2013-10-30(Wed)
なにをなすべきか
蛇足ながらレーニンの著作とは何の関係もない。
「なにをなすべきか」 今の私たちにこれほどピッタリくる疑問はないだろう。
何が問題か。これは山ほどの問題が、ネットを埋め尽くすほどに解説されている。その気にさえなれば、何が問題かを知ることはできる。
しかし、なにをなすべきか これは誰にも分からない。
この混迷状況のなかで「脱原発」を語り始めた小泉純一郎は、やはり巧みな男だなとつくづく思う。
誰も彼もがすがりついてくるだろうと読み切った行動だ。そして、その通りになりつつある。
社民党の吉田さんも「会っていただけたのが 云々」と、まるでヒーローに会えた少年のようなコメント。同席した又市さんはもう少し冷静なようだが。
社民党に限らず、誰も彼もが小泉詣でを始めた。「小泉なんだから気をつけようよ」と言うと「分裂をたきつけている」と返される。
シングルイシューでの連携は否定はしないが、小泉の目的を踏まえて構えなくちゃダメでしょと言いたいのだが、気の良い日本人は、連携するからにはオープンマインドじゃなくちゃ失礼だと思っている。
オープンマインドではあっというまにマインドコントロールされるというのに。
ただ一点、又市さんのブログに間違いがなければ、小泉はこう言っているらしい。
「10万年も大量の核廃棄物を安全に保管できる場所など地殻変動の激しい日本では作れない。国民も納得しない。」(又市征治 公式ブログ)
私は小泉発言の狙いは、日本に最終処分場を作ることだと想像していたので、これだけはちょっと意外だった。
もちろん小泉の発言だから、言葉通りにとるのは危険だが、これまでの「最終処分場がないから脱原発」という理屈とは明らかに違っている。
とするならば、小泉の狙いは何なのか。
一貫して処分場の問題にこだわっていることから、モンゴルでの日米共同開発はまだつぶれていないのかもしれない。日米共同開発と言っても、カネはぜんぶ日本が出すのだろうから、ここには小泉というトリックスターが登場する必然性はある。
参考:モンゴルに核廃棄物最終処分場建設という一連の話のまとめ
国内の原発を止めることと引き替えに、日本の脱原発派をこぞってモンゴル処分場賛成にもちこむという意図もありうる。裏を返せば、脱原発運動はモラルを喪失して無力化されるということでもある。
モンゴルに作れとなった世論は、次には福島に作れとなる。他人の犠牲に目をつぶることは、一度やってしまうと容易に習慣化する。
もちろん、小泉の前科を考えれば、処分も色々とか言って、やっぱり福島に処分だと言い出すかもしれないし、北海道なら広いから大丈夫と言い出すかもしれない。彼ほど言葉に信をおけない人間はない。
なにせ「自衛隊の活動している所が非戦闘地域だ」と言い放った人間なのだから。
とにもかくにも、脱原発の運動が、自分をしっかり確立した上で小泉ともその点では連携する、というのならば何も心配もしないし文句も言わない。
現実に進んでいる事態は、先の見えない脱原発運動が、小泉というヒーローの人気にすがりついている。もう、言葉もない。
まあ、その点では小沢一郎さんはさすがに冷静だ。
小泉の脱原発発言に対しては、客観的に肯定的な評価は口にしたけれども、連携も言い出さないし会談もしないと断言した。そもそも小沢さんは他人や他党のことを聞かれても、常に話を自分はどうなのかというところに話を持って行く。評論家のような話は一切しない。
その点はスゴイと思うのだが、しかし今の小沢さんの話からは、生活の党はどうしていくのか、支持者にはどうしてほしいのか、何も見えては来ない。なにをなすべきか は皆目わからない。
最終処分場の話をもう少し続けたい。
先日、IAEAがぞろぞろと福島にやって来て、除染については1mSv/年にこだわるなと言い捨てて帰った。これは、実質的に「除染は無理だ」と宣言したに等しい。
IAEAにしてみれば、超大規模な被曝人体実験ができるのだから、1mSvにこだわってもらっちゃ困るわけだが、実際のところ除染が必要な場所の多くが1mSv以下にするなんて無理だというのはその通りだろう。
だから避難移住せよと言うのか、モルモットになれと言うのかの違いはあるが。
そしてやっと今頃になって、帰還困難区域については帰還を諦めて移住させると自民党が言い出した。数百万人が放射線管理区域に起居させられている現状で、わずかに2万5千人が対象だが、いつまでも宙ぶらりんにしているよりは、ハッキリさせて補償した方がいいのは言うまでもない。
ではこの富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、飯舘村の一部にわたる広大な土地をどうするのか。
参考:「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」区域
これだけの範囲では土地の条件的にいわゆる最終処分場は作れそうにないが、除染や収束作業で出る膨大な汚染物、それにいくらでも増え続ける汚染水のタンクの処分場に、という話は当然出てくるだろう。
たぶん、脱原発の人たちも、ほとんどはそれには反対しないだろう。
しかし、私は反対だ。
他人の犠牲のうえに自分の安寧を確保しようという発想は、まさに原発の思想そのものだ。
あるいは、沖縄を犠牲にして「平和」な日本を享受してきたことと全く同じだ。
そうした思想の上に立った、脱原発運動や平和運動は、絶対に力にならない。ちょこんと蹴られたら飛び上がるようなスネの傷をもったまま、闘うことなんてできない。
それはまさに、平和憲法をもち唯一の被爆国である日本が、軍事大国であり再びの被爆国になったあげくにその犯人に国会を独占させている今の状況が証明している。
まず、自分たちの今までを振り返って、寄りかかってきたものへの鋭い反省と、そこから脱却する痛みを覚悟しなくては、結局は絡め取られ、「ユルイ敗北」の歴史だけが積み上がっていく。
その点でまったく迷いはないのだが、しかし一方で数は力というのも事実だ。
議会制民主主義でなんとかしようとする限り、選挙で勝たなければ、なにを言っても99.99%はごまめの歯ぎしりなのである。
そこで「脱却する痛み」を唱えても、いったいどれほどの共感を得られるのだろう。仮に共感はあっても、行動に移すのは容易ではない。
ここで思考が止まってしまうのである。
なにをなすべきか
時限スイッチがカチカチと鳴っている。
気ばかりが焦る。
「なにをなすべきか」 今の私たちにこれほどピッタリくる疑問はないだろう。
何が問題か。これは山ほどの問題が、ネットを埋め尽くすほどに解説されている。その気にさえなれば、何が問題かを知ることはできる。
しかし、なにをなすべきか これは誰にも分からない。
この混迷状況のなかで「脱原発」を語り始めた小泉純一郎は、やはり巧みな男だなとつくづく思う。
誰も彼もがすがりついてくるだろうと読み切った行動だ。そして、その通りになりつつある。
社民党の吉田さんも「会っていただけたのが 云々」と、まるでヒーローに会えた少年のようなコメント。同席した又市さんはもう少し冷静なようだが。
社民党に限らず、誰も彼もが小泉詣でを始めた。「小泉なんだから気をつけようよ」と言うと「分裂をたきつけている」と返される。
シングルイシューでの連携は否定はしないが、小泉の目的を踏まえて構えなくちゃダメでしょと言いたいのだが、気の良い日本人は、連携するからにはオープンマインドじゃなくちゃ失礼だと思っている。
オープンマインドではあっというまにマインドコントロールされるというのに。
ただ一点、又市さんのブログに間違いがなければ、小泉はこう言っているらしい。
「10万年も大量の核廃棄物を安全に保管できる場所など地殻変動の激しい日本では作れない。国民も納得しない。」(又市征治 公式ブログ)
私は小泉発言の狙いは、日本に最終処分場を作ることだと想像していたので、これだけはちょっと意外だった。
もちろん小泉の発言だから、言葉通りにとるのは危険だが、これまでの「最終処分場がないから脱原発」という理屈とは明らかに違っている。
とするならば、小泉の狙いは何なのか。
一貫して処分場の問題にこだわっていることから、モンゴルでの日米共同開発はまだつぶれていないのかもしれない。日米共同開発と言っても、カネはぜんぶ日本が出すのだろうから、ここには小泉というトリックスターが登場する必然性はある。
参考:モンゴルに核廃棄物最終処分場建設という一連の話のまとめ
国内の原発を止めることと引き替えに、日本の脱原発派をこぞってモンゴル処分場賛成にもちこむという意図もありうる。裏を返せば、脱原発運動はモラルを喪失して無力化されるということでもある。
モンゴルに作れとなった世論は、次には福島に作れとなる。他人の犠牲に目をつぶることは、一度やってしまうと容易に習慣化する。
もちろん、小泉の前科を考えれば、処分も色々とか言って、やっぱり福島に処分だと言い出すかもしれないし、北海道なら広いから大丈夫と言い出すかもしれない。彼ほど言葉に信をおけない人間はない。
なにせ「自衛隊の活動している所が非戦闘地域だ」と言い放った人間なのだから。
とにもかくにも、脱原発の運動が、自分をしっかり確立した上で小泉ともその点では連携する、というのならば何も心配もしないし文句も言わない。
現実に進んでいる事態は、先の見えない脱原発運動が、小泉というヒーローの人気にすがりついている。もう、言葉もない。
まあ、その点では小沢一郎さんはさすがに冷静だ。
小泉の脱原発発言に対しては、客観的に肯定的な評価は口にしたけれども、連携も言い出さないし会談もしないと断言した。そもそも小沢さんは他人や他党のことを聞かれても、常に話を自分はどうなのかというところに話を持って行く。評論家のような話は一切しない。
その点はスゴイと思うのだが、しかし今の小沢さんの話からは、生活の党はどうしていくのか、支持者にはどうしてほしいのか、何も見えては来ない。なにをなすべきか は皆目わからない。
最終処分場の話をもう少し続けたい。
先日、IAEAがぞろぞろと福島にやって来て、除染については1mSv/年にこだわるなと言い捨てて帰った。これは、実質的に「除染は無理だ」と宣言したに等しい。
IAEAにしてみれば、超大規模な被曝人体実験ができるのだから、1mSvにこだわってもらっちゃ困るわけだが、実際のところ除染が必要な場所の多くが1mSv以下にするなんて無理だというのはその通りだろう。
だから避難移住せよと言うのか、モルモットになれと言うのかの違いはあるが。
そしてやっと今頃になって、帰還困難区域については帰還を諦めて移住させると自民党が言い出した。数百万人が放射線管理区域に起居させられている現状で、わずかに2万5千人が対象だが、いつまでも宙ぶらりんにしているよりは、ハッキリさせて補償した方がいいのは言うまでもない。
ではこの富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、飯舘村の一部にわたる広大な土地をどうするのか。
参考:「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」区域
これだけの範囲では土地の条件的にいわゆる最終処分場は作れそうにないが、除染や収束作業で出る膨大な汚染物、それにいくらでも増え続ける汚染水のタンクの処分場に、という話は当然出てくるだろう。
たぶん、脱原発の人たちも、ほとんどはそれには反対しないだろう。
しかし、私は反対だ。
他人の犠牲のうえに自分の安寧を確保しようという発想は、まさに原発の思想そのものだ。
あるいは、沖縄を犠牲にして「平和」な日本を享受してきたことと全く同じだ。
そうした思想の上に立った、脱原発運動や平和運動は、絶対に力にならない。ちょこんと蹴られたら飛び上がるようなスネの傷をもったまま、闘うことなんてできない。
それはまさに、平和憲法をもち唯一の被爆国である日本が、軍事大国であり再びの被爆国になったあげくにその犯人に国会を独占させている今の状況が証明している。
まず、自分たちの今までを振り返って、寄りかかってきたものへの鋭い反省と、そこから脱却する痛みを覚悟しなくては、結局は絡め取られ、「ユルイ敗北」の歴史だけが積み上がっていく。
その点でまったく迷いはないのだが、しかし一方で数は力というのも事実だ。
議会制民主主義でなんとかしようとする限り、選挙で勝たなければ、なにを言っても99.99%はごまめの歯ぎしりなのである。
そこで「脱却する痛み」を唱えても、いったいどれほどの共感を得られるのだろう。仮に共感はあっても、行動に移すのは容易ではない。
ここで思考が止まってしまうのである。
なにをなすべきか
時限スイッチがカチカチと鳴っている。
気ばかりが焦る。