がかかるのだ。

いくら小選挙区でも供託金600万をふくめて2000万くらい無ければ話にならない。x300で60億だ。
参院選とあわせると100億円!!

生活の党に投票した100万人が、ひとり1万円献金しなければ100億円にはならない。
1億や2億なら、現有勢力が全国で頑張れば集まるかもしれないが、100億は想像もつかない・・・

現在の生活の党は、すっかんぴんだ。
もちろん金庫の中身まで知るよしはないが、小沢さんが赤坂の個人事務所を売却して資金を賄っているのを見ても、苦しい台所事情なのはまちがいない。

だから、莫大な資金を貯め込んでいると見られる民主党をどうにかしたいのだが、そのことは前原たちも先刻承知の助で、海江田がグラッと来たらすかさずに揺さぶりをかけてきた。
4月28日の会見で海江田は各党と個別に協議を進めると発言。この段階では、生活の党も含まれていた。すると、その直後から前原が「野党共闘が進まない」と言って海江田おろしを激化させた。

前原の言う「野党共闘が進まない」というのは、「維新と結いとだけ共闘せよ」「小沢一郎を排除せよ」と言う意味に他ならない。
このように、まともな野党共闘をさせないための専門チームが、米国の後押しをうけて党内でもっとも声の大きなグループとして存在しているのだから、前原や長島や野田や岡田や細野や、この連中を外科手術で取り除くことができなければ野党共闘に希望を託すことはほぼ無理だろう。

■■

そうなると、現実的には2年後に政権を取りもどすのではなく、その次にかけることになる。

それまでに、どんな艱難辛苦があるか、どれだけの命が失われるか、考えると立ち上がれないくらいの重さがある。それでも、その暗く重い時代に、少しでも希望を、選択しうる途を残すために何ができるのか。
もう我慢できない、と羊のような日本人の堪忍袋が切れたときに、受け皿を残すことができるのか。それとも、そこにはファシズムの暴発しか途は残されていないのか。

このように考えざるを得ないのかもしれない。そこまで行かないことを熱望しつつも、他の可能性が私にはまったく見えない。
もし仮に、ここで小沢さんが前原グループの軍門にくだり、刀を折って「共闘」に入ったならば、状況は取り返しのつかないことになるだろう。わずかでも残るはずの選択肢が、いよいよもって消滅する。

共産党とファシズムが躍進し、血と消炎のなかで戦争の時代が始まる。
それ以外の可能性が無くなるような、そんな未来にだけはしたくない。そのために、私たちの「味方」は大事にしたい。

議席数はともかくとして、意外と「味方」は多い。右から左まで、幅広く存在している。
そうした人たちとつながるために、関西で「国民の生活が第一」を真剣に考えている人たちが集える「場」を作りたい。そこを軸にして、他の党やグループとも連携できるようにしたい。

具体的に何ができるのか、はっきりしてきたら、ここでも発表するのでぜひ注目いただきたい。



■■ お仕事のお知らせ ■■

こんなセミナーやります

7月12日(土) 13:30~
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2013-04-08(Mon)

できもしない地震予知より、目の前の悲劇予知能力が必要だ

このまま行くと、夏の参議院選は 経済政策と憲法改正が論点になるだろう。

しかし、ハッキリ言ってどちらも本気ではない。
最重要な課題からの、スピンオフ。目くらましにすぎない。

経済政策、いわゆるアベノミクスが茶番なのは言うまでもない。
札を刷って市中銀行にくれてやるだけの政策を、政策と呼ぶのもばからしい。行き場のないカネが渦巻いて、銀行のブタ積みが激増し、結果、そのほとんどはアメリカ国債に消えていく。

米国の財政を支えるために、日本が札をする。それだけのことだ。
物価は上がり、給料は上がらず、正社員でもすぐクビにできるようになる。ただそれだけの結果が待っている。

改憲は、できるならやりたいと思っているだろうが、無理にやる必要もないはずだ。なぜなら、すでに憲法は奴らの足かせになっていないからだ。
憲法違反をしても、べつに何もおきないからだ。

裁判所は、あたかも三権分立が生きているかのように見せるために、衆議院選挙の無効判決を出したが、それ以外では国に憲法を守らせる機能は放棄している。というか、自ら憲法など守る気がない。
教科書的に言うと、憲法を守らせるのは裁判所のように思われているが、じつはそこから違う。

憲法というのは、国家と人民の契約書だ。
妥協の産物ではあるが、とりあえずそれが守られている間は、お互いに休戦しよう、という休戦条約なのである。

逆に言うと、憲法を守らないと革命おこすぞ、というプレッシャーがあって初めて憲法は守られるのだ。
国が憲法違反をしようものなら、数百万人が首相官邸に押し寄せて、言うことを聞かなければそのまま占拠するくらいの背景があって初めて、国は憲法を守るのだ。

戦後の自民党政権は、何やかんや言って、革命の可能性、または亡霊におびえて憲法を気にしながら統治してきた。少しずつはみ出しながらも、完全に無視することはできずにきた。
それを、ざっくりと踏み越えたのがコイズミだった。やつは「憲法?そんなものあったっけ?」 くらいの勢いでこれ見よがしに踏みにじって見せた。

そして、それに対する日本国民の答えは、2009年の政権交代だった。
それ以上でも以下でもなかったのである。

自民党は慌てたかもしれないが、米国を筆頭にコアな支配層は密かにほくそ笑んだに違いない。
なんだこの程度か。政権交代を主導した小沢一郎さえ潰してしまえば、あとは日本人なんて何も怖くないぜ。何十年も革命の亡霊を恐れてきたなんて、あ~あムダなことをしたもんだ と。

そしてその後どうなったかは、皆さんの知るとおりである。
ところが、そこに3.11が襲った。
筆舌に尽くしがたい惨禍に加えて、原発が爆発した。
いくら日本人を舐めきった連中でも、これには慌てたことだろう。一つ間違えば暴動になる。そう考えたはずだ。

あまりに悲惨さに、自衛隊といえども暴動に同調する可能性がある。少なくとも、被災者に銃を向けることはできないだろう。
だから、米軍が直接出動した。事故直後に横須賀からも退避した米軍が、わざわざ被曝しに行ったのは、もちろんトモダチだからではなく、暴動鎮圧を想定してのことだったはずだ。
被曝しながら作戦に従事した個々の兵士には何の恨みもないし、むしろ感謝する気持ちはあるけれども、作戦の真意はそういうことだ。

ところが、日本人は筆舌に尽くしがたいほど、、、おとなしかった。
どんなに痛めつけられ、捨てられ、屈辱を味わっても、決してオカミには逆らわない日本人。
20万人集まった集会の主催者は、警察の車に乗って解散を呼びかける、摩訶不思議の国 日本。

あの光景を見て、コア支配層は、まず絶句しそして高笑いしたことだろう。
(主催者を揶揄しているのではなく、何もできなかった我が身を恨んでいる。)
そして悟った。日本人に対しては、何も遠慮する必要はない。憲法なんて、もう一切守る必要はない。
すでに、改憲の必要すらない と。

憲法という契約は、遅くとも2012年7月に、一方的に破棄された。今、日本で違憲状態なことは、いくつかの選挙区だけでなく、枚挙にいとまがない。でも、それは何の支障もなくまかり通っている。すでに、憲法は失効しているも同然なのだ。

憲法という契約を破ったら革命だぞ という力が民衆にないこと、それをコア支配層が確信したこと。この2点をもって、憲法は実質的に無くなった。

では、なんで必要のない憲法改正をことさらに言い出すのか。
安倍晋三や石原慎太郎の狙いは何なのだろうか?

それはもちろん、最重要問題から目をそらす、撒き餌としての改憲騒ぎだ。
改憲と言えば、猫も杓子もそれに夢中になることを、コア支配層は知っている。
むしろ、そのためにこの憲法という契約書は作られたという一面もある。

 奴隷の民主主義と 奴隷頭の帝国

下手くそなサッカーチームは、右サイドにボールを蹴り込まれると、全員がボールに殺到し、逆サイドに振られたとたんに敵はノーマークで悠々ゴールを決める。
同じことがおきようとしている。

敵にとって改憲は、できれば儲けものだけど、実質的にはどうでもいい課題だ。
そこにウルサイ連中を全部引きつけておいて、その瞬間に逆サイドにパスを出す。
逆サイドとは、被曝隠しとTPPだ。

今の日本で、どうにもこうにも誤魔化しようのない惨劇は、被曝とTPPだ。
普通に考えれば、どうしても許容範囲を超えている。
暴動まではいかなくても、また政権交代がおきるくらいの負のインパクトはある。

そこから目をそらすためのでっかい目くらましが、石原や安倍の改憲騒動なのである。
もちろん改憲はさせるべきではないが、一番大事なことは、最重要課題を見失わないことだ。
被曝とTPPがもららす、3.11をだめ押しする悲惨な結果を、一人でも多くの国民が知ることだ。

日本人には、今こそ予知能力が必要だ。
それは、原発にお墨付きを与えるためのできもしない地震予知ではなく、自らにふりかかりつつある不幸を予知する、悲劇予知能力だ。


■■■■■お知らせ■■■■■

十津川杉の家 構造見学会
4月13日(土)12:30~13:30
場所 大阪市福島区玉川
参加希望の方はメールにて
 info@mei-getsu.com





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2013-01-17(Thu)

安倍・被曝強制内閣とたたかうために(中編)

年末に空元気を出して乗り切ったせいで、年明けからぜんぜん馬力が出ない。ちょい鬱状態が続いている。
それに、あれこれと細切れの仕事が山のようにたまってしまい、とにかく一日休みが欲しい~~と切実に思うのだが、なかなか一日まるまるオフになる日がとれない。

先週末はようやくのことで六甲菜園に出かけることができたが、夕方から打ち合わせがあり実質2時間半しかいられなかった。
しかも、持って行った炭が湿気ていて、セブンイレブンのインスタントうどんすきを炊くのに2時間取られてしまった。あ~あ。

そんな話はともかくも、世の中は悪い方へ悪い方へと、すごい勢いで押し寄せている。
2年前の津波は天災だが、この安倍津波は人災だ。いや、災害ではなく犯罪だ。

それにしても、往生際が悪いようだが、寝ても覚めても思い起こされるのは、なんであんなに自民党が圧勝したのか だ。
自民党の得票は減っているとはいえ、ファシスト維新と合わせれば、やはりかなりの圧勝だ。
不正選挙の可能性もあるにしても、それを差し引いてもやはり、日本人には学習能力がないのか? とついつい思ってしまいそうになる。

だが、やっぱりそれでも、この結果をちゃんと受け止めることからしか、前に進むことはできないのだろう。
1ヶ月間、ずーと考えてきて、以下のごとく思い至った。

■■
何やかんや言っても、日本はまだ豊かだし平和だ。
こんなこと書くと、困っている人には怒られるかもしれないが、相対的に言えばそういうことだ。
本当に貧困で平和のない社会は、こんなものじゃない。

デモをすれば叩き殺されるとか、逮捕されたら二度と帰ってこないとか、歴史上で独立を勝ち取ってきた国というのは、そういう状況を乗り越えてきている。これが「普通」の姿だ。
今の日本が平和だと言うことを、むしろきちんと認識すべきだ。

ことさらにこう言うのは、この平和こそが、日本に押しつけられた最高度の支配ツールだからだ。
日本を占領して支配者になった米国は、残虐な侵略と自爆テロを繰り返すファナティックな軍事国家である日本を支配するにあたって、もっとも強力なツールとして「平和」を用いた。

たしかに、中国侵略と太平洋戦争は、大きくは欧米による誘導に日本がまんまと引っかかったという側面もある。
しかし、行ったことはそれで帳消しになるわけではない。戦争責任は、厳然として日本にあるし天皇にもある。

だから、本来は敗戦と同時に、日本は日本人自身によって総括し、反省し、謝罪すべきだった。
それが人の道であることは言うまでもないし、さらに、そうすれば、米国の空襲や原爆という大虐殺を、正面から非難することができた。
経済的にははるかに苦しい道のりになっただろうが、朝鮮、韓国、中国とも、普通の隣人として対等に対話も交渉もできたはずだ。

ではなぜ、敗戦時に日本は戦争の総括ができなかったのか。極東裁判でお茶を濁し、それ以上は不問に付すという中途半端なことになってしまったのか。
長らく私は、これは日本人の情けなさだと思ってきた。

ところが、どうもそうばかりではないようだ。
米国は日本を支配するにあたって、操縦するためのツールを仕込んだのだ。

■■
それは下記のようなものだったと考えられる。

①戦争責任を中途半端に不問にする
すなわち、憲法1条と9条のセット販売だ。これは片方では絶対に存在し得ない。1条〔天皇の地位と主権在民〕は戦争責任を問わない宣言であり、9条〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕は戦争責任の代替である。
これにより、日本は戦争責任というアキレス腱を未来永劫もち続けることになった。

②経済的に豊かにする
江戸時代以来の日本人の教育(読み書き算盤)のレベルは高く、苛烈な収奪の支配をすると、むしろ革命の可能性が高いとみて、徹底した愚民化政策をとった。
食うに困らないということと、論理的な思考をさせないということを、これもセット販売で推し進めた。結果、何も考えなくてもメシは食えると思っている人間が1億人ほど誕生した。

③領土問題の火種を残す
一方で、北方4島、竹島(独島)、尖閣(釣魚島)など、講和条約においてわざとアイマイに規定して国境線を明確化しないことにより、周辺国と紛争を起こすようになっている。弱みをさらしたまま領土問題で周辺国から責められるように、はじめから仕組まれている。
そして、日本で反米や独立の動きがでてくると、右翼が台頭し混乱させるようにセッティングされている。
石原慎太郎なんていう生き物がまさにその典型だ。

④汚職政治をことさらに演出する
政治に汚職があるのは事実だが、ことさらにそれを演出することで、「政治は汚い」という観念を植え付け、日本人に政治を嫌悪させる。これが自民党長期独裁の原動力であり、今回の自民党圧勝の大きな要因である。
戦後の大きな疑獄事件は、すべて米国の影があることは論を待たない。これは、その政治家潰しであるのみならず、国民の政治意識を殺し、問題意識のある人びとを政治の力から遠ざけるという明確な意図がある。

基本的に、今の今でも日本はこの仕組みの中にある。
これらのツールで自由自在に操られている。
その極致に至っていると言ってもいい。

ただし、経済的な豊かさについては、総本家の米国そのものがかなり危うくなっているので、わざわざ豊かにしてやるということはもはや絶対にない。
逆に、今まで太らせてきた家畜を屠殺して食うように、日本から吸い上げようという動きに、1990年代の後半からはハッキリを変わっている。

だけれども、世界基準で見れば日本はまだまだ遙かに経済大国であり、とんでもなく豊かな国だ。
平均的に見れば、モノとカネはものすごく豊かな国だ。
これからそれが吸い取られていく運命にあるとしても だ。

だいたい、ストライキもせずに食っていけると信じているという、度し難い平和ボケが当たり前になっている。
経営者の立場で考えたら、会社が儲かったら会社の利益にすることはあっても、要求もされないのに社員の給料に回すわけがない。そんな慈善活動をするわけがない。あたりまえだ。

景気が良くなれば、借金を返し、会社の利益を上げ、株主に配当し、役員のボーナスを増やし、せいぜいパソコンを買い換えたり労働環境の効率化を図るくらいで、何の得にもならない社員の給料を上げるという動機など存在しない。
ところが、景気が良くなれば自動的に給料が上がる と単純に信じている人がたくさんいるのだからビックリする。

闘わなくては食っていけない というのが世界の常識だ。
その常識がわからないほど、今の日本は平和で豊かなのだ。

■■
この三種の神器ならぬ四種の神器を米国とその配下である日本の支配層が手にしている限り、なかなか簡単には事態は打開できそうにない。

本当は、日本がまだ今くらいの経済力を残しているうちに、改めて戦争の賠償をふくめてきっちりと謝罪するべきなのだ。
経済的には苦しくなるが、後ろめたい思いをせずに、誰に遠慮することなく自分の権利を主張できるようになる。
混乱マシーンの右翼に騙されずに、自分たちがどうやって生きていくべきか、生きていきたいか、喧々がくがく議論することができる。
そうなったとき初めて、自分たちで憲法も作ることができる。

しかし、その道の前には壮大な愚民化政策が立ちはだかっている。
誤解のないように断っておくが、愚民化政策というのは、国民が愚か者になる政策ではない。自分でモノを考える必要のない状態、あたかも愚か者かのようになってしまう政策のことだ。
端的に言って、メシが食えていればモノを考えないのは仕方がないのだ。

被災したり、被曝したり、失業したり、家族が過労死したり、頭の上に戦闘機の爆音が鳴り響いたり、そんな状態になって初めて、それもどうにも自分を誤魔化しきれなくなって初めて、モノを考え始める。
これは、人間の本性であると思う。これを責めても仕方のないことだ。

その意味では、日本は津波で何もかも流されたり、家族を抱えて失業したり、愛する人が過労死したり、オスプレイが今にも落っこちそうに自分の頭上を旋回している人は、まだまだ相対的に少数派なのだ。極少数派なのである。
だから放っておいて良いという話ではない。もちろんそうだ。
それぞれ問題について、抗議の声を絶やすわけにはいかないし、自分で自分の身を守ることも欠かせない。

その意味では、前編に書いたように、まずは内部被曝を知り、いかにして避けるのか、自らの命の基礎を築くことも重大事だ。
土曜に迫っているこの学習会にもぜひ参加していただきたい。

「放射線から命を守る医師の話を聞く集い」
1月19日(土)13:30~ ドーンセンター(大阪)
主催:避難者と未来をつくる会

被曝労働者の診療を続けてこられた村田三郎先生の講演は、非常に貴重な機会だ。世界的に見ても被曝医療の第一人者の村田先生は、実務を優先されてあまり講演や著作の活動をされていない。今回は、正月の間に最新の情報を含めた資料を作成していただいた。これを逃すのは本当にもったいない。

■■
ただ、たとえば投票という行為であれ、極少数のために過半数が行動するということは、たぶんない。

悲しい現実だけれども、善し悪しは別にして、そういうものだということは踏まえておかなくてはならない。
万人は一人のために なんていうキレイゴトは、童話の中にしか存在しない。
そういう現実の中で、ではどうするか を考えなくてはならない。

もちろん、よくよく考えてみれば、大多数の日本人の頭上にオスプレイは飛ぶだろうし、過労死は時間の問題かもしれないし、いつ何時失業して食うに困るかもしれない。
10数年に一度は大震災の起きるこの国で、被災者にも被曝者にもならないと考える方が難しい。

しかし、そこがガッツリと60年間ぬるま湯につけてふやかしてきた甲斐あって、物事を深刻な方には決して考えない「ポジティブ」な人が全国民の半分ほどいらっしゃる。
まったくニュートラルというか、問題とか何とか、そういう概念すら持たない人が、たぶん2割。
正反対に、完全にあきらめきっている人が2割。
そして、何とかしなくちゃと焦っている人が1割。

それが、60年間にわたって愚民化政策で甘い生活を送ってきた日本人の現実なのだ。
嘆いても仕方がない。
と言うか、それが人間として正直な姿なのだろう。

この現実から前に進むためにはどうしたらいいのか。
結論を言ってしまえば、粘着質に闘うしかない。

7月の参議院選挙でも、次の総選挙でも、たぶん風は吹かない。
風はマスメディアが握っているのだから、どう転んでも風は吹かない。吹くわけがない。
先の選挙と同様に、逆風だけが吹きすさぶ。

そこで情報を伝え、少しだけ未来のことを伝えて行くには、1万人の伝道師が手と足と口を動かすことだ。
1億人の1万分の1の人びとが、動き始めれば空気を変えることができる。

今はまだ行動し発信する人びとは千人とか2千人くらいのものだろう。
これが、5倍から10倍になれば、世の中の大勢を変化させることができる。
これは、官邸前に参加するとか署名を書くとかブログで気炎を上げるとかのレベルからもう一歩進んで、チラシをまいたり、集会を企画したり、情報拡散のためにリアルで行動する人のことだ。

ちなみに、よほど発信力の大きなサイト以外は、ネットだけでは限界がある。
逆に言うと、限界があるから今のところネットはある程度自由なのだ。
もしこれが、圧倒的な世論に影響が出るようであれば、日本でもあっという間にネットは規制される。

だから、ネットの世界を飛び出して、リアルの世界で情報を広げることをする必要がある。
ネットは、その人材捜しのために活用すべきだ。
(これの文章も、そのために書いている)

■■
そして、その行動市民が政治を活用することだ。
政治市民になることだ。

先にも書いたように、「政治は汚い」という洗脳も、日本を支配した米国による刷り込みだ。
そしてそれは、良識派とか市民派と言われる人に、非常に深く浸透している。それが洗脳だということに、なかなか気がつかない、ものすごく強烈な洗脳だ。

その典型が、「オザワ」という単語を耳にしただけで、論理的な理由もなく顔をしかめる市民派の人びとだ。
その挙げ句に、投票するところがない、とか嘆いたりするのである。

市民運動に関わる人たちは、問題の所在には気がついているし、行動的でもある。
しかし、政治を嫌悪するあまり、結局は何の力にもならずに、こう言っては申し訳ないけれども自己満足に終わってしまっているケースが少なくない。

政治とは、予算と法律を執行する権力であり、物事を実現する力だ。
営利事業以外で、一定規模のことを実現しようとすれば、どうしても政治を動かさざるを得ない。
その政治を嫌って、「特定の政党とは関係ありません」なんてことを得意げに掲げているようでは、支配者の皆さん大喜びだ。

■■
とは言え、60年越しで作られてきた支配体制を、そう簡単に崩せるものではない。
政治の側にももちろん問題はオオアリである。(これは後編に)

それでも、とにかくこの方向で動き始めるしかない と思う。
1万人の行動市民を。
そして、その行動市民が政治を活用すること。

そのためには、歴史的に交わってこなかった市民運動家と政治家が、直接話し合い、お互いを知り、その違いも含めて理解することから始めることだ。
そして、その過程そのものを、行動市民を増やしていく機会にしていくことだ。

そんな思いで、この企画をやりたいと思う。
2月1日(金)の夜に、大阪まで出てこられる人は、ぜひご参加いただきたい。

***************************************************
2月1日<ライブミーティング>行動する市民x再起する政治家

テーマ あきらめていいの?脱原発の未来

日  時 2013年2月1日(金) 17:30~20:15

会  場 大阪市立社会福祉センター 第1会議室 (定員100人)
      大阪市天王寺区東高津町12番10号(近鉄上本町・地下鉄谷町9丁目)

主  催 避難者と未来をつくる会  

協   催 政治を市民の手に!プロジェクト

パネリスト
     西山祐子さん 避難者と支援者を結ぶ京都ネットワーク「みんなの手」代表(福島から避難)
     高橋もとこさん 福島の子どもたちを放射能から守ろう・関西/吹夢キャンプ実行委員会
     服部良一さん 前衆議院議員 
     中村てつじさん 元衆議院議員 
     コーディネーター 山岸飛鳥 避難者と未来をつくる会世話人/ブログ「反戦な家づくり」

会  費 500円

申  込 メール garekikarahito@yahoo.co.jp
       電 話 070-5669-3545(くろこうち)
       F A X 03-6779-4538

総選挙の結果は、残念ながら脱原発の願いとは正反対になってしまいました。しかし、これで諦めるわけにはいきません。そこで、原発ゼロを掲げて選挙をたたかった政治家の方々と、放射能から命と未来を守るために行動する市民との、公開ミーティングを行います。 目的は二つです。

 ①行動する市民と再起をめざす政治家との相互理解、交流をはかり、今度こそは脱原発の民意を国会に送るためのパワーとしていく。
 ②被曝と避難の問題、わけても食品や呼吸からとり込む内部被曝の危険性についての知識を共有し、真の被災者支援につなげていく。

 12.16の選挙は政策実現のための市民ボランティアが数多く参加した画期的な選挙でもありました。長らく分断されてきた市民と政治家が、ようやく共に動き始めたこの流れを止めることなく、両者の関係をより緊密に築いていくためのきっかけにしたいと思います。

 撒き散らされた放射能は、政府が発表する避難区域どころか、福島にとどまらず広範囲に広がっています。また、毎日10ベクレルのセシウムを摂取すると1年後には1000ベクレルを越えて体内に蓄積されると、ICRPの資料ですら指摘しています。
 被曝と避難の問題は、脱原発を願う人の中でもまだ充分に認識されていません。一般の認識をはるかに超えた、汚染の現実と内部被曝の危険性を知ることが緊急に必要です。そして、放射性物質のこれ以上の拡散を防ぎ、汚染地に住む少なくとも数百万人の避難を実現させなくてはなりません。また、様々な困難をかかえながら、現在避難されている方々への支援も急務です。

 パネルディスカッションの形式をとりながら、オーディエンス参加型のライブミーティングにできればと考えています。限られた時間ではありますが、ぜひご参加ください。
 なお、会場準備の都合上、できるだけ下記の連絡先までご予約いただけましたら幸いです。(もちろん当日参加も可です)

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2012-02-22(Wed)

どうでもいいはなし

たまにはどうでもいい話を

小学生の頃から、町に出ると本屋に行くのが定番だった。
何十年もつづけた習慣が、昨年の3月以来途絶えている。

本屋に行かないわけではないが、意味もなく本を眺め歩いたり、ダラダラと時間を潰すことはなくなった。
本屋にいても、昔のように気持ちが落ち着かなくなってしまったのだ。
むしろ、並んでいる本を見ていると、なぜかイライラが募ってくる。

書架の本を乱暴に大別すると、「こんなことがある」と書いてある本、「おれはこんなにすごい」と書いてある本、あとはフィクションだ。
フィクションはまだいい。それでも、荒唐無稽なのは見る気もしないし、かと言ってやたらとリアルな経済小説はやはり読みたくない。
自然とハズレのない推理小説なんかに流れていく。何も考えたくないときは北森鴻か逢坂剛。
(北森鴻は一昨年の末に亡くなっていたことを、先日知った)

でも、こんな小説で現実逃避をしても限界がある。何よりも、ただでさえ足りない睡眠時間を削ってしまうので、体力がもたない。
で、否応なく娑婆に戻ってくると、「こんなことがある」と、「おれはこんなにすごい」がオンパレード。もうええ! と言いたくなる。

たしかに新聞やテレビがウソ八百並べるから、本や雑誌は時事的な問題でも貴重な情報源になっている。原発事故についても、たくさんの本がこの1年足らずで出版された。
いままでゲンパツなんて関わりになると怖いって思っていたような人たちが、ホントのことを知ったことは大きい。

でも、誤解を恐れずに敢えて言うと、「こんだけひどい」という事実をこれでもかこれでもかとねじ込まれると、「もうわかったから、勘弁して」という気持ちになってしまう。
解決策どころか、解決の希望のカケラもない今の状態っていうのは、気持ちをキープするには相当ヘビーだ。

実は、そのへんに橋下徹のようなファシストが跳梁跋扈する原因がある。夢も希望もない、あまりにもヘビーな状態におかれると、多くの人は(ほとんど詐欺と分かっていても)現実逃避させてくれるリーダーに依存してしまう。

そういう目で本棚を眺めてみると、橋下ほどではないにしろ、まあ似たり寄ったりのが並んでいる。まあ、どうしてこんなにエラそうに人にものが言えるんだろう、てな調子の本がどこまでもどこまでも続いている。

同じ原稿を何回も何回も使い回して、「てにをは」とちょっとしたエピソードだけ入れ替えて新しい本にして、売り続ける。
ただの思いつきを、まるで世界の法則のように断言して、何でもかんでもその論法で説明してしまう。

荒稼ぎする自分を見る醒めた自分はいないのだろうか。
いったい、どうやったらあんなハイテンションを維持できるのだろうか。
文章に、ウソが混じったと感じた瞬間に、書くことが苦痛にならないのだろうか。

羨ましいと感じることもある。
自分の提案に、絶対の確信を持って、喧伝しまくることができたら、どんなに幸せだろう。

しかし、どんなに良い提案を考えても、かならず欠点はある。100%なんてアリエナイ。
まして住まいのような複雑系では、常に答えは比較級でしかない。
ベターはあるが、ベストは存在し得ない。

世の中何でも同じだと思う。
けども、そうやってゴニョゴニョ言っているのは、ぜんぜんウケない。
ウケないけれども、今日もまたゴニョゴニョと言い続けるしかないんだな。
あ~あ
2012-01-01(Sun)

ふゆのひ


ふゆのひは まあるい

りゅうのなみだ ひとつ

いきるものへ

いきたものへ


    2012年正月

2011-08-01(Mon)

大峯山に登拝 (復路編)

7月30日に大峯山に登拝してきたレポート
山頂までの艱難辛苦は、往路編をどうぞ

霧雨の降りしきる大峯山の山頂で、まずは汗だくのシャツを着替える。
とっとと着替えないと、もれなく風邪引きがついてくる。

その後、軒を借りて弁当をかけ込む。
じっとしていると寒いので、あまりゆっくり休憩していられない。
付近の散策に出かける。



徒歩30秒で頂上の立て札。ちなみに、大峯山は、その一帯を指す言葉でもあるので、厳密には山上ヶ岳という。
さて、立て札にはお花畑と書いてあるけれど・・・・




一面のクマ笹畑。
しかも、ミスト付き。



これは、本堂の裏。
岩がめり込んでいる。

ということで、山頂散策もあっという間に終わり、下山することに。
せっかく登ったのに、降りるのはもったいないような気もしつつ、そんなことを言っていると日が暮れてしまうので、とっとと歩き始める。

山頂付近には、大峯山を護る五ヶ寺が宿坊を開いている。
朝立ち寄って、その宿坊でお茶をご馳走になった龍泉寺。
ここだけが、天川側。

あとは吉野側で、桜本坊、東西院、竹林院、喜蔵院。
大峯山寺も宿坊も、5月から9月までが戸開と言ってオープン、それ以外は戸閉でクローズである。

大峯山寺とか龍泉寺とか、寺と書いているが、修験道というのはもともと寺でも神社でもない。
修験は修験なのだが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって、むりやりドッチかに分類されてしまった。
五つの護持院はお寺になったが、後で出てくる天河弁才天社などは神社になった。

だから、お寺とか神社という分類に、修験の場合はあまり意味が無い。
自然崇拝と考えると、一番分かりやすいだろう。

私も修験者ではないので、詳しくは分からないが、そいういうところが、何となく馴染みやすく好感のもてるところだ。
少し詳しく知りたい方は、この本をおすすめする

「初めての修験道」 田中利典・正木晃著 春秋社

吉野大峯が世界遺産に登録されたのは、田中師ら修験者(山伏)の努力があった。

田中師の後書きから抜粋する

神仏分離政策は、修験道に致命的な打撃をあたえただけではない。有史以来、日本列島に絶えることなくはぐくまれてきた多神教的な世界観を、そしてそれを中核とする日本固有の精神文化の崩壊をも招いたのだ。
(略)
吉野大峯・高野・熊野の三霊場こそは (略) 異なる宗教の共生、自然と人間との共生という二重の意味において、世界遺産の精神ともみごとに重なりあう。
(略)
敵対者は有無をいわせず抹殺する宗教戦争の様相すら見せている世界に対し、共存共生の一つのモデルケースを提示することにさえなりうる。


(引用以上)

修験道は、明治に勃興した一神教・天皇制に弾圧され、衰滅の危機を乗り越えてきた。
天皇制に染め上げられる以前の、日本人のプリミティブな精神性を伝える、貴重な宗教なのである。

そんなわけで、修験の山である大峯山には、ちょっと思い入れがあり、その山の麓の木で家を建てさせてもらっているということは、実は、スゴイことだと、自分では思っている。

などと、理屈を言いながら下山を開始。



これ、道です。
滑ると マジヤバイ







さすがに下りは早く、50分ほどで洞辻茶屋へ。
左が下山コースで洞川へ。
右は吉野山へ行く奥駆けのルート。

ここまでの途中で、霧雨から本降りに。
カッパを着込む。



雨水が岩を穿つ てヤツ
岩の中央がへこんで、樋になっている。

もう土砂降り。
道が小川



体はカッパを着ているから平気だけど、ザックがざくざく。
気温はまだ低く、Tシャツの上にカッパを着ているくらいでちょうど良い。



一本松茶屋でザックの中身を、ビニールで包み直し。
少々濡れてしまった。

最後の杉林にさしかかると、雨も止み、標高が下がって暑くなってきた。
前回は、下りで膝が痛くて難儀したので、実はサポーターをしてきた。

バンテリンの膝サポーターはなかなかのすぐれもの。
ちょっと違和感がある程度ならば、軽くサポートしてくれる。
ちょっと高いけど、買ってきて良かった。

そうこうしているうちに、ゴールが見えてきた。



あれが、女人結界門。



ついにゴール。
清浄大橋から、降りてきた道を振り返る。

足は痛いけど、フラフラになるほどの疲労感はない。
さすがに、すぐに車に乗るのは危ないかと、着替えながら20分くらい休憩。

で、次に向かったのは、天川村でも、少し離れた壺の内にある、天河大辨財天社。
通称、天河弁天。



一般には、内田康夫の「天河伝説殺人事件」で有名になってしまった。
角川映画になったり、テレビの浅見光彦シリーズでも何度も放送された。

そう言えば、何年か前のテレビ用の収録の時に、通りかかったこともある。
浅見光彦の姿は見えなかったけど。

一般にはこうしたメディアで有名なこの弁天さんだが、ちょっとマニアな人の中では、芸能の神様として世界的に有名だったりする。
なんで角川映画になったのかというと、そもそも角川春樹がこの弁天さんの常連だったという事情がある。

その他、結構有名な芸能人や、世界的な音楽家などが、音楽を奉納したりしている。
だから、よく演奏会のようなことをやっている。
もっとも、演奏会ではなく、奉納しているのを、ついでに人間か聞かせてもらっている と言うわけだが。

なんで芸能の神様かというと、弁天さんのホームページから

辨財天を別名「妙音天」と申し上げます。

これは辨財天が芸能の神様として早くから尊崇されたためです。ずっと昔、悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに田楽が行われていました。特に天河社には辨財天八楽又は弥山八面とも申しまして利生あらたかな楽舞が伝っておりました。

夙に平和の神、芸道の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男十郎元雅が心中に期することを願って能「唐船」を奉納し尉の面を寄進しました。


(引用以上)

ということで、ものすごく立派な能舞台がある。
毎年何回か、観世流から人間国宝級の人が訪れて、能を奉納している。
もちろん、人間はお相伴にあずかって、自由に見ることができる。

私も見させてもらったことがあるが、正直、能は良く分からない。
未熟者である・・・

そんなわけで、私も芸をこととする者の端くれとして、天川に来る度に、ここ天河大辨財天社に参っている次第。

最後に、天川村を流れる天の川(てんのかわ)をご紹介。



これ、役場の前。
ちょっと小さいけど、奥の方で鮎、アマゴと一緒に泳いでいる人たちが見える。
(ここでは、アマゴのことをアメノウヲという。)



結構高い橋の上から、川の底がよく見える。
本当にきれいな川だ。

上流の洞川のほうから、もっと下流のほうまで、たくさんのキャンプ場があり、川を満喫できるようになっている。
これが、天川村の林業と並ぶ主要産業でもある。
8月下旬には、今度は子どもたちをつれて、キャンプのほうも行く予定。

あとは、ひたすら家路を急ぐ。
3時間足らずで、帰宅。
風呂に入ってビール(偽)をぐいっとやったら、途端に力が抜けてフラフラに。

泥のように眠りこけたのは言うまでもない。

















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