2017-08-26(Sat)

前原=共闘否定、枝野=共闘推進 という「常識」を検証する

民進党代表選。

やはり気になるのは、「前原になったら野党共闘は終わりだ!」という叫び声が連日聞こえてくること。

本当なんだろうか。
私が直接に目や耳に入れた情報では、野党共闘についてもどっちの候補も大差ないように思えるのだが。

そこで、公表されているものから、それぞれの発言をピックアップしておく。
「前原になったらたいへんだ~」と思っておられる方も、まずは精読してみることをお勧めします。


■政権公約

<前原> 政権公約

民進党の掲げる理念・政策の旗のもと、あらゆる勢力との協力関係を構築する

<枝野> 基本政策

共闘に関しては言及無し

■共同記者会見での質疑応答

(質問1) 代表になったら「野党共闘」にどう取り組むか。特に共産党との次期衆院選をにらんだ選挙協力は維持するのか、見直すのか

<前原>
 政治家・政党の命は理念・政策だ。特に次の選挙は衆院選なので、政権選択の選挙だ。この政権選択をする選挙で理念・政策が合わないところと協力することはおかしい。理念・政策と合うところと幅広く協力する。そういったスタンスで臨みたい。

 前政権(現党執行部)で結ばれた4党の合意事項だけれど、4党が協力していろんな取り組みをされてきた、また協力されてきた、そういった重みというものはしっかりと受け止めながら、是非についても見直しをさせていただきたい。とにかく理念・政策、民進党が掲げる、私が掲げる『All for All』、こういった考え方、内政については。北朝鮮の脅威、そして中国の拡大路線、こういったものにどうしっかりと日本が対峙していくか。その意味では、現実路線、これにしっかりと考え方の合う政党との協力を目指してまいりたい。

<枝野>
 野党間でわが党の主体性を持ちながら、できることを最大限やる、できないことはできない、そのメリハリをしっかりつけていくことが重要だ。

 私は昨年の参院選に幹事長として対応に当たった。『野党共闘』とか『選挙協力』とかいう言葉はあのときも使っていないし、そういう意識ではない。あのとき実行できたのは、幅広い市民の皆さんとの連携の中で、野党の候補者を一本化することはできた。そして成果をあげることが一定程度できた。それはそれぞれの党の理念・政策が違う中で、しかし『自民党の暴走をとめてほしい』という市民の皆さんの声を受けて、できること、できないこと、その範囲の中でギリギリの着地点を努力したからだ。

 政権選択の衆院選は一層困難が大きい。一方で、現実に地域で頑張っている仲間たちを一人でも多く当選させる。そのことによって今の政治の暴走に少しでも歯止めを掛ける。これも私たちの大きな責任だ。理念・政策、主体性をしっかりと守った中で、できないことはできない、しかし、できることはできる、それがどこなのか、最大限の努力をしたい。

(質問2) 政権選択選挙である衆院選では「野党共闘」のハードルは高いが、共産党も民進党も先の通常国会で森友学園、加計学園に関する疑惑を追及し、国民の怒りが広がっている。この点は野党で一致して協力、共闘できる部分が大きくなっているのではないか

<前原>
 参院選は(野党)4党で政策合意し、協力するということだった。今度は衆院選。これは政権選択の選挙で、政策理念の一致が基本的に必要になる。私はわが党の理念政策に協力をしていただける党であれば、全ての党と協力すべきだと考えている。あとは他党がどのようなご判断をされるのか。

 今ご指摘いただいたように、森友、あるいは加計問題、こういった問題で、とにかく安倍さんの暴走は止めないといけないんだという中で、例えば民進党候補を応援したいと。そして候補者を下ろさせていただくということをご決断いただくことになれば、それは安倍政権を打倒するために、大所高所から他党がご協力いただけるということで、心からありがとうございますということは申し上げたい。

 また、地域性もあるので、そういった点はしっかりと基本線、基本原則を持ちながら、どうすれば多くの議員が当選し、そして政権交代が実現できるかという大所高所に立って考えていきたい。

(追加質問) 民進党が歩み寄るという姿勢が感じられない

<前原>
 野党第一党として、政権選択の選挙なので、全ての選挙区で候補者を立てることを原則にしたい。ただ、他党も候補者を立てているところもある。これは別に共産党の話をしているわけではない。他の政党も含めてだ。われわれが立てるよりも、そういうところの方が当選が可能であるというところについては、柔軟に考えていかなくてはいけない。

 われわれ野党第一党としての原則は、理念政策が一致したところは、政権選択の選挙だから、協力していく、またご賛同いただければ協力していく。そして、どうすれば安倍政権を倒せるかという他党の戦略も、われわれの見極めも、そういったところも柔軟に考えていきたい。大事なのは政策・理念が一致すること。これが大事だと思っている。

<枝野>
 この問題は相手もあることだし、地域事情もある。だから相手のあることを民進党代表選挙であまり具体的なことまで固めて話をできる性格ではそもそもない。大事なことは、原則はどういう原則でやるのかということだ。

 先ほど言った通り、党が違うから理念・政策が違うのは当たり前だ。その中でも一致する部分もある。まさに参院選は立憲主義を守るという点で一致した。一致ができた範囲でできることを最大限やる。でも一致していないこともたくさんあるのだから、できないこともたくさんある。あとは具体的なお互いの立場を踏まえた中で何ができるのか、できないのかということが、個別に結論が出ていくことだ。

 そうした中で、安保法制を踏まえた立憲主義を守るというテーマだけではなくて、この情報隠蔽や政治の私物化ということを許さないということについては、おそらく他の野党の方とも共通しているだろうから、共通している部分は大きくなっている。

 しかし一方で、(衆院選は)政権選択選挙だ。政権を共有するということは、100%とはいかなくても、理念政策の相当部分が共通されていなければ、政権をつくっても失敗をして、国民の失望につながることになるので、できない。従って、政権選択選挙であるが故に、参院選より難しいことがたくさんある。そういった原理原則の中で具体的に何ができるのかということをリアルに模索をしていく。

(質問3) 小池百合子東京都知事に近い若狭勝衆院議員が年内にも国政新党を立ち上げる動きを見せている。この勢力との連携についてどう考えるか

<前原>
 小池知事については、国会議員のバッジを外してリスクを取って知事選に出られ、そして当選され、その後、ブラックボックスだった、例えば豊洲・築地の問題、あるいは五輪の経費の問題、都民ならず国民に対してしっかりとオープンにし、そういった姿勢が評価されているのだと思う。そういう意味では、小池さんが進めておられる都政については一定の評価をさせていただきたい。

 他方で、若狭さんがやられようとしているものは、小池さんとどれだけ連携をされているのかどうかも分からない。そして何より、国政を目指される場合の政策・理念がまだ明らかにされていないし、与党か野党かも分からない。私どもは全ての勢力と、理念・政策が一致するところと協力をするスタンスなので、そういったものを出されたときに判断したい。

<枝野>
 理念も何も掲げていないものとどうこうするなんてことは、お尋ねになる方がおかしい。人間は変わるから、今まで間違いでしたといって変わることはあるかもしれないが、安保法制にも賛成し、アベノミクスにも賛成し、特定秘密保護法にも賛成し、共謀罪にも賛成してこられた方とはわれわれとは立ち位置が違う。自民党の補完勢力の可能性が高いと見ざるを得ない。

【民進党代表選・共同会見詳報(上)】
【民進党代表選・共同会見詳報(中)】
【民進党代表選・共同会見詳報(下)】

上記の記事から、発言自体は加工せずにそのままコピペしている。

もちろん、前原は保守票がほしいし、枝野はリベラル票がほしいので、そういう言葉使いはしている。だから、そういう枝葉末節の言葉尻だけを大々的に取り上げれば違うのかもしれない。
しかし、意味内容をちゃんと理解すれば、前原もそれなりに「柔軟に考えていきたい」と言ってるし、枝野も結局は言葉を濁して「できないことはできない」と言っているわけで、何の変わりもないですよ。。

「理念政策の相当部分が共通」ということでも、同じ。
発している言葉だけで判断するならば、大差ない というのが冷静な見方じゃないんですかねえ。

もっとも、二人にもう一つ共通していることは、大嘘つきだ ということなんで、言葉にどれほどの意味があるのかわわかりませんけど。




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2017-08-25(Fri)

国民力倍増計画

政権を取り戻し、ホンマにまともな国にするための政策の柱は何だろう ずっと考えている。

で、思いついたのが このスローガン

「国民力倍増計画」

1960年に池田内閣が打ち出した 所得倍増計画 をなんとなく思い出させる。
もちろん、あのころのような高度成長は望むべくもないが、一般国民の環境に限って言えば、倍増に近いことは決して夢物語ではない。

なぜなら、日本の富は、ごくごく一部の超大金持ちや大企業が囲い込んでおり、それを少しずつでも吐き出させれば、一般国民の生活は劇的に変わるからだ。

しかも、バカみたいにたくさんお金を刷ってもデフレのままなのは、お金を使うはずの一般国民に金がまわっていないからだ。
超大金持ちの貯金や大企業の内部留保は、金融投資や株主の配当(→金持ち貯金に環流)にまわされるだけで、実体経済にはまったく流れてこない。(右図はZAI ONLINE より)
20170825-1.jpg
うなぎ登りに増える個人金融資産1900兆円(のうちかなりの割合が金持ちのもの)、麻生太郎ですら多すぎるとうそぶく企業の内部留保は400兆円に迫り、米国で運用されていて日本経済には回ってこない対外純資産は350兆円もある。

合計1000兆円を超えるこの無駄金が、年に1~2%でも一般国民に還元されれば、1世帯あたり数十万の所得が増え、そのほとんどが消費にまわって実体経済も好転しはじめる。
いかに日本の金持ちが優遇されているか、この本を読むことをおすすめする。

 税金は金持ちから取れ 武田知弘著

もちろん、そこで要らないものの爆買いに走ってしまえば、一時的な消費行動で終わってしまうが、健康や教育や災害対策やあたらしいエネルギーなどに振り向けていけば、日本の国民力の倍増は、もう目の鼻の先である。

その際には、長期と短期の景気対策という、松尾匡氏の提唱する考えが重要になる。
何十年という大きな流れでは、今の日本に爆発的な高度経済成長はあり得ない。それは、トンデモ系でないかぎり異論の余地はないだろう。
しかし、数年単位のサイクルでは、落ち込んだ経済力を立て直すために、大胆な公共投資などは必要だ。
目の前の経済状況が、デフレで所得が下がり続けているときに、低成長あたりまえ、なんていっている場合じゃない。失業率が実質ゼロに近くなり、労働者がまともな賃金を得ることができるようになるまでは、政府は国債を発行してでも、場合によったら財政ファイナンスでも、強制的に金を回すべきだ。その限りにおいて、アベノミクスは部分的に正しいのであって、アベノミクス批判だけでは庶民にそっぽ向かれるよ という話。

 この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 松尾匡著

この松尾理論と、「税金はカネ持ちから取れ」と、国債と金持ちから取った税金で生み出した金をどう使うのか、という3本柱が 「国民力倍増計画」 ということになる。

仮に政権をとったとしても、こうした計画にはかならず熾烈な妨害があるし、より巨額の資金を動かす国際金融資本によって思わぬ方向にねじ曲げられてしまうことも十分に考えられる。
松尾氏も武田氏も、巨悪を倒さなければ実現できないという部分はとりあえずペンディングしており、敵を考えずに実行してしまうとトンデモナイ結果になる可能性はたしかにある。

しかし、まずは国民の前に、「我々の考える国民国家は こういうものだ」 というビジョンを描かなければ、政権交代は100年たっても再現しないのではないだろうか。

国民力倍増計画 という大きな将来像を、日々に追われ、活かさぬよう殺さぬよう生かされている大多数の国民に示すことが、政権交代にむけた第一の課題なんじゃないだろうか。

と言いつつ、日々に追われる私めは、お仕事に戻ります。。。



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2017-08-24(Thu)

保守と革新の壁は健在だった件

2012年の野党惨敗から昨年の参院選にかけて、保守と革新の壁はずいぶん解消されたかと思っていた。
とくに大阪は、保守の渡辺義彦さん、革新の服部良一さんという、保革の相互理解のお手本のような方々がいたので、全国でも先進的な地域だった。
昨年参院選では、みんなで選挙☆ミナセン大阪が野党共闘の凱旋などを先導し、それは今でも様々なテーマを掲げて続いている。

私自身も、どっから見ても左翼だった人間がなぜか小沢グループに片足突っ込んだために、保守の気持ちも革新の気持ちも分かる者として、なんとか保革の壁を崩すことの一助になれればと思ってきた。
保守と革新の壁はずいぶん解消されたかな と感じたのは、様々な会議や現場での実感だった。

一方で、そうは言いながらちょっと不安もあった。
そして、その不安があたっていたらしいことに、なんと民進党の代表選(というある意味どうでもいいこと)を巡って明らかになってしまった。
その不安とは、保守も革新も お互いに 「うんうん あいつらもようやく分かってきたな」 と思っているのではないか という危惧だった。

相互理解とは、まず自らの立場を省みて、改めるべきを改めるところからしか始まらない。
しかし、今般の保革の相互理解は、自省から始まっているのではなく、たまたま安倍政権が独裁化したために立場が共通し、その結果「向こうがこっちに近づいてきた」 と両方が思っていたのだ。

あ~あ である。

※注  これは渡辺さんや服部さんのことではないので念のため。お二人には代表選のことについて何もお聞きしていない。



私は、民進党の代表選については、どっちみち裏切られるのなら、まだ前原のほうがダメージが少ないという意見。
こんな二人を並べて、保守とかリベラルとか言うこと自体が我慢ならない。どっちも裏切り者であり、嘘つきであり、戦う前から敵前逃亡している連中だ。

 数日前の記事 → 民進党代表選に何か期待してる??

しかし、現実には枝野=リベラル 前原=保守 という構図で多くの言葉が飛び交っている。
私のツイッターのタイムラインでは、7割くらいが枝野支持(というか前原ディスり)、1割くらいが消極的な前原支持 という感じだ。
目立つのは、枝野支持派の前原ディスりの激しさである。

まず前提として整理しておかなければならないのは、本来は保守とリベラルは、ほとんど同じ意味だと言うこと。
リベラルというのは、共産主義とファシズムに対して、自由主義=リベラリズムを対置しているのであって、資本主義の世の中を変えたくないという保守主義に他ならない。

他方で、革新系というのは、日本においてはニアリーイコール穏健社会主義、社会改良主義であり、方向としては資本主義の否定ないし改造を指向しており、リベラルとは別物である。(少しは被るかもしれないが)

ところが、現在では社会党や民社党から民主党に行ったような人たちがリベラルと呼ばれ、源流が自民党の人たちが保守と呼ばれている。
本来の分け方で言うと、安倍晋三のような独裁指向のものたちを除いた自民党から、自由党はもちろん、社会主義は投げ捨てた民進党の左派に至るまで、ぜんぶ保守リベラルである。
非共産主義、非社会主義、非ファシズムで資本主義を維持しようという点で、まったく一致している。
ただ、その維持の仕方に違いがあるだけだ。

ただし、独裁指向はリベラルでも自由主義でも保守でもない。これは、現状を大きく変革して独裁体制にするということだから、保守ではなく、改革派である。いわゆるカイカク勢力は、おおむねこの範疇に属する。もちろん、安倍晋三もここだ。
その一番極端なのがファシズムであり、橋下徹なんぞはこのコースを突き進むのかと思ったけれども、途中でヘタレてしまった
。(くわばらくわばら)
また、カイカク派には、極端な従米に変革するカイカクもある。いくら従属国であっても、一応タテマエというものがあるわけだが
、そんなもの取っ払って手っ取り早く日本の富を米国に移転するべしというカイカク派。竹中平蔵、小泉親子、それに小池百合子もおそらくこのジャンルだろう。

ファシズムであれ極端な従米であれ、このあたりは保守でもリベラルでもない。もちろん、従来の革新でもない。
ここにこそ、本来の対立軸があるのであって、保守と革新とか、保守とリベラルとかで争うのはバカらしいし、そもそも敵の手のひらの上で喧嘩させられてるだけじゃないの、というのが保革の壁を壊す作業だったはずだ。

しかし、ここ数日のツイッターやらフェイスブックやらを見ていると、そんな相互理解は無かったんだということを思い知らされた。
あ~あ。



がっつり左翼だった私が、保守に目をとられたのは、その発想法だったと思う。

左翼や革新系やいわゆる「リベラル」の発想は、演繹法なのである。
つまり、まず原理原則があって、それを現実に当てはめていく。
だから、当事者はみな、「自分の考えが正しい」と思っている。

一方で、保守の発想は帰納法だ。
目の前の現実から出発して、原則を確立していく。
当事者は自分が絶対正義とは思っていなくて「仕方ないじゃん」て感じ。
保守でも独善に陥ることはある。ただ、こうなると、極右であったり独裁指向になり、もはや保守ではなくなっている。

どっちが良いわけじゃない。
演繹法は独善的になりがちだし、帰納法は現実に流される。
だからこそ、保守と革新が協力できれば大きな力になるのだけど、実際はそこまで進んでいなかったようだ。
残念だけど、仕方がないじゃん。

ただ、腹立たしいのは、そのことが民進党の代表選のごときでラベルがはがれてしまったことだ。
メディアが描いた「保守VSリベラル」なんていう虚構にまんまと乗せられて、分断に血道を上げる人が思いのほか多いのには、やっぱがっかりだ。
例えば こんな人

前原氏は民進党を右翼的再編に導き、財界のために構造改革を推進する党にする 小沢氏も便乗か そこに小池新党 行き着く先は国民不在  (猪野亨)


自分の考えに現実をあわせて論評するという典型例だ。
この人ばかりでなく、枝野支持の前原ディスりには、メディアの作った見出しや、甚だしきは統一教会にちかいエセジャーナリストのインタビューまとめなんぞを鵜呑みにして、責め立てるたぐいが多すぎて、普段のマスコミ批判はどこ行ったんだよ と言いたくなる。

何度も言うけれど、私は前原を積極的に応援する気など毛頭無い。
小沢氏がどう考えていようが、期待したら負けだ。

しかし、猪野氏のような議論をするひとが、革新側で論陣を張っている限り、本当の敵を見据え、保革の壁を崩して共闘することは困難だなあ とつくづく思ってしまう。
保守側は保守側で、小沢氏の意向を忖度してなんとなく前原に期待してしまったり、こうした思い込みによる激しい攻撃があると、スッと引っ込んで、「だから革新はダメなんだ」とか陰口たたきながら諦めてしまう。これはこれで、現実に流されてしまう保守のダメなところ。



いやはや、なんだか消耗しっぱなしの今日この頃だけど、かえって課題が見えたと言うことでもある。

と、むりやり自分を納得させて、今日は寝るとするかな。



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2017-08-22(Tue)

民進党代表選に何か期待してる??

前原も枝野も、あの裏切り民主党政権の、中枢であり主流だった。

せめてこの二人がいなければ、民主党の裏切りも少しは程度が軽かったかもしれない、というほどの、戦犯の中の戦犯。
野田佳彦に次ぐ極悪犯罪人ですよ。

ところが、この二人の代表選を、あたかも「リベラルVS保守」のたたかいかのように報じるマスコミ。
それに乗っかって 枝野に期待しちゃう市民派リベラル・・・

一体全体、この国の人々は、何回裏切られたら目が覚めるのだろうか?
放火犯が「火の用心」と叫んでいるのを、なんでほんのちょっとでも信じることができるんですか??

彼らが言っていることの中で、唯一実行するだろうことは、消費増税だ。
「オールフォーオール」だろうが、「お互いさまの助け合い」だろうが、この言葉の意味は「大衆増税をやる」ということに他ならない。

今必要なことは オールから収奪することではなく、お互い様で巻き上げることでもなく、きわめて税制で優遇されているごく少数の大金持ちから、しっかりと税金を取ることだ。無謀なことではなく、ほんの30年くらい前の水準に戻すことだ。

オールフォーオールとかお互い様 というスローガンは、この少数の大金持ちには逆らいません という宣言であり、貧乏人どおしがみんなでお互いに助け合います、すなわち「消費税上げます」 という意味。
もう、メインスローガンからしてこんなレベルだから、前原も枝野も、極悪戦犯のままで何も変わっていない と言うことがよくわかる。

基本政策のなかには、それなりにイイコトは書いてある。
しかし、それを実現するには、抵抗する勢力と戦って勝ち抜かなければならない。
やります とクチで言うだけでできることならば、2009年に実現していたのだから。

大企業のあつまる財界、巨大マネーを動かす国際金融資本、岩のような官僚組織、CIAと警察庁、公安、内閣情報室。
共和党軍産系や好戦派民主党系やトランプ系などの米国からの指令や圧力。
自民党地方組織、創価学会、日本会議、統一協会などの草の根の運動や組織。
そして極めつけは、労働貴族の身分に恋々とする日本労働組合総連合。

これらに勝ちきるか、少なくとも折り合いを付けることができなければ、どんなに口先でイイコトを言っていても絵に描いた餅に過ぎない。
さて、前原と枝野に、戦う気力が、ほんのわずかでもあると思いますか????



まあ、それでも一応は、二人の言うことは聞いてみましょうか。

代表選にあれこれクチをはさみたい人は、少なくとも原文は読んでね。
新聞の見出しとか、統一協会のオトモダチ(細川某)のインタビュー記事のまとめを見て決めつけるような、あまりにもお粗末な議論は有害なだけです。

前原誠司政権公約 (PDF 2400字程度)

枝野幸男の基本政策 (3400字程度)

【民進党代表選・共同会見詳報(上)】

【民進党代表選・共同会見詳報(中)】

【民進党代表選・共同会見詳報(下)】

詳細に見れば、ほとんど言ってることが変わらないことがわかると思う。
前原は野党共闘反対で、枝野は推進だ というのは 新聞の見出しだけの話しだということもわかる。

全体的な傾向としては、前原は理念と戦略を語り、枝野は政策と戦術を語っている印象。
もちろん、二人ともまるっきりのバカじゃないから、それぞれ、自分の支持層にウケるような言い回しはしている。
枝野はリベラルっぽい言葉遣いをしているし、前原は保守が受け入れやすいように意識している。
しかし、内容をよく読めば、保守VSリベラルの決着をつけるんだ~ と大騒ぎするほどの違いなどぜんぜんないってことに気が付きませんか?



これだけ民進党をボロカスに言っている私とて、いざ選挙になったら民進党と選挙協力は必要だと思っています。
と同時に、「民進党は、かならず裏切る」 とも思ってる。

だから、裏切られたときのダメージが少ない方が、よりマシな代表だ というのが私の考え。
妙に期待を高めて、あれもできるかも これもできるかも と思わせて ドスンと落とす。2010年と同じことをまたしてもやらかすのが、一番悪質。
最初から、まあこんなもんだよな と半ば諦めながらつきあっておいて、やっぱりな という想定内の裏切りにおさまるのが、一番マシな近未来なんですよ。

その意味で、政策も人格も大差ないのであれば、私は前原が代表になった方が、かなりマシなんだろうって思ってる。

まあ、どっちにしても、なにか劇的に良くなることはないから、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど、一番言いたいのは、市民派リベラル的なみなさんが、いとも簡単に「枝野さん頑張れ」になっちゃうのはいただけないなあ ということ。
イザとなったら、本当になによりも重要な場面になったら、能面のように「ただちに影響はありません」と繰り返す男が、死にたくなるような痛切な反省をしたわけでもないのに、簡単にまともな人間になるわけがないでしょ。

それと、メディアの「見出し操作」にホイホイ乗っちゃうのもね。
論じるならば、まず読みましょうね。それも、自分の意見にちょっとでも近い部分や反対の部分を、目を皿にして探す っていう読み方じゃなくて、とりあえずは、何でこの人はこう言っているのだろう と全体像を理解してみてはいかが。

こんなに二人を信用していない私だってそれくらいはしてるんだから、どっちかを応援したり批判したりする人は、まずは心をサラにして読んでみる、ってことをしないと、そもそも共闘なんてできないんじゃないでしょうかね。

私も体験したんだけど、ツイッターで野党共闘に懐疑的なことを書くと、推進している人にブロックされると言う現象。
この大矛盾に気が付かない人が多いような気がします。
懐疑意見や反対意見を、よくよく理解しなくっちゃ、共闘なんてできない。100万年かかりますよ。



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2017-08-18(Fri)

フツウからの脱出

フツウであることの大切さを、じわりじわりと噛みしめてきた10年だったように思う。

仕事の上でも、政治的な考えも、生活態度そのものも、私はマイナーの極みだった。
それは子どもの頃から、ほぼ物心ついた頃からだ。

最初の記憶は、いくつの頃かは憶えていないが、テレビを見ていて違和感を感じたことだ。
「ひろのみやさま」とアナウンサーは言っていた。
私といくつも違わない男の子が、なんで「さま」なんだ?

小学5年生のときには、本当に自分がはぐれ者なのか知りたくて、生徒会の役員に立候補した。
演説では、校庭の周りに貼ってある鉄条網は生徒を閉じ込めるものだ とか話したと思う。
忘れもしないが、全校生徒が千数百人いるなかで、得票数は26だった。

毎週の学級会も大嫌いだった。
だいたいどうでもいいことを「規則」にするのが学級会で、晴れた日は校庭で遊びましょう なんてことをわざわざ多数決で決めて規則にした。
私だって晴れた日は校庭で遊んでいたが、そんなことを強制されるのが嫌でただ一人反対し、休み時間になるとわざと教室に残った。子どもは残酷だから、小突きながら大勢で校庭に引きずり出された。

先生も同じようなもので、私が出した算数の別解を理解できず、どうして○じゃないのかと執拗に食い下がる私を、2時間も床に正座させた。
教師なんてこんなものか と体で理解した。

とにかく、私の思うこと、考えることは、ことごとく少数派。少数どころか、ほぼ全員対一人だった。
だから、多数決なんて死ぬほど嫌いだったし、少し年を食って民主主義なんて言葉を知ったときも、クソ食らえと思った。

まあ、中学も高校も、だいたいこんな調子だった。
高校のときは、キレイゴト言う割にやることが姑息な教師が大嫌いで、何度か授業の途中で荷物をまとめて帰宅したこともある。
むしろ、体育会系の右翼教師のほうが、正面から対決してくれるので、まだよかった。
これって、今の民進党のキレイゴト議員が、反吐が出るほど嫌いなのとつながっているんだなあ。

そんなこんなで、形成された人格は、並大抵ではなかった。
まず、他人に「はい」と言うことができなかった。
20代のころは病院の事務屋さんだったのだが、総婦長の小間使いみたいなこともやらされて、はじめて「はい」という返事をしなくてはならず、煩悶した。
でも 病院で働いたおかげで、最低限人間社会で生きていけるようにリハビリしてもらったような気はしている。

こんな感じで、およそフツウとは無縁の私が、フツウを意識し始めたのは、12年前に独立して設計事務所をはじめたことと、選挙に関心を持つようになったことが大きい。

家づくりの面では、フツウじゃ無いものを作りたいという欲求と、フツウに生活できるものを作らなくてはならない という縛りというか倫理観のようなものが いつも拮抗する。
自分がフツウではないということを、さすがにこの頃は自覚していたので、逆に自分で縛りをかけていたところがある。有名建築家が設計した数々の「住めない家」を見て 「こんなことはするまい」と自分の仕事のルールとして決めたのだった。

ひとり一人の暮らしは千差万別だから、住み手のイメージをちゃんと具体化できれば、自ずとオリジナリティになるだろう、と思って仕事をしてきた。
たしかにそれはウソではないのだが、むしろ10年以上経って思うのは、人の暮らしは意外と共通しているんだな、ということだった。
もちろん、人も好みも生活パターンも千差万別なんだけど、「住む」という行為に丁寧に寄り添って設計していくと、結果的にすごく共通点が多い。意外と、フツウにおさまってしまうのである。

政治については、やはり何と言っても2009年の政権交代が大きい。
生まれてはじめて、多数決で自分が多数派に属したのだから、そりゃあもう驚いた。
民主党政権に過大な期待はしていなかったが、それよりも自分史的に大興奮だった。

それまで大嫌いだった民主主義が、ひょっとして役に立つのかも と思ったのがウンの尽き。
以来、どっぷりと政治の世界にハマってしまった。

2012年総選挙の大敗北、焼け野原状態にどう向き合うのか。このときほど、フツウということを意識したことはない。
なにせ、原発が爆発したのに、最大多数は無投票、その次が自民党に投票したという現実を目の前に突きつけられて、そのフツウな選択を見ないふりすることはできなかったし、昔のように「やっぱ民主主義なんてクソだわ」と開き直ることもできなかった。

俺はこう思う 俺はこう感じるんだ と言うことよりも、「フツウどう思うかな」「フツウどう感じるかな」と頭の中でシミュレーションすることばかりが多くなった。
選挙で勝つためには、もういちど政権交代するためには、フツウに「いいね」と思ってもらわなくてはならないわけだから。
いや、そればかりではなくて、本気でフツウであることの大切さとか感じるようになっていった。

で、ふと気が付くと、あれほど、異常ともいえるほどフツウとかけ離れていた私が、なかなかどうしてフツウに暮らしているのである。
フツウに家を設計し、フツウに政治のことを考えている。

めでたしめでたし

じゃなくて、なんか違うような気がしている。
このまま丸くなって好々爺へまっしぐら は自分にはやっぱ無理。
そろそろフツウから逃げ出してもいいんじゃないか と思い始めた。
フツウじゃないことを自覚していないのは人迷惑かもしれないが、さすがに自分を相対化できる程度には年をとったから、もう自由にしてやってもいいんじゃないか。

と、最近こんなことばかり考えている。


追記
これを書きながら画面の端でamazonビデオをかけていた。
何気なしに選んだのが「イミテーション・ゲーム」。ナチスの暗号記エニグマを解読したアラン・チューリングの話だ。
「普通じゃない」ということが、大きなテーマになっていた。奇遇。



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2017-08-15(Tue)

革命

敗戦記念日である。

72年前の今日、「負けて悔しい」と涙した人、「やっと終わった」と歓喜した人、それぞれどのくらいの割合だったのか、知る術はない。
どちらも相当数がいただろうけれども、自分の頭で判断することを禁じられていたことを思えば、ただただ茫然自失していた人が一番多かったのかもしれない。

いずれにしても、はっきりしているのは、この日が「解放記念日」にはならなかったという歴史的な事実だ。

戦争を遂行した勢力の総入れ替えを、自力ですることができなかった。
天命を革めることが できなかった。

天皇も、731部隊も、米軍支配に都合の良いものは戦争責任を免れ、大日本帝国の支配層はほとんどそのまま支配層として残された。
そのころはロシア革命から28年、中国革命まで3年という時代だから、今に比べれば共産主義革命のリアリティは誰もが感じていた。しかし、何とか主義以前に、戦争遂行した勢力を一掃するということすら、できなかった。

そして、その限りでの「平和と民主主義」を謳歌し、日本は変わったと思い込んだ。
足下に、沖縄を踏みつけながら。

この欺瞞にみちた戦後民主主義が、私は嫌いだ。



革命という言葉は、天命を革(あらた)める、すなわち 天命によって支配する者が変わることを意味する。
必ずしも、支配されてきた側が、支配してきた側にとってかわることではなく、支配される側には関係なく、支配層だけが入れ替わる樋こともある。

レボリューション Revolution は、コペルニクス的転換のように、物事の本質がグルッと回転して新しいものに変わることであり、上層部が入れ替わる革命とは、かなり意味が違うようだ。 訳語としては不適切なのではないかという気もする。
ただ、革命という言葉も、もともとの易姓革命のような意味ではなく、本質的に異質で新しいものに転換するという意味に、現代では使われているので、ここではそういう意味に理解しておく。

支配され、酷い目にあってきた側が、支配してきた側を逆転すること。
それが、あたかも天命が革まるがごとく、機が熟してことがなされることが革命だとするならば、72年前に必要だったのは、日本革命だった。

その結果、どの勢力が主導権をとり、どんな政治を行ったかはわからない。
どの勢力がやろうとも、結果はあまり芳しいものにはならなかっただろう。それどころか、ソ連が指導する共産党が勝っていれば、かなり面倒なことになっただろう。
それでも、自らの力で革命を成し遂げ、そして挫折するという経験をワンセット、日本人は経ることができたはずだ。

振り返ると、私は政治に関心があると言うよりも、革命に関心があるのだと気が付いた。
日本というひとつの支配体制の中で、何百年も支配され続けているこの国の民が、自らの力で逆転劇を起こすことができるのか。
社会や政治を見るときに、私の最大の関心事は、常にそこにある。

私が小沢一郎という政治家に注目するのも、それ故である。
彼は、もっとも犠牲を少なく革命を成し遂げるにはどうしたらいいか、を考え抜き、二大政党による政権交代可能な政治を目指している。二大政党制の是非はともかく、革命を前提とした国家観をもつ政治家は、日本には小沢一郎しかいない、と私は思っている。

とは言え、現在の日本で二大政党制は、私は間違いだと考えている。
政党というのは、ある勢力の利害代表であり、労働者と資本家みたいな単純に分化した社会だったら二大政党でいいかもしれないが、今の日本はそんなに単純にぱかっと分かれていない。

戦前のいわゆる労農派の理論家である山川均の言葉を、松尾匡さんが「新しい左翼入門」のなかで引用しているので、孫引きさせていただく。

 意見の相違が流派として現れることを認めないならば、政党は必ず分裂する。政策や意見の相違のために、たちまち除名騒ぎが起こるような官僚主義は一掃すべきだ。我々は、異なった意見や政策が内部で争っていながら、なおかつ結束を保っていけるような団体的な訓練を積まなければならない。(引用以上)

あれ、こんな政党ってあったなよなあ、と思われる方もいるだろう。
そう、かつての自民党は派閥というかたちで、かなり多様な意見を党内に抱え込んでいた。金のつながりであると同時に、意見や政策の多様性も担保していた面があった。

しかし、今や自民党も首相官邸独裁の党に変貌し、民進党も小沢一郎を座敷牢に閉じ込めた挙げ句に放逐したことをまったく反省していない以上、単純に二大政党制にしてしまえば、二つの意見しか存在できないことになってしまう。
こんな不自由な政治は、より一層投票率が下がり、機能しなくなってしまうだろう。

ただし、この現実を逆に考えれば、党内に公然と意見の違う派閥が存在するような、バクっとした政党ならば、二大政党でもいいということになる。米国の民主党も共和党も、もちろん投票を党議拘束などされないし、反対意見を述べても除名されない。
せめて、その程度の政党が作れるならば、二大政党制の可能性を全否定するものではない。



小沢氏の描く二大政党制による穏やかな革命には、もうひとつ疑問がつきまとう。
代議制で本当に革命になり得るのか ということだ。

それなりの人脈と経験と資金をもった人が候補者になり、その他のほとんどの人は投票するだけ、という代議制で政権交代したところで、「自らの力で天命を革めた」という経験になるのか。そのような実感を持つことができるのか。

現に、2009年の政権交代でも、そこまでの感慨を味わった人はごく少数のはずだ。
ほとんどの人は、自民党が下野したことには驚いただろうし、子ども手当や高速道路の無料化など実現すればウレシイナとは思っただろうが、それ以上でも以下でもない。
私自身、選挙結果にはかなり興奮したけれども、革命だとは思わなかった。

アメリカだって、数年おきに民主党と共和党が入れ替わっているが、それで劇的に何かが変わっているわけではない。
まして、植民地支配を戦後民主主義というオブラートで包んだぬるま湯に漬けられてきたこの日本で、代議制がひとり一人の意思表示として機能するのだろうか。

小選挙区といえども人口40万人に代議士が一人。自分たちの代表と言うには漠然としすぎている。
かといって、市議会なみに1万人くらいの母体になると、地域ボスや暇人の世話焼きがすべてを牛耳ることになる。暇人はヒマでも生きていける金持ちがおおくなり、結果として自民党と公明党がより強くなる。
完全比例にすれば、少数意見はある程度反映される一方で、支配体制は盤石である。

どのように選挙制度をいじろうとも、多少の変化はあったとしても、それ自体が革命になるようなことは起きないように思われる。



やはり日本で革命は不可能なのだろうか。
何が欠けているのだろうか。

私は、足りないのは圧倒的多数を占める「普通の人」の党だろうと思う。
江戸時代には5割の年貢米をとられた農民。楽ではないけれど、運悪く飢饉にならなければ、生きていくにはさほど困らず、寺子屋に子どもを通わすくらいのことはできた人たち。
四民平等と言われてからも、選挙権を与えられなかった農民と労働者。
明治から昭和の戦争に次々と動員された人たち。
戦後の高度成長でサラリーマンという名の賃金労働者になっていった人たち。
そして今、食うには困らないけれども、ジワジワと生活が圧迫されている中間層。

実は大金持ちに圧倒的に搾取されながら、とりあえずそれなりの生活ができているこれらの人たちを代表する党が、日本にはない。
55年体制のなかで、自民党が金持ちに寄りかかりすぎ、社会党が総評に頼りすぎた結果、金持ちでも労組の活動家でもない、圧倒的多数の人たちの利害を代表する党は、日本には作られなかった。

2009年の民主党がそこを指向していたのは間違いないが、そういう党として確立する前に、内実が崩壊した。崩壊した残り滓のような党は存在しているが、彼らは「大金持ちに逆らわずにおこぼれを頂戴する」中間層の代表であり、大金持ちに楯突くそぶりを見せれば組織を上げて潰しに来るということは、小沢弾圧で実証されている。

今必要なのは、ジワジワ没落していく中間層の党を作り、大きく旗を立て、大金持ちの一人勝ちを許さず中間層に富を分配する政策を打ち出し、それを目指すための組織をひとり一人増やしていくことなのではないか。
その組織は、いずれ選挙のために二大政党に吸収されたとしても、そのなかで強固な派閥として影響力を行使することになる。



革命 なんていう標題をつけたわりに、地味な結論になってしまったが、シンプルに考えたら、やはりこのような結論になる。

資本主義が良いのか悪いのか、それに替わるものがあるのかないのか。私にはわからない。

ただ少なくとも、とりあえず資本主義のシステムの枠の中でも、まだまだやれること、やらなければならないことは山ほどある。
世界的に見ても異常な金持ち優遇と、植民地的な経済外の強制力をそのままにして、資本主義はもうダメだとか言ってしまうことは、むしろ現在の支配層を喜ばすことになる。

まずは日本の歪みを正し、皆が安心して食っていける経済や財政の政策を、夢物語ではない数字の裏付けのあるストーリーを描き、実現することだ。
資本主義の余命については、その後に考えるべきことだろうと思う。

だから当面目指すべきは○○主義革命ではなく、何百年も労働力として社会を支えながら、政治的にはついに主役になったことのない多数派が、まずは自分たちの選択を自分たちの力で成し遂げる、という経験をすることだ。

それでもきっとまた失敗するだろう。
官僚と大資本と米国の壮絶な妨害もあるだろう。
革命をなしとげて挫折するという経験を何セットも繰り返すことで、多くの国は歴史を進めてきた。
日本も、自分の足でその歴史を刻まなければ、圧倒的多数の国民がぬるま湯の中で溺れ死ぬ日は遠くない。



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2017-08-13(Sun)

終戦ではなく「敗戦」と言うわけ

二日後には72回目の敗戦記念日だ。

私は「終戦」という言葉を使わない。
理由はみっつある。

ひとつ。
戦争責任をアイマイにしないため。

ふたつ。
敗戦を「解放」記念日にできなかった日本人民の不甲斐なさを胸に刻むため。

みっつ。
いまだ敗戦-占領は終わっていないことを忘れないため。

戦争は、雨が止むように自然に終わったのではない。
普通の国ならばとっくに降伏していたはずのところを、無謀な玉砕戦を1年近く引き延ばした挙げ句、万策尽きて無条件降伏したのである。
侵略戦争をはじめたという意味での戦争責任ももちろん問われなければならないが、ただひたすら「国体護持」のために兵士と住民に死を強いた責任も、決してアイマイにしてはいけない。

天皇制と、その権威にぶら下がる権力と利権、すなわち「国体」の為だけに、どれだけの兵士と住民が殺されたのか。
少なくとも、1944年10月に始まった神風特攻は、戦争としての合目的性すらなくしてしまったという合図である。そこからの10ヶ月間は、絶対に勝てないと分かりながら「国体護持」のためだけに死を強制された。

もちろん、日本各地の空襲も、沖縄戦も、原爆もそうだ。

侵略戦争の責任は、当然ながら万死に値する。
そして、世界中で今もその罪を犯し続けるものは絶えないし、あの太平洋戦争だって、連合国が善で枢軸国が悪という分類では決してない。
しかし、当時の日本が極めつきに異常だったのは、「国体護持」のために、自軍と自国民を虫けらのように死に追いやった ということだ。数十万、数百万人を死に追いやり、産業は壊滅し、国土は燃え尽くされても、そんなことよりも「国体護持」が大事だった。

この異常さは、自らの国のこととして、決して忘れてはいけない。
この国の支配者は、自分たちの存立が根底から脅かされるとき、数百万の自国民を平然と死に追いやり、恬として恥じないのである。
そういう国なのだ。

これは国民国家ではない、ということでもある。
天皇の権威と権力に連なる階級と、生産と戦争の駒としてのみ扱われる階級は、一つの国民として結集する段階に至らず、農奴的な隷属関係でのみ国家につながれているということだ。

そして、それは本質的に今日でも変わっていない。
変わっていないその象徴こそが、日本国憲法の1条と9条だ。

国体護持のギリギリの条件とは、天皇の戦争責任を問わずに天皇制の権威を残すことだった。
そのために、幣原喜重郎とマッカーサーが合意したのが9条だったということは、数々の資料で証明されつつある。

さらに、国体護持のために生け贄にされたのが沖縄だ。
昭和天皇は、自ら保身のために沖縄の割譲をマッカーサーに提案した。
国体護持のために絶望的な地上戦を強制され、住民の1/4が殺されたあげく、負けた後は生け贄でアメリカに引き渡す。
天皇の戦争責任はあるとかないとかの論争がバカらしくなるほど、あまりにも酷い話しだ。

このように、「国体」のために国民は死を強制されながら迎えたのが、敗戦なのである。
この悔しさを忘れないために、私は「敗戦」と言いつづける。



一方でしかし、民間人50万人を無差別に殺戮した当事者は、米軍だ。

日本軍のアジアでの虐殺や捕虜虐待は、当然責められるべきことだ。
しかし、それと同じくらい、米軍の無差別殺戮も責められなければならない。

実験のために二種類の原爆を投下し、日本が降伏するやABCCという研究機関が乗りこんできて、治療はせずに被害のデータ収集に励んだ。まさに、超弩級の人体実験である。

この悪魔のような米軍を、解放軍として迎えたのが、日本共産党を筆頭にした反戦派の日本人だ。
たしかに、国体護持のために自国民をいくらでも殺してしまう旧支配者よりは、マッカーサーのほうがずいぶんマシに思えたのは無理はない。
日本国憲法も、押しつけとは言え、日本側が作った松本案とは比べものにならないくらい良いのはたしかだ。

しかし、日本人は自分たちで自分たちの憲法を作ることができなかった、という歴史は残っている。
良い憲法ならもらい物でもいいじゃないか、では民主主義ではない。民主主義を謳う現憲法は、自己矛盾をかかえているのである。

1946年米よこせデモ。1947年2.1ゼネスト(未遂)など、日本の民衆、すなわち国体に支配されていた側の運動も大きなものだったが、残念ながら2.1ゼネストに対するマッカーサーの禁止に屈したのち、国体そのものを揺るがすようなうねりとはならなかった。

結局、国体にぶら下がっていた「ちょっとマシ」な連中がそのまま国家権力を継承し、国体に押しつぶされていた民衆は、そのまま支配され続けることになった。
戦争に負けたことで、これまでの支配層を打ち破り、敗戦を解放にする ということができなかった。
敗戦が敗戦で止まってしまった。

大きな意味では、現在に至るも、構図は変わっていない。
そのことを 歯がみして思い起こすために 私は「敗戦」と言いつづける。



もはや言うまでもないが、米国の占領は1945年から72年間、一度も途切れることなく続いている。

1952年を境に、形式的な占領から、実質的な植民地支配へと変化はしたものの、日本はいまだ独立していないし、独立していない植民地に民主主義など成立するわけがない。

日本を「民主国家」だとか「憲法で平和を守れ」と安易に口にする護憲派の皆さんは、植民地でどうやって民主主義が機能するのか、考えてみてもらいたい。
そりゃもちろん、民主主義が機能してほしいと思うし、今憲法を変えるのは大反対だし、平和であってほしいのは当然だけど、安保条約、地位協定、密約、さらには官僚と政治家とマスコミに張り巡らされたネットワークは、植民地以外の言葉が当てはまらない。

オスプレイが墜落して、日本国防衛大臣が飛ばさないでくれ、と言っているのに、完無視して次の日から飛ばし続けるのが「日米関係」だ。日本の大臣よりも、米軍の現地司令官のほうがずっとエラいのである。これは自民党だったからとか、小野寺がヘタレだったからというだけではなく、政権交代しようが何党であろうが、同じことだ。
だいたい、「飛行停止命令」ではなく、「自粛要請」しかできないのだから、どんだけ格下かということだ。

2.1ゼネストを禁止されたあの関係は、いまも続いている。
なんとかして、米国の支配の軛を脱しないことには、何かを決めるということすらかなわない。

そのことを忽(ゆるが)せにしないために、私は「敗戦」と言いつづける。

■参考資料

数字は証言する データーで見る太平洋戦争 (毎日新聞)

アジア歴史資料センター公開資料




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2017-08-10(Thu)

「クチだけ番長」と「こだまでしょうか 枝野です」の会見を聞いてみた

前原誠司と枝野幸男の、民進党代表選への出馬表明を、仕事をしながら片耳で聞いてみた。

最大限よく言っても「口だけ番長」と「こだまでしょうか いいえ枝野です」の比較であり、もっとはっきり言えば、目くそと鼻くそ、ていどの違いしかないのであって、どっちかに頑張れなんていう思いは欠片もない。

一応、全編の動画のリンクは貼っておくが、気分が悪くなったとしても保証の限りではないので、自己責任で見ていただきたい。
どちらも ThePage から。

【中継録画】民進党代表選、前原誠司元外相が会見し出馬表明  2017.08.07

【中継録画】民進党代表選、枝野幸男が出馬表明 午後5時から会見 2017.08.08

もちろん、出馬表明だから、それなりにどっちもイイコトは言っている。
しかし、2010年5月以来、ずっと民主党、民進党を見てきた人ならわかるはずだが、彼らの「言葉」ほどあてにならないものはない。安倍晋三は息をするように嘘を言うといわれているが、民進党も負けてはいない。

むしろ、イイコトを言うやつほど、イザとなったら大車輪で大裏切りをかましてくれる。
そんな誰の目にも明らかなことを、こころ優しい市民派のみなさんは 忘れてしまったのだろうか?
それとも、都合の悪いことは視野に入らないようになっているのか?

嘘つき民進党の代表を選ぶのだから、嘘つきの親玉が登場してくるわけで、まずはそういう前提で代表選をにらんでおかなくちゃ、人間進歩しないんじゃないの?

さて、「どっちがより大嘘つきか」という観点で、二つの会見を聞いてみると、私の印象は明確だった。

枝野のほうが、大嘘つきである。



もちろん、前原のオールフォーオールなどという足の裏がむずかゆくなるようなキレイゴトのスローガンは、まったくもってウソっぽい。
しかし、その中身はしょせん、消費増税の言い訳であって、ウソと言うより粉飾という感じだ。

もっとも、これは枝野もほとんど同じであって、「限られた財源」だから「消費増税」という理屈は同じである。
会見の中で 前原が師事していると言っていた井出英策氏のブログを時々見ることがあるのだが、なるほどエッセイとしてはなかなか面白い。
しかし彼の文章の中には、さらっと「限られた財源」という言葉が出てくる。

なるほど、現在の税収がそのままならば「限られた財源」だろう。
しかし1800兆円の資産をもつ超大金持ち、380兆円の内部留保をもつ超大企業、米国を潤している350兆円の対外純資産。これだけカネがあり余っている日本でなぜ「限られた財源」と言えるのか?
しょせん大金持ちには逆らえない とはじめから諦めているからか?

民進党がきわめて珍しく終始一貫しているのは、「消費税増税」だ。
菅直人がマニフェストを裏切った後は、再裏切りをせずに、ずっと上げろと言いつづけている。
一貫しているのはそこだけかよ とますます絶望的になるが、ここに民進党の本質が現れているわけだ。

つまり、「大金持ちには逆らいません」「大企業には都合悪いことやりません」「米国様には貢ぎ続けます」という点については、鉄板方針であり裏綱領なのである。
そのかぎりにおいて、「限られた財源」を少しはマシな使い方をしますよ、というのが民進党の政策なのである。

要するに、戦う前から負けているのが民進党であり、庶民の叛乱が起こらないように不満を抱き込んで潰すのが、民進党のレゾンデートルなのである。
だから、クチではイイコトをいい、ちょっとは期待をさせ、庶民の不満を吸収しておいて、力を得たら裏切って潰す。これが民進党のお仕事だから、必然的に彼らは嘘つきなのであり、イイコトを言うヤツほど、より忠実な民進党の仕事師=嘘つきなのである。



こうやって、表面の言葉にダマされないようにして動画を見れば、より嘘つきなのは枝野のほう。

政局的にどっちが勝ったほうがよりマシな情勢になるのかは、私には判断できないけど、ただ言えるのは、前原のほうがアホであり、枝野のほうが嘘つきである。
アホと嘘つきの究極の二者択一を、もし迫られたら、私はアホを選ぶだろうな。

まあ、余所の党のことなんで、私には関係ないけどね。



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2017-08-09(Wed)

独白

2005年9月にこのブログを始めてから 実に12年の年月が流れた。
もともと、黙っていると精神衛生上たいへんよろしくない、と自分の心の健康のために書き始めたブログだった。

2006年には耐震偽装事件があり、安倍晋三の私的後援会である安晋会が深く関わっている疑惑についてかなり色々書いて、アクセス数もどーんと増えた。

2007年には自民党が大敗する参院選があり、その直前には中越沖地震で柏崎刈羽原発が危機一髪になるということもあった。
そして、安倍晋三の突然の政権放棄。このあたりから、選挙についても関心が向かい出した。

2008年は橋下徹が政界に登場し、大阪が橋下色に染まっていった。彼の言動には、お坊ちゃま議員にはないファシストとしての資質を感じ、大いに危機感を募らせた。
そしてこの年の後半にリーマンショック。時代が大きく変わっていくのを実感した。

2009年冒頭に報じられた西松建設の裏金事件。ああ、これは平成のロッキード事件になると直感した。
案の定、対米自立と政権交代を目指す小沢一郎が狙い撃ちにされ、メディアの大バッシングが始まっていく。
小沢に関しては西松事件はそもそも存在しなかったこと、その後に騒がれた陸山会事件は不動産取引の日付がズレていただけだったこと、が証明されてもなお、メディアはもちろん、同じく政権交代を目指していたはずの革新野党も、さらには民主党内までもが小沢バッシングに猛り立った。

この小沢バッシングこそが、私がリアルに政治に関わろうと思ったキッカケだ。
バッシングの凄まじさが、そのまま政権交代のリアリティであり、小沢一郎の本気度として私の目には映ったからだ。
これほどの、ありとあらゆる勢力からの大弾圧がなく、粛々と政権交代がなされていれば、私もこれまでどおりに政治を論じるだけに留まっていたと思う。

9月の政権交代と、その後の官僚のサボタージュ。鳩山内閣の無策。政治主導が見る間に官僚に食い荒らされていく様。
刻々と進んでいく事態を、つぶさに観察していた。

2010年5月にはついに鳩山が白旗を揚げ、官僚主導の復権、パペット菅直人の消費増税と参院選大敗。
でも、このころはまだ、再政権交代が可能だと思っていたし、今ほど悲壮感は持っていなかった。



12年間ブログを書いてきたなかで、本当の衝撃ははやり 2011年の3.11だ。
津波と地震ももちろんだが、原発が3基も爆発したというあの衝撃は、それまでの私のスタンスをガタガタに揺さぶることになった。
自分の心の健康のために書いていたブログを、人のために役に立てることはできないか と考えてしまった。

あのとき以来、気軽に書く ということができなくなった。記事を更新する数も激減した。
単純に書きたいことを書くのではなく、今必要なこと、他の人が散々書いている以外のこと、ちゃんと資料もあたって、と考え始めると、キーボードに乗せた指が固まってしまった。

その代わり、書き始めると何時間もかけて書くものだから、なおさらのこと更新は減っていった。
脱原発のデモに出かけたり、集会を企画する側に入ったり、小沢グループの集まりに顔を出したり、リアルで動く機会は増えたけれども、書くという作業は苦しくなった。

2012年には 小沢グループの離党、未来の党としての総選挙での大敗北。
このとき、始めて選挙に足をツッコんだ。ウチの会社の近くにあった渡辺義彦さんの事務所に毎日通って、あれこれと手伝いをやった。街宣車の運転手で朝から晩までノロノロ運転というのも体験した。
また、政治市民プロジェクトと銘打って、脱原発などの市民運動に関わる人たちに、選挙に参加する手伝いもやった。

2013年は大敗北の痛手に、私の周囲はうめき続けていた。
夏には参院選があったけれども、ほぼ身動きがとれず、「国民の生活が第一」は一議席もとれなかった。

そんな状況下で、私は一つのミッションを考えていた。
保守と革新、選挙活動と市民運動、それらを近づけたい。
保守は選挙に強いけれども、現役の議員がいないと誰も動かない。
革新の市民運動はパワフルだけれども、選挙の結果に執着しない。
この二つを融合できれば、焼け野原から立ち上がれるきっかけが作れるかもしれない。そう思った。

詳細は省くけれども、2013年から2016年夏くらいまでの私の活動は、そのミッションに沿って動いてきたつもりだ。
その中でも大きかったのは、関西の小沢グループを糾合した生活フォーラム関西の結成に関わったことだろう。
バラバラだった小沢グループの支持者のよりどころができたことと、市民運動の側から小沢グループに対して声をかけてもらうことができるようになった。

そして2016年の参院選では、全国的な野党共闘の動きに応じて大阪でも保革連携はかなり実現し、私のミッションはもう終了かな と感じた。
次のステップとして考えたのが、山本太郎さんを顔にして 改憲の国民投票に備える運動を作るべきじゃないか ということだった。
両院で2/3とられた以上は、改憲の発議は時間の問題。今から準備しなければ。野党共闘であるていど信頼関係を築いた保革の人たちが、共通して顔になれるのは太郎さんをおいていない。関西でのテストケースを進めてみよう。

そんな思いで、参院選終了直後から憲法フェスを準備したのだが・・・・
フェスのメインキャストになった三宅洋平氏と安倍昭恵の関係で、当初の私の目論見はぶっ飛んでしまった。

あれ以来、私は自分のミッションが見えない。
何をやるべきなのか、自分でできることはなんなのか、
方向性が見えず、ウロウロしている。



自由党で頑張ればいいじゃないか と思う人もいるかもしれない。
たしかに、それなりに自由党のお手伝いはしている。

しかし、はっきり言わせてもらえば、やる気の無い政党の手伝いは、激しく精神が消耗する。
党に所属している政治家個々人は錚々たる顔ぶれだ。にもかかわらず、党組織を作ったり、党の支持率を上げることについて、まったくやる気が感じられない。

たった6人の議員とはいえ、小沢一郎と山本太郎という両代表の知名度だけでも、他の党を圧倒するものがあるのに、自由党の政党支持率は限りなくゼロに近い。たぶん、支持率以前に党名の知名度がゼロに近いのだろう。
なぜこんなことになるのか。

簡単だ。
日常活動をしていないからだ。
日常どころか、選挙のときですら、党としてはほとんど何もしていないからだ。

政党の活動については、政党助成金というカネが税金から出ている。議員ひとりあたり約4000万円くらいだ。
いくら小さな自由党でも2億や3億の政党助成金は出ている。
ならば、その1割でも使って全国の日常活動を支えれば、各県に小さな事務所の一つも構え、毎日ボランディアが街宣車を回し、重要選挙区で全戸ポスティングをすることくらいはできるはずだ。

もちろん支援者のカンパは集めなければならない。
しかし、街宣車の用意からガソリン代まで、チラシの印刷から、選挙事務所の家賃まで、一円の支えもなくカンパでやれと言われたら、それは「やる気が無い」としか私には理解できない。



受け皿があれば政権交代はできる。小沢氏はそう言いつづけているし、都議選の結果はそれを裏付けているだろう。
しかし、現実は「受け皿は無い」のである。
「無い」ものをいつまでもクチをあけて待っていても、無いものは無い。

最近わたしは、野党共闘 という言葉を聞くと、ウツになる。
私もウツになるような野党共闘を、有権者におしつけて、本当に選択されるのか?

こんな候補嫌だなあ、と思いながら、でも自公よりはマシだから鼻をつまんで投票しよう というのが、今目の前にある野党共闘だ。
運が良ければ、投票したい候補がいる選挙区もあるだろうが、ほとんどはこういうことになる。

たしかに、理性で考えれば、それでも野党候補を一本化し、我慢してそれに投票するほうが、自公政権が続くよりはずっとマシだ。
それは十分に理解しているけれども、しかし、その気持ち悪い選択肢を選ばされるという現実こそが、投票率が激オチしている原因なんではないか。

こんな選択肢は 受け皿とは言わない。
むしろ、選ばされる有権者のほうが、候補者を受け入れてやる受け皿だ。
有権者に受け皿を強制する選挙で、本当に勝てるのか?



このブログは、私の勝手な心の落書きだ。
なんの責任もないし、誰を動かすわけでもない。

自由党に文句を言ったり、野党共闘に反対したりするのは自粛してきたけれども、考えてみたら私ごときが自粛する意味なんてない。思ったことは書く。役に立とうが立つまいが、それはどうでもいい。

そうは言いながらも、これからも必要に応じて手伝いはしていくだろうけれども、自分の心を無くしてまでやることはない。
自分が面白そうだ、やりたい と思えばやるし、思わなければやらない。

だいたい、思い起こせば我が50数年の人生で、理が勝って判断したことで成功したためしなんてないじゃないか。
理性なんてクソ食らえ だ。

リセットしよう。



2017-08-02(Wed)

なんでボクらの暮らしは楽にならないんだ? を図解してみた

アベノミクスで、なるほど求人倍率は1.5倍を超えた。失業率も2.8%だという。実質賃金も、少しは上がっている。

でも、株価が高騰し、大企業が空前の利益を上げている割には、景気がいいという実感はない。
むしろ、なんだか暮らしはどんどん苦しくなっているような気がする。

なんでこんなことになるのか。
その原因は、「お金を貯め込んで使わないから」だ。
貯めると言っても、われわれ庶民がせっせと貯金するようなケチな話しではない。

巨大なダムは3種類ある。
対外資産
大金持ちの個人資産
企業の内部留保

一度ダムに入った金は、チョロチョロとしか流れてこない。
経済を潤すことなく、税金も庶民と比べてべらぼうに低い税率しかかからない。
ここには書き切れなかったが、タックスヘイブンに逃げ出したものは、税金ゼロである。

そこにどうやってカネが溜まっていくのか。
言葉ではややこしいので、図解してみた。

今日は図を書くだけで手一杯なので、これ以上の解説はまた後日。
ぜひ、じっくりと眺めてみていただきたい。

20170802.jpg


■■お知らせ■■
自由党兵庫県連を準備する会 第2回目準備会

日時:8月20日(日)13:30~16:30(予定)
場所:兵庫勤労市民センター 2F 第1・2会議室
(前回と同じ建物の別室)
JR兵庫駅北向かい(快速が停車します)
   https://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/hyogo/index.html
議題:1.自由党について知ろう。
    2.県連をつくるために必要なこと。
ゲスト:自由党大阪府連代表 渡辺義彦元衆議院議員

■質問を募集します。
自由党について聞きたいことがある方は、前もってこちらにお寄せ下さい。 kashimajuku@hi-net.zaq.ne.jp(加島)
事前に渡辺さんにお伝えしておきます。
勿論当日でも結構です。
■参加確認
予定が分かっている方は、上記のアドレスに参加・不参加のご連絡をお願いします。
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当日の急な参加も大丈夫です。



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