2015-08-27(Thu)

「日本のいちばん長い日」 見てきた けど・・・

このところやたらと忙しかった。今日は打ち合わせの帰りにちょうど上映時間がぴったりだったので、「日本のいちばん長い日」を見てきた。

演技はみな達者だし、雰囲気もよく出ていた。
が、それでもリアリティーのなさが拭えず、まったく感動できなかった。

演技に関して言うと、迫水秘書官を演じた堤真一だけは、テレビドラマの乗りで軽すぎた。
これもリアリティのなさの一因かもしれない。

だが違和感を感じたのは、何よりも、昭和20年の民間の現実がほとんど描かれていなかったことだ。
天皇や大臣の意外に優雅な私生活を描いたのは面白いと思ったが、回りの惨状と対比しなければその意味は伝わらない。

また、昭和天皇と阿南陸相をイイヒトに描こうという意図が見え見えすぎる。
戦争終結に動いた者たちにも、狂気に侵された心と、限界を感じる理性の板挟みがひとりの人間の中に存在したはずだ。
そうした人間としての葛藤を見せず、まるでこれまで狂気の戦争を遂行してきた張本人だと言うことを忘れさせるようなイイヒトぶりだ。

仮に、史実があのとおりで、それぞれの立場で終戦に努力したのだとしても、それまでやってきたことがチャラになるわけではない。
ハラキリしたからといって、許されるわけではない。

ハラキリと言えば、阿南の切腹シーンが異常に印象強くなるように描かれている。
原爆や東京空襲のシーンもあるが、それよりも2000万の戦死者よりも、阿南ひとりの切腹が印象深いという作り方が気持ち悪い。
武士道の賛美だ。
責任を感じるのであればあるほど、生きて辱めを受けるべきだったのだ。

結局、悪者を押しつけられた東条他だけが悪者で、自殺したものは美化され、天皇以下の生き残った幹部はちゃっかり戦後はイイ暮らし、という戦後の無責任社会につながっている。

まさに、詔書の文言について「時運のおもむく所」を、それでは行き当たりばったりだから「義命の存する所」とすべきだと主張した迫水秘書官の予言通りである。
演技は軽かったけれど、この映画で唯一胸に響いた台詞だった。

半藤一利の真意がどこにあるのか、原作を読んでいないのでわからないが、この映画からは、結局戦争の総括は、陸軍の暴走という印象しかない。

東京裁判のA級戦犯に黒い責任を、ハラキリした「潔い」幹部に白い責任を、全部責任を押しつけて本当の責任追及をせずに、岸信介をはじめとしたとんでもない連中を大量に戦後社会の中枢に生き残らせたこと。
これこそが、日本の原罪であり、いつまでも「謝罪しろ」と言われ続ける原因だ。

生まれてもいない70年前の戦争の責任を取るとは、「ごめんなさい」と口で言うことでは無く、70年前に置き去りにしてしまった戦争の総括をすることだ。その総括で責めを負うべきものたちを、さかのぼって追放することだ。それを、自国民の力で成し遂げることだ。

それは同時に、自力での総括をさせなかった占領軍の影響をうち払うことでもある。
かつての敵同士だった米軍と日本軍の幹部が手を組んで、戦後の日本を支配してきたのだ。
敗れて弱った日本軍の幹部を、米国に忠誠を誓わせて密かに復活させたのだ。

真の反戦のためには、日本の独立をかちとるしかない。
日米安保=事実上の植民地のままでは、戦争の総括も、未来への反戦も、実現することは出来ない。

「日本のいちばん長い日」
映画の感動よりも、なんだかそんなことを 、そぞろ考えてしまって、1800円もったいなかったかなあ。。



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2015-08-20(Thu)

山本太郎を第二の山宣にしてはいけない

2015年8月19日 参議院で日本の戦後史を画する質遅疑が行われた。
質問者は 山本太郎さん。





山本太郎議員が日本政府の「属国タブー」を追及!(IWJ)

彼の命がけの発言には、当選時からの覚悟がある。

太郎さんを守ること、そして太郎さんを広げること。それが焦眉の急だ。

2013年の当選直後に私が書いた記事から抜粋しておく。

(以下抜粋)

政治家というもののあり方、立ち位置が、これまでの「政治家」とはちがっている。

と同時に、山本太郎は身の危険を自覚しながら国会に乗り込む。
勝利の記者会見でも、万歳もせずニコリともしていなかった彼の姿を見た人も多いだろう。

86年前、やはり国会で孤軍奮闘していた山本という議員がいた。
山本宣治は1929年、治安維持法への国会での反対討論を封じられ、その直後に右翼に暗殺された。その時の日本人は、山宣を守らず一人にしてしまった。

山本太郎は、自分をウォッチングして欲しい、と言っていた。圧倒的な注目があることが自分の身を守る と。
意識的に注目するという意味と,視覚的にユーストなどで注目するという 両方の意味があるだろう。
いずれにしても衆人環視で山本太郎の身の安全をはからなくてはならない。
山本太郎を、第2の山宣にしてはいけない。

(抜粋以上)

なによりも孤立させないこと。

彼の発言が突出していれば、敵は容易につぶしに来る。
しかし、口々に同じレベルを叫び始めれば、抹殺することを躊躇(ちゅうちょ)する。

彼を守るとは、ひとりでも多くの人が、まずは「同感だ」と感じる人が、明確に同じレベルで語り始めることだ。
私たちは、もはや「対米従属に文句を言いながら戦後日本を享受する」というぬるま湯からあがり、「植民地からの独立」という正確なスローガンを掲げるべきだ。

「反戦と独立」 を曖昧さなく掲げるべきだ。



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2015-08-15(Sat)

日本国は大日本帝国の「社名変更」なのか?

日本国憲法をもつ現在の日本国と、70年前の今日に敗戦した大日本帝国は、同じ国なのか? それとも違う国なのか?
誰か、明確に答えられる人はいるだろうか?

企業に例えて言うと、
①りそな銀行
②日本航空
③ライブドア

のどのパターンなのか、ということ。

①りそな銀行は、破綻処理もせずに延命させたので、いわゆる「実質国有化」になった2003年以前と以降は、全く同じ会社である。

②日本航空は、2010年に会社更生法を適用し取締役は辞任している。が、更正法は会社の「再生」をはかるものであり、人的にも子会社の社長がCOOに就任するなど、同じ会社と言うことができる。

③ライブドアは、堀江の2代目と、現在のLINE傘下の3代目は、人的にも組織的にもまった別物だ。ライブドアという名は、ブランド名として残っているに過ぎない。

こうして分類してみると、日本の1945年の前と後は、かなり不完全な②日航パターンだったと言える。役員の全員辞任もしていないし、一度辞任したものが大臣や総理として復活しているのだから、限りなく延命措置に近い破綻処理だっといえる。

その一番の証拠が、ここに明記されている

20150815-1.jpg

そう、日本国憲法の御名御璽である。

社長は替わったかもしれないが、会長は名誉会長としてそのまま在籍し、新憲法はその名誉会長の名前で発布されたのである。
役員の一部は処分し、社名変更して定款や就業規則は書き換えたけれども、「同じ国」なのである。

国家の定義を「国土、国民、統治権」とするならば、国土は植民地を返し、沖縄と小笠原を米国に献上したけれども、大きな分割等はなく、国民も同様。そこに、統治権の継承があれば、日本国と大日本帝国は「同じ国」だということになる。

■■

ここが、戦後日本にしかけられた罠なのである。

安倍晋三が70年談話の中で、「戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったことが、問題になっている。

産経新聞などは大喜びしているが、「もう謝罪しないという意味か」」という批判も多い。
私は、産経の主張に与するわけではないが、このことば自体は間違っていないと思う。

「日本国に大日本帝国の責任をそのまま継承させ、しかもその責任をいつまでも曖昧にさせる」ことは、米国の占領政策だ。支配するには、スネに傷をもっていたほうが好都合なのだ。
「謝罪しろ」と言いながら、でも謝罪はさせない。それが米国の日本支配のキモであり、謝罪を拒否するいわゆる歴史修正主義の連中は実はまんまと米国に利用されているのである。

そういう意味も含めて、一度きちんとカタをつけることは、それ自体は必要なことなのである。
問題は、ではそのために何をするのか だ。

産経は、1985年のヴァイツゼッカー大統領の演説を引き合いに出している。いわゆる「荒れ野の40年」である。
(「荒れ野の40年 全文 http://r.binb.jp/epm/e1_6434_07022015122740/ )
産経が言いたいことは、ドイツだって謝罪していないんだから日本も謝罪する必要は無い ということ。

「自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません」
「ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服を身にまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません」
という部分を引用した産経は、その直後の文言を見ていないのだろうか。

ヴァイツゼッカーはその後にこう言っている。

「しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。」

「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 」

過去に対する責任はある。それは、目を閉ざさず心に刻むことだ。
ごめんなさいという口先の謝罪ではなく、過去を引き受けることこそが、責任の取り方だ、と言っているのだ。

もちろん、戦後のドイツにおいてナチス時代の大臣が閣僚に復活することはあり得ないし、党員だったというだけで大スキャンダルになる。
ナチスドイツとの決別を徹底してきたし、それを外交的にもアピールしてきた。

安倍晋三が「戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」というのならば、せめてドイツ程度のことはやれ、ということだ。
自分の祖父を戦犯として弾劾するくらいのことは、最低限やってから言え ということだ。

そして、安倍談話を批判する人たちも、「謝ってないじゃんか」というだけでなく、「口先の謝罪ではない責任の取り方」を真剣に考えるべきだ。
それは、まさに目を閉ざさず心に刻むことであり、なによりも、大日本帝国からの決別だ。
社名変更ではない、新しい日本をどうやって作るのか。
日本の文化はその多様性ごと継承しつつ、国家権力としては生まれ変わる。そのためにどうしたらいいのか。

この道筋を諦めないことが、唯一「過去に責任を負う」ということではないだろうか。


  2015年8月15日
  敗戦70年目にして、大日本帝国からも占領軍からも自立できていない日本にて




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2015-08-08(Sat)

潮目は変わったか?

潮目が変わった、と口にする人が増えた。

たしかに、様々な状況が安倍晋三を追い込んでいるように見える。
これを潮目と言うのならば、確かに潮目は変わったと言えるだろう。
しかし、潮目が変わって、どこに向かって流れようとしているのか、を誰も言わない。

安倍晋三の極右路線、極端な独裁者ぶりは、さすがに嫌気をさそい、支持率は急落した。
沖縄に対しては1ヶ月間の休戦協定を申し出た。
岩手県知事選は自民系候補が出馬取りやめ。
ついでに、新国立競技場の白紙撤回。
これらは、わずかな成果といえども、これまでの安倍独裁を押し返している印象は強い。

潮目が変わったちょうどこの時期、彗星のように現れたSEALDSなどの団体が、国会前や全国でのデモや集会を主導し、メディアにも好意的に取り上げられた。
こうした運動に参加している人たちの目には、今まさに潮目が変わったのは、新しい運動の成果だと映っていることだろう。

国民ひとり一人が声を上げるという、民主主義の「み」の字を忘れた日本人にとって、どんな形であれ直接行動の経験を積み上げるのは、かけがえのない経験だ。
全共闘世代より若い世代にとって、デモや集会や街頭宣伝などは、自分の社会的なポジションを失ってしまうような恐怖の対象だったはずだ。それが、3.11以降の脱原発と、今回の反戦争法案で、世の空気が変わってきた。
それは、窒息していた日本人の肺に、ほんの少し風穴が空いた画期的な出来事だ。

しかし、かけがえのない画期的な動きではあっても、それはまだ端緒であることも事実。
彼我の力の差は、まだあまりにも大きいと言うことも忘れてはいけない。

残念ながら、今の程度の運動で、安倍政権が方針転換することはあり得ない。
支持率急落とは言え、まだ30%以上を維持しており、自民党の政党支持率は余裕のぶっちぎりである。
安倍晋三という独裁キャラを切り捨てれば、自民党にとって、これまでと大きく状況は変わっていない。

これから民主主義を作っていく長い工程を考える時、冷静に「イマココ」を認識することは重要。
いたずらに成果が出たと思い込むと、運動としては寿命が縮むことになりかねない。
これは、集会などの人数を盛るべきでない、という話にも通じる。

では、なぜ潮目が変わったのか、変わったように見えるのか。

■■

敵は一枚岩ではない、ということを知っておきたい。

無理筋で金儲けしたい という点ではかわりは無いけれど、その方法が違う。
戦争を主な収入源にするグループと、金融を主な収入源にするグループがある。

戦争グループは、国家に戦争をやらせ、巨額の武器弾薬を使わせ、「民主化」の名の下に植民地化した地域の利権を独占する。
第二次大戦以来の、米国を使った典型的な戦争経済主義である。
それによって、アメリカ本体を含めた国会はボロボロに疲弊するが、産軍共同体だけはどんどん肥え太っていく。

戦争経済の問題は、利用した米国をはじめとした国家が、破綻するということだ。
戦争経済を推し進める主力であった米軍自体が、もはや予算削減のなかで闘うことが困難になっている。

そこで画策されたのが、日本軍(自衛隊)を米軍の配下として活用することと、大戦争によって米国の借金自体を帳消しにするくらいの秩序破壊、再構築である。
これまでのような、地域的な戦争ではなく、いわば世界大戦によって、米国の圧倒的な覇権を回復させようというのだ。
そのために、不足する現状の戦力と資金力を、自衛隊を動員することで補おうというのである。

これが、安倍晋三をして、集団的自衛権と戦争法案に突き進ませてきた、主な勢力だ。
安倍晋三が、虎の威を借りて中国韓国にに対して戦争を仕掛けたとしても、許容する。ないしは、これ幸いと戦線拡大させてしまえ、という絶望的な破壊力でこれまで進められてきた。
ファシズムをたきつけておいてから、叩きつぶすというマッチポンプを画策してきた。

もう一つの敵の勢力は、戦争は限定的にして、主に金融をとおして富を吸い上げる。
いわゆる、新自由主義とか、グローバル金融資本と呼ばれる勢力である。

地域的、限定的な戦争は金融資本をむりやり投下する先を確保することになるが、世界大戦は望まない。
また、無限定な戦争に突き進むファシズムのようなコントロールの効かない勢力は忌避する。
ちなみに、原発のような儲からないでコントロールできないものも、むしろ反対する。(コイズミが脱原発なのは、彼は新自由主義の直轄だからだ)

この血も涙もない合理的な強盗とも言うべき新自由主義は、カネを貸してバブルを作り、破綻させて富を吸い上げる、というビジネスモデルで攻め込んでくる。
貧しい国にも、独裁政権を利用して薄利多売ならぬ、薄利多奪をおこない、その結果が世界の飢餓につながっている。
もちろん、日本のような富がうなっている国は、彼らのメインディッシュである。

1980年代から日本に攻め込み、バブルを作って破裂させ、そこから本格的な日本収奪は構造化した。
日本だけは、いくら働いてもGDPは伸びず、収入は減り、ごく一部の超大企業を除いて、異常な貧困化スパイラルに陥っている。
これは、新自由主義が構造的に富を吸い上げ続けているからなのだ。

せっかくのメインディッシュを、無駄な戦争で疲弊させるのは、新自由主義にとっては得策ではない。
TPPも使って、富を吸い尽くすまで、ちょっと戦争で焼くのは待て、ということだ。

いま新自由主義が狙っているのは、かんぽマネー、ゆうちょマネー、GPIFの年金マネー、などの現生はもちろんだが、それにとどまらず、水道や空港や高速道路などの公営企業を虎視眈々と狙っている。
国の財産を運営する権利を手に入れて、「公共料金」と称して自動的に吸い上げる仕組みを作ろうとしている。

横文字で言うと、「コンセッション」と言うらしい。
竹中平蔵自身が以下のように説明している。
「コンセッション」は日本を変えるか?

ちなみに、新国立競技場の出直し自民党案はなんと、PFIだそうだ。
簡単に言うと、神宮の杜のあの敷地を民間にただで払い下げて、儲かるスタジアムを建てさせる、ということ。
なんだそういうことかい、と言いたくなる

この戦略にとっては、日本が焦土になるのは困るのである。

■■

しかも、70年かけてせっかく日本人を飼い慣らしてきたのに、安倍晋三があまりにも無茶苦茶するおかげて、徐々に目が覚める人が増えてきた。
安倍個人がターゲットになっているうちはいいけれど、見えない植民地支配の網の目を、見える日本人が増えてしまったら大変だ。
今のうちに安倍晋三を切り捨てて、ゆでガエルの日本人に戻してしまおう。

これが、潮目が変わったということの、冷静な分析なのではないかと、私は考えている。

戦争法案は参議院で早期に可決して、安倍はその責任を取る形で切られるだろう。
安倍は切られても、戦争法案は残る。残って、米軍補完の路線は静かに進められる。

大戦争の道は回避されたとしても、特に中東での局地戦争にかり出されるのは間違いない。
ファシズムや極右の熱狂的な戦争ではなく、米軍の配下として淡々と送り出されていく。

辺野古新基地問題で、沖縄県に対して9月9日まで休戦を申し出たと言うことは、これはオール沖縄の戦いの成果と言っていいと思うが、同時に9月9日までに戦争法案を参議院で可決すると言う意味でもある。

岩手県知事選で、現職参議院議員の自民系候補が出馬断念と言うことは、野党連合の成果ではあるけれども、参議院で戦争法案賛成票を減らさないという意味でもある。

参議院を放置して衆議院で再可決というストーリーではなく、参議院で成立させるつもりだ。
とにかく早いこと決着をつけておいて、安倍晋三を切って、新しい運動の成果とマスコミは持ち上げて、日本人はぬるま湯のゆでガエルにとっとと戻してしまうつもりだ。
そして、新自由主義の収奪が始まる。

この流れを、今すぐどうこうできる策はない。
残念ながら。

だが、こうした彼我の関係を冷静に見つめながら、10年後、20年後にむけて考え、発信する人間が少なからずいることを、私は信じたい。

潮目は、変わったことを喜ぶのではなく、冷静に「読む」べきものだ。
そのことを肝に銘じる。



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2015-08-03(Mon)

「民主主義って何だ?」

ちまたでは「民主主義って何だ?」というフレーズが流行っているようだ。

なるほど、学校で「民主主義とは 云々」「「日本は民主主義国家で 云々」と教えられたばかりの若い連中が、ふと現実を見回して「民主主義って何だ?」と口にするのはわかる。
しかし、そんな世の中で何十年も生きてきた私のようなオッサンが、同じ言葉を得々として口にするのはちょっと恥ずかしいのではないかと思い、以下、すこしばかり書いてみる。

民主主義とは、多数決でものを決めること、というのが一番単純な理解だ。
もう少し手が込んでくると、多数決で決めるからこそ、少数意見も尊重すべきだ、なんていう話も入ってくる。

それが民主主義だとするならば、戦後の自民党政治は、民主主義そのものだった。
選挙で多数をとりながら、ある程度は与野党協議で妥協案を作りながら政権を運営してきた。
まったく、これ以上ない理想的な民主主義だったということになる。

革新系にシンパシーを感じる人たちも、これに反論できるだろうか?
「少数意見の尊重」の程度が少ないという文句はあるだろうが、「多数決」という大前提がある以上、「少数意見の尊重」は「少ない」割合であることは当然ではないか。少数意見を聞き過ぎたら、むしろ反民主主義ということになる。

そんな自民党政治も、2000年代に入り、小泉以降は変質した。
少数意見の尊重がどんどん希薄になり、今の第2次安倍政権に至ってはほぼゼロ。「多数決」のみの原理になっている。

では、今叫ばれている「民主主義って何だ?」は、「もうちょっと少数意見も聞いてくれよ」という叫びなのか?
そんな お情けちょうだいの、情けない叫びなのか?
違うはずだ。

■■

民主主義とは、「多数決」と「少数意見の尊重」であるという定義からは、今の「民主主義って何だ?」という心情は説明できない。

「世論調査では反対多数」だから、少数意見ではない、という人もいるだろう。
しかし、「世論調査」で政治を決めることのほうが、実は恐ろしいとは思わないだろうか。選挙以上に、いくらでも操作のできる世論調査に、そこまでの権力と権威を持たせることの方がよほど危険だ。

昨年末の選挙の争点はアベノミクスだった、という人もいるだろう。
しかし、安倍が集団的自衛権の閣議決定をやらかしたのは、昨年夏だ。この歴史を画する閣議決定の半年後の選挙で、戦争が争点になっていないと思う方がおかしいのではないか。

やはり、昨年末の選挙で、懲りずに自民党を圧勝させた日本国民の選択は、棄権という消極的な支持も含めて「安倍晋三に任せる」ということだったのだ。
いくら腹が立ち、理不尽だと思っても、それが「多数決」の結果なのだ。

にもかかわらず、今の現実を目の当たりにしたとき、「民主主義って何だ?」という言葉が口をついて出るのはなぜか。
それは、民主主義とは「多数決」ではないからだ。

民主主義とは多数決ではない。

もちろん、だからといって、テロやクーデターが民主主義だというのではない。
少数意見を武力で強制するのは、文句なしの独裁であり、民主主義の対極なのは言うまでもない。

では、何が「多数決ではない」民主主義なのか。

「民」「主」「主」「義」 四つの条件がある。

■■

「民」 すなわち、国民が当事者意識をもつこと。
自らが「民」であることを自覚すること。

ここが、まさに日本の特殊性だ。
「民」が「民」であるという自覚がない、という国は、世界中に他にないのかもしれない。
日本よりひどい圧政、悪政の国は数多あれど、その国民はその悪政の被害者は自分たちだという自覚がある。
ところが、日本という国だけは、政治の対象が自分たちであるという自覚がないのだ。

これは偶然でも、日本人が間抜けなのでもない。意図的にそのように仕組まれ、誘導されてきた結果である。
1952年以降も、米国が実施的な植民地として支配していくためにとった、政策の結果である。
ぬるま湯の中で、何も考えなくても死ぬまで生きられる、ある意味幸せな国として運営されてきた結果なのである。

この占領政策のなかで、すっかり無くなってしまった「民」としての自覚を取り戻すこと。
これが、民主主義の第一歩だ。
これなしに、何をやっても民主主義のまねごと、抜け殻であり、民主主義らしきものにはならない。

そして、自覚を取り戻す特効薬は、体を動かすことだ。
私が「デモや集会は民主主義の『み』だ」というのは、そういう意味。

観念的に「自覚を促す」と言っても、哲学や宗教のようで、分かったような分からないような話になる。
大事なことは、違和感を感じたらまず体を動かし、民衆運動のなかに身を置いてみることだ。

これが、70年にわたる占領政策の呪縛から、自らの解き放つ方法だ。

■■

「主1」 主張すること。

大きな集会やデモに足を運んで覚醒した「民」にとって、次のステップは自分の口で主張すること。

これもなかなか根深いものがある。
日本人は心情的にも技術的にも「自己主張」が苦手だ。
これもまた、占領政策の一環として、そういう教育がなされてきたからだ。

強い自己主張を「はしたない」ことと教え、そのための技術はまったく教えてこなかった。
だから、心情的には辛抱たまらなくなって口を開いても、言いたいことが言えなくてもどかしく、聞いている人も何を言いたいのか分からない ということになったり、エキセントリックになって「変な人」という印象を持たれてしまったりする。
この欠落を取り戻さなくては、民主主義は動き出さない。

なるほど、大学生や先生などのインテリは、しっかりしたことを言えるかもしれないが、もっともっと広い生活者の中に、ちゃんと主張できる人たちを生み出すことだ。
インテリに頼るのではなく、自分たちの生活実感から話せる人々がどんどん出てきたとき、世の中の空気は変わり始める。

■■

「主2」 主催すること。

自ら企画し、呼びかけていくことができれば、10人力、100人力だ。

これは少し時間がかかるかもしれないが、考えてみれば、仕事や日常生活では同じようなことをやっている人はたくさんいるはずだ。
イベントの企画や、社員旅行の幹事や、地域の夏祭りや、学園祭や、なんやかんや。

集会や勉強会を主催することは、ハードルが高そうに思えるが、技術的にはそうしたことと変わらない。
本当は、やる気の問題、「自分がやらなきゃ誰がやる」という気力の問題なのだ。

こうした自らが主催者になる、リーダー的にうごく人々が、全国津々浦々に広がれば、もう民主主義の前提は整ったと言える。

■■

「義」  ここに至ってやっと多数決。

何が正しいのか それを決める妥協の技術が多数決だ。
占領政策に首まで、いや頭までどっぷりつかったまま、いきなり妥協せよというのが、これまでの「民主主義」だった。
しかし、「民」「主」「主」というステップを上がってきた時点では、まっとうな妥協が成り立つ可能性がある。

もとより民主主義は理想でも夢でもない。たんに、よりマシな妥協を生み出す技術に過ぎない。もちろん間違うこともある。
過剰な期待は禁物だが、しかし、よりマシな、自分の人生に自分で責任をとれる生き方として、選択していくものだ。

この段階は、具体的には選挙、ということになる。
300の選挙区に「民」が1000人、「主1」が100人、「主2」が10人いれば、間違いなく候補を立てて勝つことができる。

「民」が1万円の年会費を払い、「主1」が運動員として空き時間を活用し、「主2」がそれらの人々に指示を出し、本当に多数を納得させる主張の候補を立てれば、負けるはずがない。

これで初めて、民主主義の政治が実現するのだ。

これだけの地層を積み重ねなければ、70年にわたる占領の圧力に抗することなどできるわけがない。

2009年の選挙は、「民」「主」「主」を欠いた、「義」だけの勝利だったから、あっという間にひっくり返され、結果的によりひどい政治不信=占領政策の貫徹 を招いてしまった。
同じ轍を踏んではいけない。

「民主主義って何だ?」という問いかけに対して、この日本に50数年生きてきた私は、以上のように答えたい。




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