2015-06-27(Sat)

「それでも完全非武装」と言い切るために その2

前回の 「それでも完全非武装」と言い切るためには の記事に、鋭いコメントをいただいたので、答えを持っているわけではないが、考えてみたい。

(以下、コメント)

突然コメント失礼します。こちらのページはいつも楽しみに拝見させていただいております。

>;完全非武装とは、琉球処分のような屈辱的な支配を受けるリスクはある。
>しかし、沖縄戦のような地獄は回避できる。
>そういうことなのだ。

ここについて、最初はなるほどと思ったのですが、自分なりに考えるうちに、以下のような疑問が湧きました。

1.完全非武装であれば、支配を受ける過程での戦禍は免れることはできる(私はこの部分には異論はありません)

2.しかし支配されれば、その支配者の軍隊が駐留することとなり、自分たちの社会が否応無く「完全非武装」ではなくなる

3.結果、後に支配者に対し、軍事的に対立する他の勢力が現れたときに、結局は戦禍を避けられない

そう考えると、上記のプロセスはまさしく沖縄が辿った歴史であるようにも思えます。非武装であったために大日本帝国に容易に支配され、その後に軍事拠点化され、太平洋戦争で戦禍にあったわけですから。

であれば、「完全非武装」で避けられるのは「最初の戦禍」だけであり、その後は支配者によって「完全非武装」を捨てさせられることとなりますので、「完全非武装」を貫くためには「絶対に侵略されない」というのがやはり前提になってしまうと思いますが、いかがでしょうか。

また、支配されてからでも、「草の根で抵抗するための覚悟」を持って支配者と戦って勝利し、また完全非武装の状態に戻せるのであれば少し話が変わってきますが、その場合は、まさしく草の根がその支配者と戦って退ける方法があることを、それなりの具体性を持って示せなければ、説得力を持ち得ないでしょう。

私自身は「完全非武装」が良いと思っているのですが、その意見を他者に納得させるための論拠をもっていないため、あえてこういった形で疑問点を書かせていただきました。

これらの問題点の解消が可能であれば、「完全非武装」論が多数に対しての説得力をより持ち得ると思います。いつかお時間のありますときに、もし考察をいただけましたら幸いです。

(コメント以上)

指摘は、二点。

① 自らは非武装でも、占領されたために軍事拠点にされてしまったら、結局戦禍を避けられない
② 非武装で占領者を退ける方法を示さないと説得力が無い

①については、まったそのとおり。まさに、沖縄の歴史そのものだ。

というか、戦後の日本全体も、9条と日米安保がワンセットになっているという意味で、同じことだ。
自衛隊は、そもそも朝鮮戦争に備えて在日米軍を補完するために、警察予備隊として発足したのであって、生まれた時から米軍の下請けなのだ。

こういう書き方をすると、何もかも9条のせいにするのかぁ!!!! と護憲派の皆さんの怒声が聞こえてきそうなので、ちょっと話がそれるけれども、少し書いておく。

米国が日本軍を武装解除して日本を軍事的に占領したこと、その体制がほとんどそのまま日米安保として70年たっても続いていること、これは厳然たる事実だ。

9条はもちろん変えるべきではない。しかし、歴史的に9条が設定された経緯には、占領者の意向があったのは、あまりにも当たり前の話ではないか。
占領下で、占領軍が認めない憲法を作れるわけはないし、占領軍が正義や善意で9条のような憲法を認めるわけがない。大枠はGHQ草案をもとに作られたことは、否定しようがない。
憲法は日本人が独自に作ったんだ、というのは幻想である。

しかし、それでもなお、現憲法は旧憲法や日本政府案などにくらべれば、画期的なものであったし、そこかしこに民主化を求めた当時の日本人の知恵も盛り込まれている。
この憲法を使って「これから民主主義を作るんだ」と決意するのであれば、やはり素晴らしい憲法であった。

しかし残念ながら、憲法ができたとたん、憲法がすなわち民主主義だと勘違いし、憲法を握りしめたままそこで日本人は止まってしまった。
スタートラインをゴールラインだと思ってしまった。

その結果が、今日の自民党独裁であり、安倍ファシズムである。

■■

話を戻そう

非武装であるが故に、他国によって軍事拠点化される問題。
そして、非武装でどうやって占領軍に対峙するのか。

最大の問題は何かというと、占領されることではなく、占領軍を受け入れてしまうことだ。
先の例でい言うならば、日米安保と在日米軍を、日本人が峻拒できず、受け入れてしまったことなのだ。
存在は無くせなくとも、拒否するという意思表示をできなかったということが、問題なのだ。

たしかに日米安保に対しては大きな大衆運動が起きた。岸内閣は辞任もした。
しかし、その直後の選挙で自民党は圧勝。投票率73.51%、自民党の得票率57.56%、議席率63.4% で池田内閣が誕生している。
日本人の大半は、日米安保と米軍を受け入れたのである。

もちろん、占領されている以上、住民がいくら拒否しても軍事化はされる時はされてしまう。
しかし、ほとんどの国民から怨嗟の的になり、基地から出るのも容易ではない占領軍と、消極的であっても受け入れられている駐留軍では、軍事的な意味合いは全然違うはずだ。

同じ米軍でも、日本にいる時とイラクにいる時では、天国と地獄だろう。
戦闘や自爆テロがなくとも、針のむしろで永続的な基地経営は困難だ。

占領軍に対して、完全拒否はできなくとも、官民一体となって小さい嫌がらせやサボタージュを永続的に続けていくことだ。

そしてもう一点は、自分たちは占領軍に出て行って欲しいという意思表示を、世界に向けて発信すること。
占領されているから今は拒否できないが、実は国民は拒否したい という意思を、占領国の敵国も含めて、世界中にアピールする。

まさに、今の沖縄のように、民意を明確に表現することだ。
リアルでも、ネットでも、人づてでも、あらゆる手段を使って発信する。

これらは、言葉を換えて言うならば、プライドを失わないということ。
オール沖縄がイデオロギーよりアイデンティティーで結束したように、占領される側が自分たちの集団(民族だったり国だったり社会だったり地域だったり)に誇りをもち、そこに結集するということでもある。

その上でもちろん、侵略・占領される可能性を、少しでも減らす努力をすること。
ただ、いくら努力をしても、もともと可能性は大きくはないとしても、ゼロにはならない。

いくら拒否しても、いくら自分が非武装でも、巻き込まれる可能性もゼロにはならない。

だからこそ、9条を唱えていれば平和が守られるという幻想ではなく、現実のリスクを認識して、少しでもそれを減らす努力をしなければならない。
9条は今現在も厳然として存在しているけれど、安倍晋三は「何をやっても合憲合憲♪」と口ずさみながら、戦争準備を進めているではないか。

残念ながら、戦争だらけのこの世界に生きていて、自分だけまったく戦争のリスクゼロというわけにはいかない。
本当に悔しいけれど、完全なゼロにすることは できない。

だからこそ、どうしたら減らせるのか、真剣に考えなくてはならないのだと思う。
以上が、コメントの指摘に対する直接の答えにはなっていないけれども、今のところの私の考えである。


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2015-06-26(Fri)

「それでも非武装」と言い切るためには

昨年4月に、こんなイベントをやった。

政権交代・虎の穴 「安全保障と自衛隊」

社民党の服部良一さんと、生活の党の渡辺義彦さんにパネラーになってもらい、自衛隊は必要という人、絶対非武装という人、白熱議論をしようという試みだった。もちろん、前提として「戦争はアカン」という共通認識はある。

私自身は、結論としては 「絶対非武装」 だ。
自衛隊は、予算も人員もそのまま国境なき災害救助隊に再編すべきだと思っている。

しかし、この議論の中で「絶対非武装」派の人が言っているロジックには、違和感を覚えた。
どういうロジックかというと、「日本を侵略する国は(たぶん)ない」 だから非武装だ という論理である。

違和感その1。
まず、絶対に侵略がないとは言えない。北朝鮮や中国だけを仮装侵略国にしている場合ではない。
日本を戦争に引きずり込むために、ISISが親分(イスラエルと米国)に言われて攻撃してくるかもしれない。
中国だって、局地的な侵略は、米中関係の展開如何によっては皆無とは言い切れない。

もちろん、日本が先に出ていかない限り、きわめて可能性は低いとは思う。
が、「絶対にない」という話は説得力を持たないし、「たぶんない」では誰も納得しない。

違和感その2。
このロジックでは、万万が一にも侵略された場合には、やはり自衛隊が戦うのか ということだ。
本当に「絶対非武装」を主張するならば、侵略されたときは、武装敵校はせずに占領される ということを明言しなければならない。
いかに可能性が低くとも、誰もが疑問に思うそのリスクを隠しての「絶対非武装」は、心に響かない。

違和感その3。
絶対非武装派は、なぜか日本の米国からの完全独立を言わない。独立=独自武装 だと決めてかかっているからだ。
しかしその発想は、無意識のうちに米軍に頼っている。米軍の傘の下での非武装という思考にハマってしまっているのだ。
米軍が永続駐留したままの非武装などありえない。
完全非武装を言うならば、即刻米軍は一兵残らず出て行くことであり、それは即ち米国からの独立である。

■■

今、安倍晋三が日本を戦争へ、戦闘開始へとゴリゴリ引きずっているこのときに、自衛隊は必要という人もいらないという人も、力を合わせて抵抗しているし、しなければならない。
ただ、日本の反戦運動がもっている弱さは、「攻められたらどうするの?」と言われたときに、ちゃんと答えられないことだ。
安倍晋三が無理矢理に開戦してしまった後、是非はともかく「闘わねば負ける」という状況に追い込まれるだろう。そのときに、どうするのか。

こういう時だからこそ、「闘うより負けろ」「戦争するより侵略される方がマシ」と言い切る必要があると思うのだ。

簡単な話だが、こちらが武装していなければ、侵略は戦争を伴わない。
敵は武器を担いで占領すればいいだけだ。
抵抗するものを撃ち殺すことはあるだろうが、何せこちらは非武装なのだから、ぜったいに戦争にはならない。
一方的に蹂躙されるだけだ。

そう、蹂躙はされる。
ひどい目に遭うだろう。
それでも、戦争よりはマシだ というのが「絶対非武装」であり「非暴力不服従」だろう。

非武装でも、たぶん、いままでのように安閑と過ごしていける という言い方は、やはり誠実ではないと思うのだ。
リスクはある、リスクが現実化すればひどい目にも遭う、でも、戦争の惨禍に比べればまだマシだ。
そのことは、他ならぬ沖縄の歴史が教えてくれる。

周知のように琉球国は非武装の国だった。
清と大和に挟まれながら、絶妙のバランスをとりつつ貿易国として非武装で生きていた。

もちろんリスクはあった。1609年には薩摩藩が「琉球征伐」と称して侵略。武力を背景にした収奪を続けた。
1879年には「琉球処分」と称して大日本帝国が侵略。完全にその領土とされた。
そして、今に至るまで屈辱的な支配をうけ、捨て石として差別は続けられている。

しかし、その沖縄の歴史の中で、もっとも悲惨な事態は、やはりあの沖縄戦であろう。
自国の軍隊が押し寄せる米軍と戦い、多くの住民が殺されたあの沖縄戦。
「ありったけの地獄をひとまとめにした」と表現されるあの沖縄戦は、琉球に軍隊がいたが故に起きたのだ。
自国軍がおらず、すぐに白旗を揚げていれば、あのようなことにはならなかった。

完全非武装とは、琉球処分のような屈辱的な支配を受けるリスクはある。
しかし、沖縄戦のような地獄は回避できる。
そういうことなのだ。

■■

もちろん、「処分」される可能性を最小にする努力はしなければならない。
その一つが、国境なき災害救助隊 である。

きれい事ではない。
これ見よがしに 世界中を助けてあげることで、日本には手を出しにくくするのだ。
ドイツが国家戦略として「エコ」を掲げたように、日本の防衛戦略として「国境なき災害救助隊」を再編するのだ。
自衛隊の実績と予算と能力を再編すれば、世界に比類なき部隊を作ることができるはずだ。

 →自衛隊は、武器を捨てて「国境なき救助隊」に2011.9.16

しかしそれでもリスクは残る。
その意識は国民が共有し、いざとなったら草の根で抵抗するための覚悟をもつことだ。
それが、それこそが、本当の民主主義の第一歩だ。

占領されても蹂躙されても、しぶとく抵抗を貫くのは、自分たちの国や社会に誇りを持っている場合に限られる。
今の日本のように、過去の罪悪を反省することも賠償することも拒否しているせいで、国民がプライドを持てない国は、占領されてもボケッとしてそんなものかな、と過ごしてしまう。そして、収奪されて苦しいもの同士が、残されたパイをめぐって内輪もめを繰り広げる。ブラック中小企業とワーキングプア。下級官僚と民間社員。正社員と派遣社員。。。。

そんな情けない歴史を清算することが、すべての前提だ。
アジア諸国民への侵略の罪をしっかりと償い、70年間米国に占領されたままの日本の独立を勝ち取ること。

右翼は独立を口にしながら、罪を償わないことで実は独立を阻止してきた。
左翼は謝罪と補償を唱えながら、米国からの独立を口にする勇気が無かった。

これらを乗り越えて、今、反戦と独立を掲げることが、完全非武装の前提だ。
戦争への反対と反省、日本の独立、日本人の独立心。これらを実現できない限り、日本人は武装官僚(自衛隊)に守ってもらおうとし、米軍に守ってもらい、不当な支配には目をそらして、結局自らも侵略者として動員されていく。

その鳥羽口に立っている。

踏みとどまれるのか、行くところまで行ってしまうのか、悲しいけれど私にはわからない。
でも、どういうことになっても、どこかの地点から足を踏ん張って立ち上がらねばならない時が来る。
そのときに向けて、「私たちはどうあるべきなのか」「日本はどうするべきなのか」 を、しっかりと逃げずに語るべきだと思うのだ。

だから、今あえて、「それでも非武装」と言いたい。
そして、それを言うための重い「前提条件」を確認したいのである。

※電車の中で書いた記事なのでやや理路不整然なのはご容赦を

※つづきを書きました → その2

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2015-06-23(Tue)

わりと冷静に反戦を考える

数日間、仕事で手一杯になっているあいだに、95日間も国会が延長され、戦争法案が強行採決される方針が固まったようだ。

まあ、やるだろうと思っていたから驚きはしない。これだけ延長されると、いくら牛歩戦術をやっても山手線一周してもとてもじゃないが間が持たない。残念ながら、数の暴力で強行採決されることは、ほぼ避けられないだろう。

ほかの政策ならば、いくら安倍政権でも自分の首が危うくなれば妥協するかもしれないが、戦争関連だけは何が何でも通してくる。60年安保でも、岸は自分の首と引き替えにでも通した。

なぜなら、戦争法案は、戦争そのもだからだ。
日米安保条約は、米国から見たら世界戦略の兵站そのものであり、米軍の戦争そのものだ。もともと数十万人、数百万人の殺人を厭わない戦争行為は、一度やると決めたら相当の犠牲を伴っても遂行される。

安倍晋三が物の怪に取りつかれたように進めている集団的自衛権と戦争法案も、まさに戦争そのものだ。
勘違いしてはいけないが、戦争法案は「戦争をするための法律」ではなく「戦争始めちゃったからどうしても必要な法律」だ。
日本は、2月1日に総理大臣が宣戦布告し、戦争中なのだ。

たぶん、99.99%の人は「戦争中??」 と思っているだろうが、1月後半に中東とイスラエルを回って軍資金をばらまき、挙げ句の果てに人質を見殺しにして、殺されたのを待ってましたとばかりに「その罪を償わせる」と叫んだ。
これはISISという武装戦闘集団との関係においては、宣戦布告以外の何ものでもない。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/175.html

ISISがただの「テロリスト」集団ならばまだしも、きわめて面倒くさい背景で跋扈していることが知られている。
かつて、中国に「満州国」をつくった大日本帝国や、パレスチナに「イスラエル国」を作ったアメリカのように、メソポタミアに周辺のイスラムの国々とはまったく異質の「イスラム国」を作ろうとしている。それを作ろうとしているのは、どうやらアメリカとイスラエルのようなのである。

 イスラエル高官、「ISISはモサドが作った」
 プーチンの側近 「イスラエルがISISの訓練を行っている」
 わざとイスラム国に負ける米軍

イランが大人の対応をしながら力をつけ、イラクも米国の言うことを聞かなくなってきた中東で、じわじわと首の絞まってきたイスラエルを救出しつつ新たな戦争を起こすために、イスラム系イスラエルを作ろうとしているのだ。

アメリカは、できるだけ自分の腹が痛まないようにISISと戦争を激化させることで、イラク、シリア、イランなどの混乱と弱体化を狙っている。
シリア、イラク、イラン、トルコのクルド人、など見事にアメリカが排除したい、犠牲にしてもいいと思うところと闘っているのがISISなのだ。

では、そのISISに宣戦布告した日本は何なのか。
もちろん、米軍の肩代わり部隊である。
戦費も命も日本持ちで、米軍の代わりに戦争をやるための部隊=自衛隊とすることを、緊急かつ強烈に求められている。

70年間実戦を経験していない自衛隊を米軍並みにするためには、実際に戦争を経験させるしかない。
野田政権のときには、ヒラリーが「尖閣で中国とちょっとやってみ」と言ったみたいだが、野田はさすがにビビって政権を放り出した。

オバマは中国といきなり戦線を開くことには反対なので、実戦経験は中東で、ISISとやらせようとしている。
ISISと戦闘中の米軍に「助けて~。助けてくれないと石油が手に入らないぞ」と言われたら、自衛隊は集団的自衛権を行使して出て行かなくてはならない。

安倍の物の怪ぶりと、国会運営を見る限りでは、その機会は今年から来年の前半なのだろう。
「後方支援」と称して兵站部隊をつとめ、当然ISISの標的になって自衛隊が戦死ということになれば、いくら支持率を落としても、戦意高揚!で一気に巻き返せる、と考えているはずだ。
9.11の後の異様な空気を思い返せば、十分にそれはあり得る。

■■

一所懸命に運動している人たちに冷や水をかけるつもりではない。
私もできる限りは集会やデモにも出かけようと思っている。

しかし、そういう熱い気持ちの一方で、冷静に「今自分はどこにいるのか」を見ておくことも必要だ。
戦争は国民の気持ちが起こすというのも真理なら、気持ちだけではどうにもならないというのもまた真理なのである。

圧倒的に弱者である民衆の運動は、無視されて無視されて無視されて虚しい思いに苛まれることに耐え続けなければならない。
そして、どこが勝負なのか、どこにむけて耐え続けるのか、冷静に分析しなければならない。

60年安保闘争で最大33万人が国会前に集まった。樺美智子さんなど死者もでた。自衛隊には治安出動命令まで出た。
それでも、岸は辞任したけれども安保は通った。

大衆運動で戦争を止めようと思ったら、山本太郎さんの言うように100万人は集まらないとどうにもならない。

100万人が国会前に集まれば、警察も自衛隊もだまって見ていてはくれない。
見せしめに襲いかかり、リーダーは片っ端から逮捕されるかもしれない。

60年安保のときは防衛長官も公安委員長も治安出動に反対したので実施はされなかったが、今度はそうはいかない。
中谷元も、山谷えり子も、嬉々として治安出動させるだろう。

いくらデモ参加者がオシャレで平和にやるつもりでも、敵はある臨界点を超えたら容赦はしてくれない。
100万人集めるとは、そういうことなのだということを、心のどこかで覚悟しておかねばならない。

また、100万人集まるということは、300選挙区に3000人の運動員が生まれ、一人1万円カンパすれば100億の資金ができるという可能性でもある。
これは、確実に政権を取れるし、この民力があれば今度はクーデターでコロッと寝返ることもない。

100万人というのはそういう人数だ。
だから敵は恐怖する。恐怖するからブレーキがかかる可能性もあるし、大弾圧の可能性もある。
しかし、決着点はたぶん、そこになるのだろう。

問題は、原発が爆発しても10数万人しか集まらないこの国で、その10数万人が選挙になったら雲散してしまうこの現状から、どうやって決着点に向かっていくのか。

本当に国民に衝撃が走るそのときに、どれだけ生き残って声を上げるか。
頭の半分で、冷静にそれを測っていく必要がある。

2015-06-20(Sat)

安倍晋三が砂川判決を持ち出すわけ

安倍晋三があまりにも支離滅裂なので、やがて自滅するだろうと言う論調もあるが、楽観に過ぎる。

安倍たちは、最初から論争などするつもりはない。適当にあしらって、速攻で強行採決あるのみ、と腹をくくっている。
論理破綻していること、論争では勝てないことははなから百も承知で、ただただ数で法律を通し、戦争開始に一刻も早く備えるのだ、という一点に意識は集中されている。

エジプトで安倍晋三がISISに対して宣戦布告した2月1日から、すでに日本は戦争中なのだ。
ただ、戦闘をするための法律が間に合わず、泥縄で作っているのが今。
もう目の前でドンパチ始める準備をしている安倍たちに、議論などまったく眼中にない。

危機感を感じている国民は 「このままだと戦争になる」 と思っているが、実際は「すでに戦争中」なのだ。
戦闘は戦争の中の一局面であり、戦闘はまだ始まっていないけれども、もう戦争なのである。
安倍一族は、その覚悟をもっている。
反対する側が、平和ぼけの認識では、何をやっても後手後手に回る。

砂川判決を、安倍が持ち出した件もそうだ。

砂川判決は集団的自衛権のことを何も言っていない、という批判は正しい。
たしかに、水分を摂ってもいいと言われて、いきなり酒を飲むようなもので、判決をだした張本人が怒りの会見をするのもわかる。

しかし、安倍が砂川判決を持ち出した理由は、集団的自衛権の正当化のためではない。
全国の裁判所に対する恫喝だ。

砂川判決の最高裁判決は、周知の通り、米国大使であるマッカーサー2世の命令により、地裁の伊達判決を覆して下された。
形式的には独立後であるにもかかわらず、米国大使が日本の最高裁判所の判決を決めたのである。

それが明らかになっているにもかかわらず、判決が無効になるどころか、今になって政府が自己正当化の根拠だと言い出した。
つまり、安倍の言いたいことはこうだ。
「集団的自衛権は、米国の命令なんだから、違憲判決なんか出すなよ」

全国で集団的自衛権にたいする違憲訴訟が相次ぐのは間違いない。
大多数の憲法学者が違憲という以上、地裁レベルでは違憲判決が相次ぐ可能性は高い。

それを見越して、「おまえら、砂川判決をわかってるよなあ」 と、凄んで見せたのだ。
立法と行政の権力は完全に掌握した安倍晋三が、わずかに独立性の残る司法権に対し、「逆らったらどうなるか分かってるな」と恫喝しているのだ。

安倍一族を甘く見てはいけない。



2015-06-18(Thu)

政治とデザイン

暗い話ばかり続けてので、ちょっと違う話を書いてみよう。

市民運動やら政治活動と デザインの関係について。

あちらこちらに顔を出していると、ある種固有のデザインの傾向やファッションセンスというのがあるのに気がつく。
集会に行ってみても、服装やその雰囲気がある。
労組の人。古くからの市民運動の人。3.11以降の脱原発の人。山本太郎さんの街宣に集まってくる人。陸山会事件からの小沢派の人。昔は自民党だった人。
まあ、こういういろんな人たちが、一堂に会することも珍しくなくなったのだから、それはそれで歴史の進歩なのかもしれないが、今日のテーマはそっちじゃなくて、デザイン。

他方で、街頭でチラシを配ってみると、如実にわかるのは、ごっつファッショナブルなお兄さんやお姉さんはほぼ取ってくれない、ということ。目線を1mmも動かしてくれない。まあ、99.99%くらいの確率で受け取らない。

う~ん、ファッションやデザインと政治的な関心は反比例するのかなあ~ と思ったりしていたが、どうも逆かな、と思うようになった。
こっちにセンスないから 「政治はダサい」 と思われている可能性大である。

最近話題のSEALDs を見ていて、どうもそうらしい と思うようになった。
彼らは、目新しいことを言っているわけでもなく、やることもほぼ昔ながらの集会とデモだ。
しかし、そのデザインセンスは、これまでの市民運動や政治運動とは、一線も二線も画するものになっている。
あまりレベルが高いので、本当に学生か?などとケチつける人がいるほどだ。
それくらい、最近の若い連中のデザインレベルは高いということだ。

こういう世代に向かって、ダサダサのおっちゃんおばちゃんが、「ガンバロー」とか「ちゃんと考えよう」などと言っても、あっちの世界の話にしか聞こえないのだろう。
若者の政治離れとか、低投票率とかいうことの、一つの原因は、実はそのへんにもあるのではないか という気がしてきたのだ。

といっても、こういうセンスは一朝一夕でどうにかなるものではないし、無理すればそれこそ学芸会の大根役者で、見るも無惨な結果になるのは目に見えている。
ただ、反省しなければならないのは、いわゆる保守も革新も、これまで政治に関わってきた人間は、デザインやファッションについて、むしろ享楽的で「よくないもの」のように考えてきたのではないか。進んで、反ファッショナブルな格好をしてきたのではないか。

保守の人は一律に背広。革新の人はくすんだ色のジャンパー。
街で普通に見かければ、なるほど最も面白くない、あえて近寄りたくはない格好を、わざとしてきたのではないか。

チラシやポスターのデザインも同じこと。
電通や博報堂に作らせたものですら、あえてダサダサに作ってある。
彼らのマニュアルには 「政治案件はダサくしないと OKでない」 と書いてあるのだろう。

まして、素人のつくったものは 見るも無惨なものが多い。
「読めれば良いだろ」 「読むのが正しい」 「読まないヤツが悪い」 と言わんばかりである。

「デザインとは問題解決の過程である」 とある先生が言っていたが、まさにその通りなのである。
「読まない」から 「読む」 に解決していく過程が デザインなのであって、そこを完全にスポイルしてきたのが、実はこれまでの政治や市民運動だったのではないか。


日本では、あの一休禅師の戒めにもあるとおり、見かけに囚われてはいけない という倫理観が強くある。
今の50代以上は、そう教えられて育ったはずだ。

それは、自分への戒めとしては大事なことだけれども、膨大な街の人々にそんな説教をしても、それこそダサダサな、あっちの世界の話にしか聞こえないだろう。

ファッションにはからきし弱いけれども、建築設計というデザインの世界に関わるものとして、これはちょっと考えなくてはならないぞ と思い始めた次第。

市民運動家のためのファッション講座でもやってもらおうか・・・・




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2015-06-17(Wed)

潮目は変わったのか?

ネット上を見ていると、あの3人の憲法学者の発言と、国会包囲などの盛り上がり、そして不透明ながら野党連携の可能性などが出てきたことで、潮目が変わったという論調が増えてきた。

確かに、国民の意識としてはスイッチが入った可能性はある。
どうやら、安倍さんは本当に戦争やるのかも、と思い始めたのかもしれない。

ただ、冷静に見ておかなくてはならないのは、彼我の力の差とは何なのか だ。

それは、地縁、血縁、金の縁でがんじがらめになった組織力の差だ。
自治会やPTAといったところから、マスメディアにいたるまで、敵は何十年もかけて徹底的に組織してきた。
その圧倒的な力量は、ネットで発言しているだけではわからないが、現実の選挙に関わってみれば実感するはずだ。

そして、その敵の組織力は、自民公明だけでなく、維新と民主の少なくとも半分は押さえ込んでいる。
それが、現在のリアルな力の差だ。

もちろん、だから絶対にどうしようもない、と絶望をあおるためにこれを書いているのではない。
逆だ。

「これで潮目が変わった。勝てる」と安易に考えて、もし勝てなかったときにがっくり絶望してはいけない、ということが言いたい。
10年先、20年先を見据えて、今の盛り上がりをも自分の経験と糧にしながら、自立と共生、反戦と独立の道を倦まずたゆまず進んでいくしかない。



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2015-06-16(Tue)

ラディカルな政治ということ

ラディカリズムというと、原理主義とか過激主義と訳されることが多いが、そもそもラディカルというのは、根本的、根源的という意味だ。
原理主義とか急進主義というのは派生的な意味に過ぎない。

根本から全部ひとつの教義で規定しようとすれば原理主義だし、根本から一気に全部変えてしまえとなると急進主義ということになるのだろうが、それらは本質を語っていない。

一番大事なのは、根本的、根源的に考えること、理解すること、だ。

そのうえで、どうするかはその時代、状況によって判断すべきことであり、必ずしも原理主義や急進主義にはならない。
たとえば穏健ラジカルというやり方も、十分にありうるのである。


一般に人気があるのに、私が違和感を感じる言葉は、だいたいラジカルでないからだ。

改革、護憲、市民、リベラル ・・・・・

保守、革新、右翼、左翼 ・・・・・

どれもこれも、今の日本をラジカルに、根本的に理解しているとは思えないのだ。

言うまでも無いが、改革に違和感があるからと言って、今のままで良いとは思わないし、護憲に違和感があると言っても改憲には絶対反対だ。

しかし、どれもこれも、戦後の日本のおかれた状態から、あえて目をそらしているか、本当に見えなくなっているとしか思えないのだ。

戦後の日本は、侵略者としての罪業をあえて償うことなく、米国の植民地になった。
すねに傷を持つものは、支配しやすい。
反抗的になったら 「そんなこと言っていいのか」と黙らせることができる。

70年前に、侵略の罪を自ら償っていれば、こんなに永続的に植民地化され、抵抗の芽も出ないということにはならなかった。
責任者を自ら裁くこともできず、被害者への償いもほとんどせずに、「平和と民主主義」の仮面をかぶせられて、米国に対しては奴隷的に従属し、アジアに対しては奴隷頭として傲慢な経済侵略を行ってきた。

この根本的な構図を見ずに、「平和と民主主義」を守れ というスローガンを叫ぶのを聞くと、どうしても私は萎えてしまうのである。

もっともラディカルな問題とは、侵略の罪業を改めて償うことであり、それによって正々堂々と日本の独立を主張することだ。

右翼は前者を攻撃し、左翼は後者を攻撃することで、宗主国は何もせずに支配を維持することができた。
この忌まわしい構図を、ラディカルに衝いていくことが、もっとも大事なことなのである。

では どうするか。

自衛隊のクーデターで米軍を追い出すのか?
日本の国有資産をすべてかつての被侵略国に投げ出すのか?

もちろん、そんなことをするべきではない。

ラディカルとは、一気に変えるという意味は、本来持っていない。
圧倒的な力で植民地化され、「平和と民主主義」の仮面のおかげでほとんどの国民がそれに気がついていない現状。
そこから、どうやって立ち上がっていくのか。

一朝一夕でできるわけはない。
しかし、ラディカルな意味で戦後日本が破綻を始めたのは、沖縄だ。
オール沖縄の持つ意味は、とてつもなく大きい。

アジアの中の沖縄として、文化・観光・物流などを発展させていく方向を明確にしている。
まだまだ舵取りは難しいだろうけれども、侵略の反省と米国からの独立という根本問題を、突破していく希望が見えている。

ラディカルな目線は、かならず希望をもたらす。
今すぐの結果がともなわずとも、向かうべき方向を指し示すことができる。

今の日本の政治に必要なのは、そういうことではないのか。
しばらくは、本当に苦しい時代が続く。
戦争になり人が死ぬこともある。

できる限りの抵抗はしなければならないが、圧倒的な彼我の力の差は、すぐに埋まるものではない。
それが絶望的な抵抗、希望のない後先を考えない抵抗にならないためにも、見据えるべき未来を、進むべき方向を、ラディカルに提示しなければならないのだ。

本当の政治は、それをわかりやすく国民に示すことだ。
戦術的には、数合わせもあるだろうし、妥協もあるだろう。
しかし忘れてはいけないのは、ラディカルな希望を、常に提示し続けることだ。



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2015-06-14(Sun)

この期に及んで「野党共闘」を言う意味は?

最近の記事を見てもらえばわかるとおり、私は民主や維新を軸にした「野党共闘」には賛成しない。

そして、私の残念な予測通り、まずは維新がコケた。1週間も保たなかった。

民主党は、とりあえず正論を吐いて自己満足とガス抜きする自由はあるので、まだしばらくは「いいひと」を演じるだろう。
が、それだけだ。それ以上やる勢いが出てしまったら、前原たちが出てきて徹底的につぶす。

こんな維新や民主との連携や統一名簿を論じることに、何か意味があるのだろうか?
小沢氏の言葉を聞きながら、しばらく考えてみた。

その答えは、一定の条件付きで、「言い続けること」には意味はあるかもしれない ということ。

条件とは、連携と統一名簿を提案するときに、「維新や民主に期待しない」ことだ。
所詮自分しかいないのだと、きっぱり割り切って、腹をくくってから「連携」を呼びかけることだ。
ほぼ100%やってくる裏切りに、いちいちガッカリするような情けない覚悟ではダメだということだ。

では、そんな裏切りを前提にした連携の呼びかけに、なんで意味があるのか。
それは「本気なのは誰か」を知らしめることができるかもしれないからだ。

マスメディアが完全に統制されているなかで、どれだけ効果があるかは疑問もあるが、小沢一郎と仲間たちだけが、最後まで連携を呼びかけることは、確かに必要なことかもしれない。

とはいえ、私はやはり危惧のほうが大きい。
前提条件を満たしているとは、とても思えないからだ。

小沢氏の方針で支持者がみな「統一名簿」に期待してしまったら、来年の春頃に民主党が裏切ったときに、ガックリ落ち込み脱力し、おそらく再起不能になるだろう。
結果にかかわらず生き残る党官僚だけになってしまえば、あとはペンペン草も生えない不毛の荒れ野である。

だから、逆説的ではあるが、「野党共闘」の必要性を国民に説くのであれば、まず自立することだ。
民主や維新に裏切られても、「ヤッパリな」と切り捨てて、困難でも希望がなくても前に進む覚悟をもつことだ。



2015-06-12(Fri)

維新や民主に期待なんてするな

大阪都構想が消え、橋下が引退宣言し、松野頼久が維新の代表になったことで、生活~~たちの支持者の中にも、急速に民主+維新を軸にした野党連携に期待する声が多くなった。

小沢さんは以前からだが、太郎さんもその方向に舵を切ったと思われる発言を会見ですることで、ほぼ方向は決まったかのように見えた。
しかし、案の定、一瞬でその目は消えようとしている。

遠のく野党再編 維新、民主を置き去り 派遣法採決で与党と協力
産経新聞 6月12日


 大阪系議員は4日夜、松野氏と懇談し、「同一労働・同一賃金」などで与党と歩調を合わせるべきだと進言した。党分裂の危機を察知したのか、松野氏は11日の記者会見で「民主党と野党共闘すると合意した記憶はない。党が違うのだから、違う動きになって当たり前だ」と強調した。
 与党との交渉を主導したのは遠藤氏ら大阪系で、松井一郎顧問(大阪府知事)は10日、馬場氏に電話で「維新らしい対応だ」と評価した。

(引用以上)

民主党の本質は座敷牢だ という話は前の記事に書いた。

では維新は何なのか。
周知のように、維新は大阪橋下派とそれ以外はほとんど別物だ。
橋下派の本質はファシストなりきれずに自民党のパシリに堕ちたチンピラであり、それ以外はイソップのコウモリである。

座敷牢、自民のパシリ、コウモリ のどれが一番マシかと言えば、裏切り前のコウモリがマシに見える。
しかし、裏切り者は痛切な反省をしない限り、どこまでも裏切り続けるのだ。

まして、身中に極めて行儀の悪い自民のパシリを抱えているのだ。
こうなることは時間の問題だった。
それにしても、1週間も保たないとは、松野の根性のなさは見上げたものだ。

少しばかりマシな議員を座敷牢に閉じ込める民主党にしても、チンピラに脅されてどこまでも裏切り続ける維新にしても、局面局面で、必要に応じて連携することは、もちろん否定するものではない。
戦術的な共闘は、柔軟に行うべきだ。私もそう思う。

しかし、期待したり頼りにしたり、そういう情けないことはしたくない。して欲しくない。
ちゃんと正体を見切った上で、使える範囲で使うに過ぎない、とドライに見る根性が、私たち自身に求められている。

所詮は、自分しかいないのだ。数は少なくとも、好き嫌いはあったとしても、安倍政権との対峙において、戦争に反対することにおいて、決して裏切らない人々が、自分の口と手と足でなんとかするしかないのだ。

確固たるコアのない、他人任せの野党共闘では、期待してはガッカリ消沈するというこれまでの繰り返しだ。
わかりきった裏切りでガッカリするのはもう止めよう。
そんなこことでガッカリするのは、自分自身の問題だ。

民主主義とは、どっかの「民」のことではない。
「民」とは私であり貴方である。
自分がやる という意味なのだ 

2015-06-11(Thu)

憲法=民主主義と勘違いしてきた日本人

なんだか極右が喜びそうなタイトルだが、その意味はこういうことだ。

70年前に戦争が終わったとき、日本には民主主義のかけらもなかった。
ただ、民主主義を作ろうという熱意だけはあった。

そこに、日本列島(なかでも沖縄)を基地の島にしたい米国が、日本を武装解除する方針を持ってきた。
駐留する米軍にとって危険なファシストを絶滅するために、民主主義的な手続きも実施されることになった。

日本に民主主義を作りたいと思った人たちは、きわめて不完全ながらも、米国の提示した憲法を「使える」と判断した。
まだ憲法を作るための民主主義がない日本において、今から民主主義を作るための時間を稼げる と判断した。

こうして、1948年 米国起草でありつつ日本の民主主義者の支持を得た日本国憲法が成立した。

しかし、成立してしまってからは、「稼いだ時間で、これから民主主義を作るんだ」という熱意が急速に失われていった。
それどころか、憲法=民主主義と勘違いし、もうこれで日本は民主主義の国になったのだと、浮かれてしまった。

以来70年近くのあいだ、憲法によって暫定的に保証された「自由時間」を、これから民主主義を作ることに費やすのではなく、のんべんだらりと「戦後民主主義」を享受してきてしまった。
宗主国である米国や、戦前を引き継ぐファシズムとの「停戦協定」であった日本国憲法を、まるで永遠に続く魔法のように思い込み、これさえあれば大丈夫とニコニコ暮らしてきた。

しかし、停戦協定の有効期限は、何もしなければ早晩やってくる。
それは、宗主国=米国と、ファシスト勢力との対立関係が終わるときだ。
ファシストが本当に絶滅するか、両者が妥協するか が憲法が有効に機能する期限だった。

それまでに、日本人は民主主義の感性と作法を身につけ、容易にひっくり返されない実力をつけていなかればならなかった。
しかし、ほとんど何もせずに、憲法さえ護っていれば大丈夫と信じて疑わず、その結果、大多数の人はそんな問題が横たわっていることすら気がつかず、政治にも民主主義にも何の関心も失っていった。

今、オバマと安倍晋三の関係は、まさに宗主国とファシストの妥協そのものだ。
軍隊を単独で維持できなくなった米国は、危険なファシストであると知りながら、安倍晋三を使って自衛隊を米軍の傭兵化し、異次元緩和で無尽蔵にカネを刷って貢がせるしかなくなっている。
オバマ個人は嫌で嫌でたまらないが、米国の破産寸前の現実は、選択の余地がない。

その妥協が成立した瞬間、憲法は無力化してしまった。
70年かけて強力に補強すべきだった憲法は、憲法大好きな人にも、大嫌いな人にも、無関心な人にも、ずっと皆から放置され、今この修羅場に投げ出された。

70年前以上に民主主義の熱さえ残っていない今日、憲法という言葉の羅列は、為政者によって「拘らない」「新法に沿わせる」とまで言われ、抵抗する術もない。

憲法違反だ!と叫んでみたところで、敵は最初から守る気は無いのだから、なんとも思いはしない。
遅きに失したとはいえ、今からでも「民主主義を作るんだ」という気概を持つしかない。
言い換えれば、日本には民主主義なんて無かったのに、「憲法ができたから日本は民主主義だ」と思い込み、それを作るための時間を無為に過ごしてしまったことを、私たち自身が痛切に反省することからしか、始まりはしない。

誰かがやってくれるのではない。
偉い政治家がやってくれるのでもない。
勇気ある活動家がやってくれるのでもない。

私たちひとり一人が、誰かを頼って動かなかったことが、今日の安倍一族の跳梁跋扈を許しているのだ。

羽仁五郎氏が言うとおり 「君の心が戦争を起こす」 のである。




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2015-06-10(Wed)

野合か共闘か 野党統一名簿をめぐって

去る5月30日に行われた「玉城デニー議員」の講演会

その翌週に行われた かりゆしグループオーナーの「平良朝敬さん」の講演会

どちらも素晴らしい内容だった。
お二人とも、もともとは保守の立場から、オール沖縄の闘いの中心に立っておられる。
まさに、オール沖縄の心を私たちに伝えてくれた。

もし聞いていない方は動画配信してくれているので、ぜひ見ていただきたい。





さて、問題は本土の我々はどうするのか だ。

橋下が失墜したおかげで、維新と民主は急接近し、小沢一郎氏も参院選での統一名簿を呼びかけ、山本太郎氏もそれに同意しているようだ。

私の周辺でも、こうした動きはおおむね好感をもって受け止められているように見える。

しかし、私自身は実は複雑な心境なのである。
都知事選などでの私の論考を見られた方には意外かもしれないけれども、維新+民主に生活と社民が吸収されていくことには、私はむしろ反対である。

党の存立自体が風前の灯火である生活や社民が、維新や民主との連携を嫌っていても何もできない。
それはその通り。遠からず存在自体がなくなるだろう。
では、なんで野党連携に反対なのか?

その理由は、民主党の役割にある。
民主党は、単に根性がないとか、一部に裏切り者がいるとかいうだけでない、積極的な役割を持っている。と、私は認識している。

民主党その本質において、座敷牢なのだ。
ちょっとマシな政治家を、幾ばくかの選挙資金と連合のバックアップを餌にして居心地のいい座敷の中に閉じ込め、決して暴発(大活躍)しないように監視する。万が一、政権交代してしまうような事態になったら、マスコミと結託して首謀者を引きずり下ろして手足を縛って地下牢に閉じ込める。

小沢氏が着々と政権交代にむけて準備していたまさにそのとき、同じ民主党のなかで「座敷牢化」工作が進められていたのである。その安心感があったからこそ、マスコミも2009年には政権交代に好意的だったのだ。

経緯を冷静に見れば、居心地のいい座敷を作るのが岡田の役目であり、地下牢を管轄するのが前原なのだろう。そして、いよいよ座敷牢が破られようとするときに対処する隠れキャラが鳩山由紀夫氏であったことは、多くの方から異論を受けるけれども、否定する根拠が見当たらない。

単なるコンジョなしならば、今まさに戦争が目の前にあるこのときに、連携することに反対はしない。
過去の恩讐など、言い出すことはナンセンスである。

しかし、今ここで、野党連携とひきかえに、手足を縛られ口をふさがれ、戦争にも反対なんだか賛成なんだか国民の目にはよくわからないようなことになってしまったら、日本の政治は大政翼賛会になってしまうのではないか。わずかでも反戦の意識を残すものは、共産党だけになってしまうのではないか。そう危惧する。

ちなみに、共産党は「たしかな野党」にはなるかもしれないが、絶対にそれ以上にはならない。正論を吐いて、赤旗を売って党費を集めることが目的なのであって、政権を目指して弾圧をうけるようなまねは二度としないと、骨身にしみて誓っている。

民主党について、もうひとつ冷静に見ておかねばならないのは、大きな課題について、何一つ連携できるものがないということだ。

集団的自衛権も、民主党は行使容認である。 ただ、安倍の示している新3要件がダメ、と言っているだけだ。

原発の再稼働は、もちろんOK。

消費税は もちろんUP。

TPPは もちろん推進。

少しまともなのは労働法制くらいのもので、厚労省マター以外は、一体全体どうやって連携すればいいのか、容易に想像がつかない。

もちろん、今国会で戦争法案を廃案にするというレベルでは、民主とも維新とも十分に連携はできる。それは、集団的自衛権の行使そのものに賛成でも反対でも、新3要件に反対という一点で十分だからだ。

しかし、選挙ともなれば、その一点だけで闘えるのか。
選挙が「今」なのなら、まさに戦争法案が通るかどうかの瀬戸際なのだから、その1点でも連携するべきだが、残念ながら選挙は来年夏であり、自民党が本当に本気ならば法案自体は通ってしまった後ということになる。
下手をすれば、すでに具体的に戦闘がおき、自衛隊員が戦死しているかもしれない。

そこまで事態が進んでいるかもしれないのに、国民に示す選択肢が、戦争か座敷牢か共産党か、これでいいのだろうか。
国民が正気を失っていれば、ファナティックに戦争政策が圧勝するだろうし、正気であれば共産党が野党第1党になるだろう。
いずれにしても、何をしたいのかよくわからない、チラシを見ても反対なんだか賛成なんだか玉虫色でフニャフニャ言っている集団が、政権を取るとは、私には想像できない。

■■

とはいえ、私の見通しが絶対正しいとも言わない。
いろんな意見があり、今はちゃんとそれを議論すべき時ではないかと思う。

野党連携をすべきかどうか。
するならば、どうやるべきか。
しないなら、どう進んでいくのか。

私たち自身が、頭を抱えながらでも話し合い、希望と展望をどこに見いだすのか考えなくてはならない。

これまでの政治は、政治家が何かを決めて、国民は受け身で選択するだけだった。
国民も政治家も、そいういうものだと思い込んできた。
しかし、それこそが日本に「民主主義」をつくることを阻んできた最大の要因なのだ。

小沢一郎氏のある側近の方に会った私の知人は、「各地で支援者の討論集会をすべきでは」と提案したところ、「問題点が露呈するから討論はしない方がいい」という主旨のことを言われて、あきれかえっていた。

「日本に民主主義を根付かせる」ことを自らの使命とする小沢一郎氏ご本人が、まさか「問題点が露呈するから討論するな」と考えているわけはないと信じるが、周囲がそのような旧態依然たる、「民」主主義ならぬ「議員」主主義にとらわれている限り、小沢氏の本領を発揮することは難しいだろう。

まずは、私自身の住む関西から、問題提起し、話し合いの場を作っていきたい。
ネットであれこれ言うことも必要だけれども、顔を合わせて違う意見でも闘わせ、何かを生み出していくアナログな作業も、とても大事だと思う。

当ブログや生活フォーラム関西などで、順次お知らせしていくので、そういう機会にはぜひ参加していただきたい。



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