2015-10-28(Wed)

道はない しかし 道はできる

今回の記事は今年の3月2日に書いた「第二の敗戦に備えて」の改訂版です。
新しいことはあまり書いていないけれども、9月18日から一連の記事として書いてきた内容の、まとめになるかと思い、手を入れて再録します。

**************

2012年、原発が爆発しても自民党を圧勝させたことで、敵のスイッチが入ってしまった。あまりに酷いことをすると、さすがの日本人も逆上するのではないかという心配が、全くの杞憂だったと知ってしまったからだ。

そして、2013年参院選、2014年衆院選と、念には念を入れて確認をした後、「戦争になっても革命は起きない」という確信を得て、安倍晋三をして実質的な宣戦布告に踏み切って既成事実をつくり、さらに戦争法案を強行採決した。
直接の敵はIS(イスラム国)であるが、おそらくはWWⅢに向かっていく発端に過ぎない。

世界の政治家だけを見ていれば、オバマもプーチンも習近平も、世界規模の戦争は望んでいない。
しかし、中東で本格的に戦争の火が付けば、局地戦で終わる保証はどこにもない。むしろ、次々と火種を投げ込んでは、戦闘地域を広げていく可能性は大きい。

なぜか。

この地球上に、経済的なフロンティアがほとんど無くなってしまったからだ。
地球上を飛び回っている、世界の経済活動の何倍ものマネーを、投資する先がないのだ。
いくらr>gだといっても、投資する先がなければマネーは金利が払えず破綻する。
金融資本はどんどん膨らんでいくが、地球は大きくはならない。

まだ経済発展していない地域に投資して、上がりをかすめることで世界の「経済」は成り立ってきた。
しかし、もはや投資する先が少なくなったばかりでなく、南米にしろアフリカにしろアラブ世界にしろ、おとなしく上がりを上納しなくなった。

上納しなくなった理由の半分は、現地の傀儡政権が、(金融資本から見れば)勘違いして本気で独裁者になってしまったこと。後の半分は、民族意識や宗教意識などのたかまりで抵抗運動が大きくなったこと。
困窮しはじめた金融資本は、後者を使って前者を倒すという、アラブの春のようなことをやり、その国を内乱や内戦にしてきた。政治も経済も「リセット」しようということなのだろう。

マルクスの時代の資本主義は恐慌でリセットされたが、今日の資本主義は、戦争による制度と資産の徹底破壊によってのみリセットされる。

しかし、実際にリセットされるのは機械でも電気信号でもなく、生きた人間だ。
リセットされることで、多くの命が奪われるが、金融資本はそのようなことを気にかける機能を持ち合わせていない。

金融資本を動かしているのは、米国を中心とした1%x1%x1%の人間たちだ。
だが、いわゆるユダヤの云々のような、個人的な陰謀ではない。マネーがマネーを生み、一瞬でも休んだらマネーに押しつぶされる圧力で、0.0001%の人間たちも、止まれば死ぬという危機感で必死に走り続けているのだ。

絶えず投資するフロンティアを必要とするマネーは、あえて貧困を作り出し、戦争による廃墟を作り出し、内戦による荒廃を作り出して、マッチポンプで拡大を続けてきたが、もうそろそろこのような場当たり的なやり方に限界が来ていることに気がついている。
巨大なマネーは、世界を大きくリセットする必要に迫られている。

極右を使ったウクライナの政変も、IS(イスラム国)なる集団の出現も、そうした必要から生まれてきた。
世界大戦というリアリティの前に、オバマやプーチンや習近平が辛うじて踏みとどまっていることで、今のところ大戦争にまでは至っていないけれども、何かの留め金が外れれば、取りかえしの付かないことになる。

何がキッカケになるかは、可能性がたくさんありすぎて分からないけれども、かなりギリギリの瀬戸際にいることは間違いない。

■■

そうした世界の中での、安倍晋三だ。

中東から東欧を主戦場とする大戦に火がついた時、いったい誰が闘うのか?。
誰もが、米軍が主役であると想像するだろうが、米軍にはあるものが決定的に不足している。
それは カネ だ。

マネーのための戦争をするのに、マネーが不足しているという冗談のようなことが、現実に起きている。
金融資本は、戦費は負担しない。戦費は、貧者から税金という形で徴収し、武器弾薬費として金融資本が吸い上げていく。だから、戦費自体は投資ではない。
戦費を使って廃墟にした後に、金融資本は悠々と投資をするのである。

ところが、ここに至るまでに金融資本は、国家自体を徹底的に食い物にしてきた。
自分たちだけはどんどん減税し、そもそも巨額の経済活動は国家が把握して課税することすらできないようにしてしまった。
だから、世界中で税収が不足し、国の運営はままならなくなっている。

その典型が米軍である。
2013年から強制歳出削減が始まり、年10%を超える予算減を余儀なくされてきた。
2016年度は ウクライナとISの「おかげ」で増額するらしいが、それでも世界大戦をひかえた世界に冠たる米軍の姿にはほど遠い。

そこで、アフガン戦争からは、身代わり作戦を取りはじめた。
多国籍軍とかいうタテマエで、NATO軍に戦わせたりしてきたが、なにせヨーロッパの国はそれほど従順ではない。
いくら米国が「テロとの戦い」と叫んでも、自分の国の利害で判断する。

そこでクローズアップされるのが、世界8位の軍隊を持ち、米国の言うことなら自国の利害を無視してしたがうあの国である。
経済的にも、世界3位であり、まだまだ絞りとる余力がある あの隷属国家である。

隷属国家のトップには、次の条件が必要だった。
①絶対に自分の頭でものを考えない
②戦争にあこがれている
③自意識過剰
④恥とか常識が完全に欠落している

こうして、一度政権を投げ出した政治的欠格者が、再び政権の座につけられることになった。
彼の使命は、日本を「米軍の代わりに世界で戦争のできる国」にすること。

2012年末に政権に返り咲いたその男、安倍晋三は、2013年参院選、2014年衆院選という念押しをした後、ついに宣戦布告をした。
本人は渡されたとおりの台詞を言っただけで、宣戦布告をしたという自覚はないかも知れないが、カイロにおいて、また人質殺害後の会見において、実質的な宣戦布告をやってしまった。

そして、その布告を実行するための法律をも、憲法も国会も常識も踏みにじって、文字通り暴力的につくってしまった。

安倍晋三を引きずり下ろし、せめてもう少しでも自制の効いた人間をトップに据えない限りは、この戦争は止まらない。
どこかで戦端が切られるやいなや、大戦争に引きずり込まれる。
引きずり込まれるどころか、高揚した安倍晋三は、歓喜に血走った目で自衛隊を戦場に駆り出すだろう。

■■

事態はここまで来てしまった。
にもかかわらず、その危機感を共有できる場面すら極端に少ない。

既成の政党は、この事態の深刻さに比べたらどうでもいいことでゴチャゴチャともめ事がつづき、それに嫌気がさした人たちは得手勝手に自己満足に浸る。
トップランナーたるべき人が、各地方に数十人いれば何か打開の糸口はできるのではないか。そう思っていろいろと試行錯誤してきたけれども、私の微力では何も手が及ばないことが明らかになってきた。

この自己矛盾をかかえながら、それでも何とか前を向くためには、焦点距離を変えるしかないと思いつつある。
1年単位ではなく、10年単位で見ると言うことだ。

と、言うのは簡単だ。
しかし、今10年単位でものを考えると言うことは、その経過のなかに、おそらくは戦争があり、敗戦がある ということだ。

そんなことは考えたくない。
でも、冷静に考えれば考えるほど、それを覚悟せざるを得ない。

そうなったとき、そこまで行ってしまったときに、ふたたび1945.8.15を繰り返すのか。マッカーサーに万歳三唱しながら、自分たちの犯罪をけろっと開き直るのか。
それとも自分たちの頭で、本気で反省するのか。
その時点を見つめざるを得ない。

■■

「自分たちの頭で」 「本気で反省する」

これが日本の戦後に決定的に欠落してきたことだ。
意図的に、スポイルされてきた要諦だ。

そして、この「自分たちの頭で」 「本気で反省する」 を言い換えると、「自立と共生」になる。
そしてさらにより具体的に言い換えると、日本の独立と、反戦なのだ。

小沢一郎氏の言う「自立と共生」の具体的な内容は、「独立と反戦」なのだと私は確信している。

右翼が戦争を反省しなかったことと、左翼が日本の独立を言わないことは、実はワンセットだ。
相互に反発しながら相互に補完してきたのである。

実質的に植民地化されてきたことは、関岡英之氏、孫崎享氏の著作、そして矢部宏治氏の「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」 を読めば明々白々である。左派の人たちも、今では否定する人はいないだろう。

にもかかわらず、左派は「日本の独立」を言わない。それを言うと「右翼みたいだ」という理由で。
こんなバカなことはない。植民地が独立せずに民主主義を得ることがありうるか?
絶対にない。

左翼の願う反戦は、独立を勝ち取ってはじめて、自分たちの力で実現できるのだ。

逆も同じだ。
数少ない反米右翼は、戦争への反省を意地でもしない。
遠因を作ったのは米英かもしれないが、それでもやってしまった愚行はキッパリと反省し謝罪すべきなのである。

戦争を謝罪し反省する右翼こそが、日本の独立を牽引できるはずだ。

こんなに明白なことが、しかし、ほとんど理解されない。
戦争を正当化する右翼と、独立をないがしろにする左翼が、対立しながら実は相互補完してきたという、この「戦後民主主義」の真相を理解しない限り、孫悟空のように、宗主国の手のひらの上で転がされて終わってしまう。

今度こそ、今度いくところまで行ってしまったときこそ、右翼と左翼という分裂ではなく、「自立と共生」なのか、それとも「従属と開き直り」なのか、という切り分けができるようにしたい。
右も左もほとんどが後者に入ってしまった70年前を、繰り返さないようにしたい。

そこに至るまでに流される血の量を思うと、あまりにも沈痛だ。
心が痛い。割れそうに痛い。

同じ痛みを共有してくださる方は、なんとか耐えて、来るべきカタストロフィーに備えていただきたい。
どんな悲劇があろうとも、私たちは生きていかなければならない。
罪も責任も無い子どもたちに、何らかの形でバトンタッチせざるを得ない。

その現実と向き合っていく。

■■

9月18日から、一連のつもりで書いた記事をまとめておきたい

■情勢

「落選運動」では勝てない

野党大連合の可能性について

■主体

エリート主義を超えて

お任せ 頼りきり 縋りつき からの脱却

■課題

日本のベールをはいだ安倍晋三

日本の貧困化を直視しよう

■運動論

大同小異ではなく、一同多異でいこう

デモや集会は有効な手段か?

「組織」は時代遅れか?

そして、本稿がまとめである。

「組織は時代遅れか?」に書いたように、山本太郎さんを「反戦と独立」の旗として、動ける組織をつくることが、これから数年の中心課題だと、私は考えている。

その具体的な道筋として、永田町恐怖新聞や、それにかわるチラシのポスティングや街頭宣伝活動を、統一的に行っていくことだ。
バラバラは、敵から見ても、2500万人の流動層から見ても、「力」にはならない。

とは言え、道はどこにあるのか、どちらへ進めば良いのか、実は誰にもわからない。
わからなくて 当然なのだ。

魯迅は言う。
「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。」(「故郷」より)

心に刻もう。




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2015-10-27(Tue)

「組織」は時代遅れか?

ビジネスから政治に至るまで、上意下達のヒエラルキー型組織は時代遅れで、ネットワーク型の連携が流行ということになっている。

さらに、シェアという概念がそれに加わり、あたかも所有や所属の境界線もあいまいになってきたかのように見える。

とくに振興の市民運動の世界では、組織ばったことをすると蛇蝎のごとく嫌われて、なかには実力で排除されることもあると耳にする。

市民運動が、組織を嫌う気持ちは理解できる。
だいだい、もともとが善意であればあるほど、組織の中でのいがみ合い、組織同士の抗争はつきもので、いったい何のために運動を始めたのかすらわからなくなるようなことも珍しくない。

そして、組織は長く続けば続くほど、個人を超越して、存続意思をもって暴走し始める。
なにか矛盾が起きた時に、組織を変えるのではなく、個々人を犠牲にして組織が生き残ろうとする。

これはたぶん、有史以来、連綿として進歩なく続いてきた歴史なのだろうと思う。
そんな組織を嫌う気持ちは、私にも十分すぎるほどある。

■■

しかし、政治でも経済でも、本当にネットワーク型で成功している事例は、本当にあるのだろうか。

インターネットを介しているからネットワーク型 なんていうお粗末な議論ではなく、本当にヒエラルキーの存在しないネットワーク型で、何事かをやり遂げたという話を、私はまだ聞いたことがない。

きわめて限られた環境においては、十分なスキルと目的を共有しているものが集まり、ネットワーク型で成果をだすことも充分あり得るだろう。
しかし、そもそもヒエラルキー型が時代遅れで、次はネットワーク型だ、というのならば、もっと普遍的に成果が出せなくてはならないだろう。たまたま偶然、すっごいメンバーが集まった時だけできました、では困ってしまうのだ。

もちろんビジネスでもそうだし、政治の世界でもそうだ。

そして、政治の世界での「ネットワーク型幻想」は、実はきわめて危険ではないか、と思うのだ。
すくなくとも、ヒエラルキーを排除してどうにかなる、という根拠が理解できるまでは、あえて幻想という言い方をする。
その幻想としてのネットワークは、実態としてはより大きなヒエラルキーの傘下に組み込まれているということはないのか、予断なく検証する必要がある。

傘下に組み込まれるとまではいかずとも、意図的に無力化されていることはないのか。
ネットワークという名の「バラバラ」にされているということはないのか。

以前も書いたけれども、推定400万人もの人が全国でデモなどに参加したというのに、一カ所にあつまったのはせいぜい10万人にすぎない。 これは、ネットワークなのか、バラバラなのか。

ついさきごろも、「オールジャパン」という集会と、「総がかり」という集会がすぐ隣の区で同時刻に行われていたのは、総オールなのか、バラバラなのか。

少なくとも言えることは、敵にとって、もっとも最大最強のヒエラルキーにとって、抵抗するものがネットバラバラだったら、とっても助かるということだ。
市民運動の組織嫌いは、残念ながら、そうした結果を招いてしまっている。

■■

私は、ヒエラルキーを否定してしまうのは、今の段階では間違いだと考える。

組織の恐ろしさを知っている人こそが、注意に注意を重ねて、組織を作っていくべきなのではないだろうか。
今はまだ、その段階を越えていかなければ、日本に民主主義の真似事すら始まらない。

だからこそ、小沢一郎さんに期待したのだが、残念ながら小沢さんは自ら国民組織を作り上げる意思はないようだ。
理念としてのオザワイズムは生きているけれども、国民組織、市民組織としての小沢党ができることはない。

今残っている最後の糸は、太郎党をつくることだ。

「山本太郎となかまたち」といういかにもヒエラルキーを否定したかのようなネーミングをしているし、後援会にいたっては「太郎’sネットワーク」というそのまんまだが、しかし実態は誰が見ても、山本太郎さんを頭にすえた組織である。否も応もない。
無理矢理に、太郎さんの指導性を否定して、幻想のネットワークにしてしまえば、それはなかよしたちの同好会に終わってしまう。

党とか組織とかいう生臭さは、太郎さん自身が忌避するところではあるだろうが、それでもなお、いや、忌避する人々だからこそ組織の核になっていくべきだ。
組織が大好きな人たちにやらせるのは、それこそ危険キワマルからだ。

今はたぶん、反原発運動以来の太郎ファンが多数を占める「なかまたち」が、太郎さんをトップにして「動ける」組織になれば、太郎さんが国会から離れられなくとも、チラシや動画を活用して、全国で運動していくことができる。

全国300の小選挙区に、各10人の「動ける」人、100人の手伝う人、1000人のカネ出す人 がいれば、確実に政権は取れる。
そのもっともカギになるのは、10人、すなわち全国で3000人の「動ける」人が生まれるかどうか。

「動ける」人、これまた古色騒然に言うならば「活動家」が、どれだけ生まれてくるかどうかが、運命の分かれ道なのだ。
そして、今はバラバラの状態だけれども、実はそれに近い数は存在しているはずだ。

野党共闘も、もしできるのならばやるべきだが、コアを解体したり融合したりしてはいけない。
それぞれの理念は掲げながら、その場その場で共闘をするのだ。

私は、 反戦と独立を明確にしている小沢さんや太郎さん以外を自らの核だとは思わない。
そういう同志を、どれだけ「組織」できるか。

5年、10年というタイムスパンの中で、70年間の焼け野原から雑草が芽を出すような民主主義の始まりを、植民地からの解放を、この国の歴史の責任を負いながら、勝ち取っていこうという意思。

前の記事で提案したチラシ作戦を一つの水路として、そういう意思を組織として集めること。
これが、当面の最大の課題であると、私は思っている。


■■

記事と直接は関係ないけれども、下記のようなラップバンドの方からコメントをいただいたので、紹介しておきたい。

京都で自主レーベルにて音楽活動中のBALSEと申します。(略)
今夏公開した反戦ラップ曲「NO MORE WAR」、ご機会あればご一聴願えると幸いです。来月この曲が入ったフルアルバムを全国リリース予定です。微力ですが、無力でないなら意味はあると信じて、ライブでも伝えまわっております。

NO MORE WAR
https://youtu.be/H05mgUHja0A

公式サイト
http://kyotobalse.com/




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2015-10-20(Tue)

デモや集会は有効な手段か?

シールズの集会にやっかみ半分で文句をつける連中の「デモなんて」という台詞と同じだと思わないでもらいたい。

私は集会やデモにはできるだけ参加するようにしているし、自分でも集会などの主催をしたこともあり、それがどれだけ大変なことかもある程度分かっている。
仕事や家庭と両立させるのは、まったくもって至難の業であり、身も心も捧げるくらいの根性が無いとなかなかできるものではない。

それほどの難事業を、数多の団体がバラバラにやっている現状は、オカシイんじゃないか、と言いたいのだ。

私の回りでもいろいろな情報が飛び交うから、集会やら学習会やらデモやら街宣やらが、実にたくさん企画されているのを毎日のように目にする。私の知っているのはまだ氷山の一角で、もっともっと多くの企画がなされているのだろう。

奇しくも産経新聞がデモ参加者をくさするためにやった世論調査で、なんと400万人余もの人々がデモや集会に参加したらしいということが分かった。ものすごい数である。
この人数が、まとまって抗議すれば、さすがの安倍晋三も震え上がったかもしれない。

しかし、残念ながら、この人数は数々の、実に星のように全国に散らばるバラバラの運動に、バラバラに参加している。
そして、貴重な貴重な「主催者」の面々は、バラバラに100人とか1000人とか1万人とかを集めることに全勢力を使い果たし、口さがなく言わせてもらえば、「よくやった」感にひたっている。

もちろん、全国の「主催者」はよくやっているし、よくやったのだから、私ごときが文句を言う筋合いではないのだが、それでもなお、あえて言わせてもらえば、「止める」という獲得目標からは遠く遠く離れている。

なんでこんな酷いことを言うのか。それは 今全国で「主催者」をやっている人々こそが、この国に暮らす人々の宝であり希望だからだ。
その一筋の光のようなわずかな希望が、気息奄々で力尽きてしまっては困るからだ。

■■

とくに集会は、自己満足に陥りやすい。
同じ意見のものが集まって、同じ意見を言い合って、拍手して気勢を上げる。

1年に1回くらいは、たしかにこうした内輪の決起集会も意味がある。
同志の存在を感じて、明日からまた頑張ろうという気になるのは、やはりこうした集会の効用だ。

しかし、毎度毎度このようなことを続けることに、何の意味があるのだろうか??

敵に圧力をかけ、迷っている人たちに参加を促す大集会は、同志的な決起集会とはまったく別物だ。
これは、乾坤一擲、周到に準備して、十分な宣伝をやり、全国津々浦々の運動家の協力をはかり、本当に100万人を集めるつもりでやらなければ、結果的に内輪の集会の延長になってしまう。

デモは集会よりもアピール力はあるけれども、それでもかなりの人数を集めなければ、注目されることもない。
そして、それなりの人数を集める作業というのは、それだけでヘトヘトになるような大変な仕事なのだが、その割にアピールが届く範囲はかなり狭い。
労力のコストパフォーマンスで考えると、ものすごく効率が悪い。

街宣は、比較的少人数でデモより大きなアピール力をもっている。
ただし、街宣でのスピーチの技術は、きわめて高度なものが求められる。
通りがかりの人の耳に入る話は、せいぜい1分。このなかで、んっと思わせるスピーチができなければ、やはり自己満足に終わってしまう。

こうして考えてみると、少ない実働部隊で最大の効率を生み出すのは、ポスティングではないだろうか。
チラシを地域の住宅のポストに入れるポスティングである。

全国で「主催」や主催の手伝いをしているような面々が、仮に1万人いたとすると、月に500枚ポスティングすれば、年に6000万枚。なんと、ほぼ全世帯に配布することができる。

完璧な地区割りは難しくとも、それだけの数のポスティングは、やってみる価値はある。
もちろん、費用も1~2億円かかるけれども、1万人で割れば一人1万円だ。カンパも募れば、十分可能な額である。

そして、何より大事なことは、配布するチラシがバラバラではいけない、ということ。
同じチラシ、同じテイストのチラシが6000万枚まかれることで、これまでは明確な意見を持っていなかった人々の中に「んっ」が生まれる。
自己満足に終わらない、しっかりと考え抜かれたチラシを、統一して配布することが、ポスティング作戦の要諦だ。

街宣より良いのは、全員に同じスキルが求められるわけではないということ。
いいチラシがあれば、あとは少々の時間とやる気があれば、だれでも参加することができる。

■■

では、そんなチラシがあるのか という話になる。

ある。

20150923-1.jpg
20150923-2.jpg

PDFファイルはこちらをクリック 永田町恐怖新聞 Vol2


前にも紹介したが、山本太郎さんの「永田町恐怖新聞」だ。
立憲主義をなんたら とか 憲法違反がどうたら とか小難しい言葉を使わずに、お金の話につなげつつ書いている。
「自分が言いたいことを書く」ではなく、「どうやったら読んでもらえるか」を考え抜いたチラシになっている。

このたまらない泥臭さに、拒絶反応を示す人もいるだろう。
そんな方は、では自分で作ったチラシがどれだけの(同志以外の)人に読まれたのか、振り返ってみるといい。
たぶん、ほぼゼロだろう。少なくとも、私は自分でそう思っている。

インテリや、昔全共闘などではない、選挙には行かないとか、行くけどいつも迷っている人たちに、訴える言葉を持っているのは、私が知る限りでは、山本太郎さんだけだ。
「うんうん」という1800万人の反自公派のうなずきは、とりあえずもういい。
「んっ」という2500万人の流動票の気づきを目指そう。

というわけで、具体的な行動提起として、私は「永田町恐怖新聞」、または主催を拡大した同様のチラシを、全国で統一してポスティングする作戦を提唱したい。

そこから、また次の作戦が派生してくるだろう。

(ということで、続きはまた後日)




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2015-10-17(Sat)

大同小異ではなく、一同多異でいこう

共産党の国民連合の提案はマスメディアが珍しく(?)盛んに取り上げるので、多くの人が知るところとなり、賛同も寄せられている。
そして、案の定、やる気のない民主党に批判が集まっている。

共産党の提案は、小沢一郎がずっと言い続けてきたことであり、2013年5月には山本太郎が共産党を含めて呼びかけをしたことだ。
このときは、共産党は太郎さんの呼びかけを歯牙にもかけなかったが。

しかし、小沢さんや太郎さんの主張や行動は、よほど奇矯なことをしない限りマスメディアは決して取り上げないので、あたかも共産党が初めて呼びかけたように思われている。

まあそれはいい。
それでも、これまで野党の票を割ることしかしてこなかった共産党が、このような提案に踏み切ることはいいことだ。
たとえそれが、民主党は絶対に飲まないと踏んだ上でのパフォーマンスだったとしても、やはり原則的に提案は正しい。

私が気になるのはむしろ、この提案に対して賛同する声の中に 「小異を捨てて大同につけ」と、大同小異の主張が大きいことだ。

大同小異のワケは無いだろう。

安倍がやっている悪政の数々のほとんどは、実は野田内閣で始められたことだ。
原発、被爆、集団的自衛権、TPP、 そのほかにも数え上げたらキリが無い。

野田は、やり始めたけれどもやりきる根性が無かったので、より厚顔無恥な安倍晋三にバトンタッチさせられたのだ。
野田と安倍は直線でつながっている。

その民主党と連立するにあたって、「大同小異」のワケが無い。
どうみても、「小同大異」である。

共産党にしてもそうだ。
私個人が正しいと思う個別政策は、ほぼ共産党と同じだが、しかし、共産党と「大同」だなどと言われるのは、金輪際ご免被りたい。政策が共通ならば心が通じるというものではない。私は、共産党とはあくまで「大異」の関係だと自覚している。

それでもなお、共産党が提案した国民連合と選挙協力は、原則的に正しい。
それは 「小同大異」ではあるけれども、「一同多異」で、一点だけ共闘して実現しよう、という提案だからだ。

「大異」を捨てるのは、人間をやめるようなものだ。捨ててはいけない。
違うということを、お互いに知りつつ、尊重しつつ、一点だけ実現するまで休戦しようという期間限定の戦術は、きわめて正しい。

■■

ちまたの議論を見ていると、なんでこんなに頭が単純なの? と不思議になる。

「連立」や「共闘」と、「合併」や「吸収」との違いが、なんで分からないのだろう???

音楽で例えればわかりやすいだろうか。
「連立」はコラボ、「合併」はグループ。
あるコンサートやアルバムを実現するための一時的なコラボが「連立」であり、ずっと同じ音楽を作っていくために一つのグループを作るのが「合併」だ。

グループになるのに音楽観が大きく違っていたら困るだろうが、コラボするのにそんなことは関係ない。
むしろ、音楽観が違う方が、思わぬ効果が生まれたりする。

共産党の提案が、野党は一つの党になろう、ということだったら、たしかに「小異」だろうが「大異」だろうが、捨てることを意味する。
しかし、国民連合は、期間限定、目的限定のコラボレーションである。
大異を残したまま、一点だけ実現しようという提案だ。

繰り返しになるが、これに対して「小異を捨てて大同につこう」というのは、三重に間違っている。

まず、小異では無く大異である。
そして、これは捨ててはいけない。
さらに、国民連合はこれを捨てようという提案ではない。

■■

まった同じ意味で、国民連合に対する批判もまったくピンぼけである。

右からも左からも、「民主党が共産党と同じになるのはけしからん」 「共産党が民主党と同じになるのはけしからん」 と言い合っている。
申し訳ないが、バカじゃなかろか と思えてならない。

そもそも、同じになる必要は無いし、同じになれという提案でもないし、同じにならなくてもコラボはできる。

国民連合を巡る騒ぎを見ていると、戦後日本人に施された教育の効果をまざまざと見る思いだ。
政治的な思考も訓練もすべてスポイルされ、感情的な判断しかできないようにされてきた日本人。
できるだけ政治を「汚いもの」を思わせて、普通考えれば分かることを分からなくされてきた日本人。

とはいえ、国民がどのような判断をしようがしまいが、批判をしようがしまいが、国民連合は実現しない。
それは、民主党がそもそもそういう党だからだ。
これについては、以前の記事で書いたので繰り返さない。

気長すぎるように思えるかもしれないが、それでも私たちは、民主主義をゼロから、いや大きなマイナスから始めなければならない。
なぜなら、民主主義って何だと問うて、これだと答えられるようなものは、まった持ち合わせていないからだ。
やっとデモを始めたことを、喜ぶ気持ちは大切だが、そこから民主主義までの道のりは遙か遠い。そのことから目を背けてはならない。

70年にわたって実質的な植民地支配をされてきた現実をしっかりと見据え、その大きなマイナスから出発する気概をもたなければ、日本の民主主義は気長どころか永遠に訪れない。

残念ながら、その道程には戦争があるかもしれない、大きな混乱もあるかもしれない。
できるだけの抵抗はするにしても、民主主義が存在しない今の日本で、これを止める術はまだない。
なんとか間に合ってほしいとは思うけれども、そう思い立つのが20年遅かったいう悔恨が心を責める。

バブル崩壊からアジア通貨危機の時代に、せめて今と同じくらいの認識と動きがあれば、20年後の今は少しは民主主義が芽吹いていたかもしれないが、そんな後悔をしていても仕方が無い。
だから、今から20年後に、私たちの孫の世代が世に出て行く頃には、今よりはマシな、民主主義が少しは機能する日本にしておきたい。

そのために、何かが始めるべきか。原則論はこのくらいにして、次の論考からは行動論に話を移していこうと思う。



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2015-10-15(Thu)

日本の貧困化を直視しよう

左右を問わず、日本の貧困化への自覚が薄いようにおもう。

団塊以上の世代では、まだ貧困は少数の問題かもしれないが、それ以下の世代ではメジャーな話になっている。

こちらのサイトを見ると、貧困化の諸相がまとめられている
→ http://matome.naver.jp/odai/2141075738235341301

日本経済がアジア諸国から収奪して成長してきたことを問題視してきた「左」の人々ほど、日本の貧困を直視できていないのかもしれない。
たしかに収奪はその通りではあるが、今や日本は加害者であるだけではなく、間違いなく被害者になっている。

経済学というのは、簡単なことを難しくして一般の人に分からなくする学問らしい。
なぜ日本がこれほど急速に貧困化しているのか、ぱっと見て分かるように説明してくれる学者がなかなかいない。

■■

なぜ人は貧乏になるのか。

① 働かない

② 働いても商品が売れない

③ 商品が売れても代金を回収できない

④ 儲けても多額の税金を取られる

⑤ 儲けをだれかが独り占めする

⑥ 収入以上に出費が増える

これ以外に、何か理由があり得るだろうか。
学者さんはややこしいことを言うかもしれないが、端的に言うとどれかに当てはまるはずだ。

日本の場合を大くくりで考えると、①ではない。

②は、超長期のスパンでは物が増えすぎて需要が減ったということはありうるが、中期的にはむしろ貧困の原因では無く、貧困の結果である。財布が寂しいからものは売れないのだ。

③の回収は、輸出企業において発生している。支払いはされているのだが、ドルを日本に持ち帰ることができず、そのまま海外の銀行においたまま、という巨額の資産がある。2014年で945兆円と言われている。
その企業にとっては損失ではないかもしれないが、日本の国内ではお金が回らない。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO87132860S5A520C1MM0000/

④は言わずもがな。財務省のグラフでも、国民負担の激増が分かる。
→ https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/241a.htm


⑤も激しい。こちらのブログがまとめてくれているが、企業の利益や配当は増え続け、給料は減り続けている。そしてそれは、日本だけだ。2012年までのデータなので、その後の安倍時代でもっと酷くなっていないかどうか検証の必要がある。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/norrie_sky/25468004.html

⑥については、物価は上がっていないというかもしれないが、「必要」なものが激増している。「売れない」のを補うために、少ない給料から巻き上げるための項目が増えている。スマホなどの通信費、塾などの教育費、7年で壊れる家電 などなど。
コンビニ飯の大盛況に見られるように、貧困になるほど時間を金で買わざるを得ず、より貧困化していく。

これだか苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の扱いを受けながら、それでも何とか生きてこられたのは、それまでの経済力がそれなりにあったからだ。ゼロから始まっていれば、ホームレスの数は今の数倍になり、街を見ただけで貧困は隠しようも無くなっていただろう。
しかし、日本の場合は紛いなりにも高度経済成長で高所得を実現していた。プラスからの転落なので、まだ大丈夫のような気がしている。その幻想は、あと数年で消え去るだろう。

いや、もうすでに「まだ大丈夫」は幻想だ。
すでにプラマイゼロのラインは割り込んでいる。

そしてその原因は、GDPの2倍もの金を海外に置きっ放し(回収不能)にしていること、大企業と株主(その3割が外資)が儲けを独占していること、社会保障を含む税負担の激増、この三つだ。
それ以外は、ハッキリ言って枝葉末節。貧困の現実を原因を隠すための、詭弁にすぎない。

■■

戦争法案の廃案は、たしかに絶対的に必要なことだ。
その一点で、多異はおいて共闘することは、これも必要なことだ。

しかし、日本の貧困化を直視せず、その対策を提示しない勢力は、決して選挙では勝てない。

自公2500万 : 反自公1800万 : 非自公流動2500万 : 棄権3000万 これが日本の大きな票割りだ。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1419.html

非自公の流動票を、棄権させずに反自公に投票させること。
このカギは、貧困対策である。
言葉として貧困対策というのは抵抗があるかもしれないが、本質的にそれだ。

子ども手当、教育の無償化、医療費の無償化、生活保護の有効化、最低賃金を生活できるレベルにする。
今は株式に投じている巨額の公的資金を、新たな仕事作りに回して雇用対策をする。
社会保障を含む税負担の、極端な金持ち優遇をやめる。
特別会計をガラス張りにして、負担自体を減らす。
対外資産を回収して国内経済に投じる仕組み作り。

そうした、「生きる青写真」を提示しなければならない。

それが、来年参院選にむけて、真の野党がやらなければならないことだ。



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2015-10-09(Fri)

日本のベールをはいだ安倍晋三

前回の記事で私は、

国会と市井、議員と生活者が、どのように相呼応できるのか。
その道筋をつくる可能性を感じるからこそ、生活太郎に期待するのである。

と書いた。

では、その道筋の可能性はどこにあるのかを考えてみたい。
その前提に、今日書きたいのは、安倍晋三の登場で、日本の何が変わったのか、ということだ。

■■

集団的自衛権と戦争法案に関して、安倍政権がやったことの批判には、いくつかのレベルがある。

①閣議決定と戦争法案で、これまでは存在した民主主義や立憲主義が壊された

②閣議決定と戦争法案が強行されても、民主主義や立憲主義はまだ存在している

③閣議決定と戦争法案で、もともと日本に民主主義や立憲主義など無いことが分かった。

一番多いのは①であり、②だと信じている人も少なくない。
私はこれまでも縷々書いてきたように、③の立場だ。

民主主義のベールをかぶった植民地というのが日本の実態であり、ちょっと風が吹けばめくれてしまうような偽物の民主主義だったということだ。
そして、安倍晋三の「功績」は、そのベールをわざわざ国民の目の前でめくって見せたということ。

それでも、戦後の日本は民主主義の国だと思い込まされてきた国民は、なかでも政治意識の高い国民は、その民主主義が偽物だった、ひらひらのベールにすぎなかったという事実を認めることができない。
無理も無い。ベールを護るための護憲運動に人生を捧げてきた人たちにとって、そんな残酷な事実は認めがたいだろう。

しかし、いかに残酷で無残なことであっても、現実から目をそらしたところに未来は無い。
安倍晋三が、まざまざと見せつけてくれたように、日本の民主主義や立憲主義など、たかが一内閣が思い立ったら、一瞬で破れ散るようなものだったのだ。

何よりも、政治的な無関心やお任せ主義は、日本人の国民性でも無ければ、たまたまそうなったのでも無い。
用意周到に、70年の時間をかけて、ぎっちりと洗脳し、作られてきた。
政治的な経験を積ませないように、ずっと保育器の中に入れられてきた乳児のような日本人なのだ。
そのことを見ずして、無関心な人々を非難したり、逆に簡単に政権交代が実現するように言ってしまうのは、間違っている。

たしかに、政権交代だけならば、受け皿を用意できれば可能かもしれない。
しかし、そんな「お任せ」の政権交代は、ちょっとしたクーデターを仕込まれたら、あっというまにひっくり返ると言うことを、私たちは苦渋の思いで学んだはずではないのか。

70年間の洗脳を解いて、根っこからの民主主義に立脚する政権交代でなければ、敵は何も怖くないのだ。

■■

だからといって、緊急措置の政権交代、野党共闘を否定するわけでは無い。
とりあえず安倍を引きずり下ろすための暫定政権は、無いよりはあったほうがいい。断然いい。

が、その可能性については、前回も書いた通りだ。
そして、もし実現したとしても、それがお任せ政権であるならば、民主党政権崩壊の二の舞になることは明らかである。

そうやって失敗を繰り返しながら、徐々に民主主義は作られていくという意見もあるだろう。
一般論としては同意するが、長期にわたって計画的に、かなり心の奥深いところまで政治不信を植え付けられてきた日本人のリハビリには、かえって逆効果になることも充分あり得る。

民主党の裏切りは、ただでさえ低い日本の投票率を激減させた。まさに、敵の狙い通りである。
二度目の裏切りが、政治的な乳児である日本人を、どこへ導いてしまうのか、私はまったく楽観していない。

政治的な乳児という見方は、決して日本人をバカにしているのではない。
そういう環境に置かれてきたという事実から目をそらさないということであり、その環境を壊していけばそこに可能性がある、ということだ。
あまりにも悲惨な経験を積んでしまうと、そこには覆しがたい絶望がうまれてしまう。しかし、日本人の戦後の政治的な経験は良くも悪しくもほとんど無いに等しい。
悪く言えば虚弱だが、良く言えば無垢であり、これから作っていく可能性を持っている。

こうした日本の現状から目をそらさず、思い込みで現実を曲げず、絶望の裏の希望を見いだすことからしか、私はこれからの可能性を考えることができないのだと思っている。

そもそも日本に民主主義など無い。
日本人は計画的に政治的無関心に育成されてきた。

この戦後日本の最大の秘密が、安倍晋三の登場によって、明らかにされたのである。

まだ少数ではあるが、かなりの数の人々の目に、その事実が焼き付いたのである。

ここが出発点だ。




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2015-10-07(Wed)

お任せ 頼りきり 縋りつき からの脱却 

野党共闘やら国民連合政府やらに期待している方は多い。
私も、もし可能ならばそれが一番だと思うし、数年で事態をひっくり返すための方法は、それしか無いということにも同意する。

しかし

こうした期待の声を聞いていると、安直すぎるのではないかという思いが強くなる。
70年続いた被占領国である日本。
未だかつて民主主義など経験したこともないのに、自分たちの国は民主主義の国だと信じ切っている日本。
マスコミが煽らない限り、何があっても、どんな悪政にも国民は怒らない日本。

左右を問わず、好戦と反戦とを問わず、関心層も無関心層も問わず、国民の99.999%が、何らかの代行者への「お任せ」 「頼り切り」 「縋(すが)りつき」 から一歩も踏み出せない日本。

任せたり頼ったり縋りついたりする対象が、どんな相手かが問題なのではない。
安倍晋三だったり橋下徹だったりすることもあれば、志位和夫だったり小沢一郎だったりすることもあれば、芸能人だったりシールズだったりすることもあれば、天皇だったりすることもある。
対象が何であれ、「お任せ」 「頼り切り」 「縋りつき」 を続けている限り、これまでと同じように圧倒的なチカラに流されていくということだ。

政治家の代行性をすべて否定するわけでは無い。代議制の民主主義を手段とする限り、付託を受ける政治家は必要だ。
それが大変な仕事であることも事実だ。
しかし、どんな政治家であっても、政治家に「お任せ」 「頼り切り」 「縋りつき」 である限り、大きなチカラに抗することはできない。ガス抜きに終わるか、潰されて(最悪の場合は暗殺されて)終わるか、二つに一つしかない。

今、日々に追われ、当たり前の日常生活や人間関係に縛られている私たちが、「何ができるか」 を真剣に考えることだ。

■■

野党連合は、たぶんうまくいかない。

なぜならば、民主党というのは「そのために」存在している党だからだ。
「大きなチカラに抵抗する声が大きくなってきたら、それを吸収して無力化する」
そのために、党内には 「イイコト」を言う議員と、「それを潰す」議員がバランス良く配置されている。
これは矛盾なのではなく、最初からこういう目的のために配備されているである。

「イイコト」で不満の声を吸収し、イザとなったら「潰す」。その両方が機能しなくては、民主党の役目を果たせないのだ。
その一見矛盾したような行動を、平然と眺めてジッと何もしない岡田、という鉄壁の布陣だ。

また、共産党だってそうした民主党の本質は分かっている。
分かっていて、つまり、拒否されることが分かっていてあえて公然と国民連合を呼びかけたのだ。
民主党のなかの「イイコト」に期待する票を、ごっそり持って行こうという戦略だ。

以前の記事で書いたように、自公は2500万票、反自公は1800万票を、ほぼ安定してもっている。
3000万はいつも棄権して、残りの2500万が反自公~中間派~棄権を揺れ動く流動票として趨勢を決定している。
野党大連合の可能性について

国民連合が実現すれば流動票は反自公に流れるだろうが、分裂すれば棄権するだろう。そうなれば、何をどうあがいても自公が勝つ。2500:1800なのだから、圧勝する。

ただし、反自公の1800の中の分配は変わる。これまで民主に入っていた多くが、共産に流れる。
国民連合を提唱した共産と、潰した民主ならば、民主票の半分は共産に流れてもおかしくない。

つまり、共産党の戦略は、実現すれば儲けものだが、つぶれても民主のパイを食えるということだ。
事前交渉も無しに、いきなり19日に公開したことを考えると、むしろ後者をメインに考えているのではないか。

■■

私自身は、生活太郎 (生活の党と山本太郎となかまたち)にシンパシーを感じているし、応援もしている。
とくに、太郎さんの直感と行動力には、これからの仄かな希望を感じている。

しかし、それが「お任せ」 「頼り切り」 「縋りつき」になってはいけないと、常々自戒している。
国会と市井、議員と生活者が、どのように相呼応できるのか。
その道筋をつくる可能性を感じるからこそ、生活太郎に期待するのである。

10月31日に行われる「山本太郎となかまたち」の意見交換会にも、なんとかして行きたかったけれども、このところやたらと仕事が忙しく、どうしても叶わない。
なので、現時点の自分の考えをまとめる目的で、毎日少しずつ書いていきたい。




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