2012-04-23(Mon)
今だからこそ沖縄の話 玉城デニーさんの講演
昨日、政治と生活を考える会 政経フォーラムで、玉城デニーさんの話を聞かせてもらった
題して「沖縄 ・ 基地と隣り合わせの生活を考える」
何のお手伝いもしていないのに、あつかましくスタッフの名札を着けて、写真を撮ったりメモをタイプさせてもらったりしたので、ザックリとレポートをしておきたい。
ただし、これはテープ起こしではなくて、私の断片的な聞き書きである。私の私見は交えていないが、文責はすべて私個人にある。もし、引用される方はその点は必ず付記していただきたい。
<題1部> 玉城デニー議員の講演
本名は 康裕。親父が海兵隊員だった
母親はアメリカ行く期待で最初デニーと名付けたが、小4のときに渡米をあきらめて日本名に変えた
2002年沖縄市市議会議員になった
沖縄は保守と革新という色分けがはっきり
今も社民党強い。県知事も保守、革新という色分け
いちばんの原因は基地問題
保守は基地との共存、交付金、公共事業
革新は先祖伝来の土地返してほしいと抵抗
去る大戦で親族なくされた傷跡が癒えていない
基地問題にどういうスタンスかで、保守と革新に色分けされる
自分は当初、どちらかというと革新
ところが、革新陣営の中ではなぜか憲法、日の丸君が代について議論しない
議会に入ってから議論しないことに抵抗感があった
なぜ国旗とか国家とか形にこだわる?

それで革新の会派から出る。そうしたら色んな世界が見えた。
その頃に小沢先生の本読む機会があり、この人しかいないと思った。
自分のポジション決めた。
それまでは一般の小沢一郎像だった。
小沢先生の話はわかりやすい。
庶民から見て、わかりにくい政治が多すぎる
なんでこういう方向になるのか。
2009マニフェストは明確でわかりやすい
上智大学の社会福祉専門学校に、仕事しながら夜間通った。
その後、沖縄中部地区の老人福祉センター協議会で事務職を2年間
母は、美ら海水族館からフェリーで30分の伊江島の出身で、本島に出てきてそのまま親戚の家で育った
自分が与那城村で生まれたときは復帰前
復帰した72年当時、半年間はドルと円両方使っていた
小さい店のおばあちゃんは円の計算できない(人もいた)
祖国復帰運動は、教職員組合中心に復帰協という組織があった。
(復帰の年の)5月梅雨入り前に行進団
復帰運動では、手作りで日の丸作って振っていた
72年本土復帰
本土復帰で、自衛隊と日の丸反対イデオロギーが入ってきたと言われている
基地なくなって土地帰ってくると期待していた。子どもも大人も。だから日の丸振っていた
ところが帰ってこない。それで社会党の運動が強くなった
自分は今は保守でもあり革新でもある
辺野古移設反対、消費税反対、TPP反対だから民主党の中の革新
故郷愛し、日本の歴史愛しているのが保守の理由
自分と同年代のハーフは(沖縄では)いじめの対象だった
自分の中でのアイデンティティ葛藤があった
痛いと感じると生きていると感じるので手のひらをナイフで切ったりした
なんでいじめられるのか 誰も答えてくれないので自分で探すしかなかった
少年時代、サイパンで捕虜になって帰ってきた知花さんという「おっかあ」に預けられていた
おっかあが「容姿は皮一枚」と明確に答えてくれた。皮一枚はいだら何の違いがあるか ということ。
当時、同世代のハーフは、前向きに明るく生きていくか、やくざみたいになるかしかなかった。
父親おらず貧しかった。
父親いれば学費の高いアメリカンスクールに通ってバイリンガルになっていたが、自分たちは普通に地元の学校へ通った
米軍基地は今よりも多く、基地の周りを米兵が闊歩していた。隣近所に住んでいた。
ただし、基地のない南部の人は経験していない
(南部、那覇、中部、北部の説明)
基地は中部と那覇に集中している
(以下、玉城氏の作成した小年表を見ながら)
今の米軍基地だけ見ていると、基地のおかげで潤っているとか、共存しているととらえがち
しかし、沖縄はKEYSTONE OF THE PACIFIC 太平洋の要石だ
年表のP1~P2
沖縄の人間は昭和平成に換算すること難しいので西暦で書いた
ニミッツ元帥やマッカーサー司令官は、占領前から沖縄基地化を唱えていた
1945年4月に読谷から北谷にかけて米軍は無血上陸
北へ逃げた人は多く助かった
南部は日本軍が首里で迎え撃つ作戦だった(ので激戦になった)
日本軍はガマ(洞窟)に隠れて攻撃したので、米軍は火炎放射器でガマの中を直接焼き討ち
ひめゆり部隊 一般の女学生 前線にかり出される
ガマに2段ベッド
6月23日 日本軍司令官自決で戦闘が終了
行政機関である沖縄諮諄会は、いちばん大きな捕虜収容所だった石川に設置
捕虜になった人は一度ぜんぶ収容所に集められた
その間に基地が準備され、土地は接収された。
その後、収容所から地域ごとに分遣隊が故郷を見に行ったが、「私の故郷は金網の向こう」
しかたがないので、フェンスにへばりつくようにあばらやを建てて住んだ
やがて、米軍の支給で住宅を建てた
いらなくなった基地は返還されたが、それでも多く残っている
(「米軍基地観光案内」よりスライド。 ※以下はごく部分的な聞き取りメモ)
首里城の地下は司令部の壕だった
慶良間諸島 米軍の艦船集結し北谷へ
那覇市内は木造瓦葺きが多かったが、すべて焼かれた
捕虜収容所は集落ごと、小字ごとだったので連絡とれた
日本分割統治の計画あったが → 天皇を中心にした間接統治に変更
内灘 砂川 米軍拡張反対闘争があった
そこで、北富士演習場 岐阜演習場 拡張計画になったが、これも反対運動
そして → キャンプシュワブ 等々
本土から移転してきた海兵隊が居座っているのであって、もともと沖縄にいたのではない
訓練空域 訓練するときは立ち入り禁止
沖縄は囲まれている
管制空域 高さ6000m 半径80km
民間機は那覇空港に近づくと低空飛行強いられるのは、嘉手納基地があるから
米軍施設 県土の10.2% 演習場広大
日本にいる米軍の68.4%
日本にいる海兵隊の9割 14958人
ちなみに自衛隊基地は県土面積の0.3%、6400人
観光収入上がっているが、基地収入はあがっていない。
4兆円の県民総所得の5%にすぎない
辺野古のV字型滑走路は、キャンプシュワブで現在建設中の建物を壊して作る計画
<第2部> 質疑応答
Q1
アメリカが守るのでなければ 日本は今後どうするべきか。自衛隊が守る?自主防衛する?どういった方向?
A(玉城議員)
独立国として深い問題。
沖縄側からあえて言わせてもらう。自衛隊の基地に(沖縄では)抵抗がある。戦争の経緯で軍隊は住民
を守らなかった、ということと二重写しになる。
物理的にこれ以上アメリカに頼るわけに行かない。普天間切り離して、具体的に動いてきている。日本が具体的に動かないと、(返還が)遅れていく。
日本の防衛費は少し伸ばした方がいい。情報、人間の情報能力、他国から情報収集するインテリジェンスという、他と異なる防衛能力が必要
日本ができる独自の努力を、予算掛けてしっかりやる。(そうしたことを)議論すべき。
Q2
沖縄では本土返還をよろこんでいるのか。返還はよかったのか
沖縄の人は独立を考えないのか
A(玉城議員)
大正区など県人会あり、関西と沖縄は縁がある
通い船という民謡で歌われている港は堺のこと (ちょっと謳ってみせる)
今年の5月15日で本土返還40年なので、新聞社などがアンケートを沢山やるだろう
今の現状ではおそらく、よかった:独立など=7:3 くらいではないか
パスポート無しで行きたいところ行ける、食べたいもの食べる、読みたいもの読む これはよかったと思っている。
独立ということでは、県議、県庁、大学先生などが道州制懇話会という1国2制度、全県沖縄観光特区を考えている。自分たちで課税権。真剣に議論している
防衛、教育は日本で、経済と生活は沖縄らしさそうした考えの人は、3割くらいいるのでは
迷いながらも期待している

Q3
小沢氏の判決が迫る今の時期に、なぜフォーラムのテーマが沖縄なのかと知人に聞かれた
A(玉城議員)
小沢先生の件に関心ない人はいない。私自身も沖縄テーマでよかったのかと思わないでもない。
沖縄の問題がここまで解決できなかったのは「カネだけやっていれば沖縄が解決するよ」という考え。
鳩山さんの「最低でも県外」 あれがなかったら日本人は今でも「普天間って何?」だったろう。
「核抜き本土並み」が復帰合い言葉だった。しかし、戦後はそれからも続けれらた。これは政治の責任
教科書に沖縄の記載が何行あるか。対馬丸のことが教科書に2行しかないので(かえって)沖縄のことを気にするようになった、という高校生がいた
無意識という環境が危ない。
Q4
沖縄の未来像。日本に対するアメリカ等の邪魔がなければ、まずこれをする。こんな沖縄をつくると思い描くことは?
A(玉城議員)
一切の邪魔がなければ 自分たちで決めて自分たちで実行する。
八重山の教科書問題。どの教科書渡していいのか自分たちで決めることができない。
制度が未熟ならば、補完するのは地域であり沖縄。
海洋面積や人口に応じてこれだけの予算渡すから、あとは自分たちで考えてね、でいい。
沖縄の領土、領海、人権を守るという、最低にして最大の問題だけを国の責任。
沖縄はバイオエタノール最適の環境。
地方分権は統治の改革だ。
Q5
鳩山政権の失敗についてどう思うか
A(玉城議員)
本音で言うと、鳩山政権に任命された閣僚が悪い
岡田外務大臣、北沢防衛大臣、残念ながら平野さんも仕事できなかった
「最低でも県外」は2009年玉城議員のパーティーで発言
怒りを込めて言いたい。できない議員を閣僚にしてはいけない
官僚はアメリカとつながっている。ウィキリークスで明らか。
鳩山さんは自分の意志で語る方だが、知事の前では官僚の用意したペーパーを顔を上げずに読んだ
<番外編>打ち上げ
※終了後、玉城議員、渡邊議員らを囲んで、スタッフの方々の簡単な食事会があった。なんと厚かましくも私も押しかけてしまった。色々お話しをお聞きした中で、泡瀬干潟の埋め立て問題について、お聞きしたことをメモしておく。これも私の考えは交えていないけれども、聞いたことを私なりにまとめているので、玉城議員の言葉そのままではない。
沖縄市議の時は、埋め立て計画には大反対した。埋め立て範囲も広すぎるし、リゾートがうまく行くわけ無いし、経営計画もずさんだった。
衆議院時代に埋め立て反対だった東門市長は、市長としては市民と話しあって決める と言った。そして、そのようなプロセスを経て、計画を縮小し、内容も変更した。その手続きは正当であり、自分としては、それを支持する。目付役のように、見守っていく。
コザはもともと海が無く、陸地は基地に取られ、沖縄市になってからも、土地利用するには海に出て行くしかない。
辺野古の計画とセットのように言われることがあるが、それはまったく根拠がない。
概ね、そのようなことだった。
正直に言って、泡瀬干潟の問題自体は、私は勉強不足であまりよく知らない。ただ、おそらくはこうした開発計画というのは、後悔する結果になるのだろうという直感はある。自然環境については、これはもう破壊されないわけがない。
仮にそうだとしても、本当に地元で熟議されて、これまでの公共事業のプロセスを覆すような話し合いが行われたのであれば、どこまで私があれこれ言えるのかは分からない。なにせ、東京湾や大阪湾の埋め立てには、何の文句の一つも言ってこなかったのに、沖縄だけは一切まかり成らぬと言えるのか、という疑問は残るからだ。
ただし、それはかなり画期的な手続きが踏まれた場合であって、形式的な検討会議をやりました というだけではこれまでの政治と何ら変わらない。
いっそのこと、市長発議で住民投票をするくらいのことがあってもいいのではないか。
そうした、地元の動きが私にはまったく見えないので、私自身の判断は、ここでは控えたい。
玉城議員との会話の中では、最後のほうはかなりズケズケと質問したのだが、イヤな顔一つせずに丁寧に答えていただいた。
何もかも同じ意見の人なんて、そうそういるものではない。それでも、丁寧な関係を築いて、大事なところでは力をあわせる、という成熟した民主主義のためには、意見を戦わせても、感情の対立にしない ということは、とても大事なことだと思った。
<最後に>
本題の、基地問題については、実に多くの気づきを与えてもらった。
私の考えはまた改めて書きたいと思うが、何点かだけ反復になるけれどもピックアップしておきたい
①捕虜収容所に囚われている間に土地を基地に奪われた
②海兵隊の基地は本土で反対されて沖縄にやってきた
③復帰すれば本土並と思ったのに土地は帰らず基地はそのまま
④独立に、迷いながら期待している人が3割
⑤他と異なる防衛能力が必要
全体を通して、紋切り型ではない、言外の葛藤ものぞかせながらのお話しに、とても説得力があった。
「党内野党」のデニーさんには、ぜひとも頑張っていただきたい。


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題して「沖縄 ・ 基地と隣り合わせの生活を考える」
何のお手伝いもしていないのに、あつかましくスタッフの名札を着けて、写真を撮ったりメモをタイプさせてもらったりしたので、ザックリとレポートをしておきたい。
ただし、これはテープ起こしではなくて、私の断片的な聞き書きである。私の私見は交えていないが、文責はすべて私個人にある。もし、引用される方はその点は必ず付記していただきたい。
<題1部> 玉城デニー議員の講演
本名は 康裕。親父が海兵隊員だった
母親はアメリカ行く期待で最初デニーと名付けたが、小4のときに渡米をあきらめて日本名に変えた
2002年沖縄市市議会議員になった
沖縄は保守と革新という色分けがはっきり
今も社民党強い。県知事も保守、革新という色分け
いちばんの原因は基地問題
保守は基地との共存、交付金、公共事業
革新は先祖伝来の土地返してほしいと抵抗
去る大戦で親族なくされた傷跡が癒えていない
基地問題にどういうスタンスかで、保守と革新に色分けされる
自分は当初、どちらかというと革新
ところが、革新陣営の中ではなぜか憲法、日の丸君が代について議論しない
議会に入ってから議論しないことに抵抗感があった
なぜ国旗とか国家とか形にこだわる?

それで革新の会派から出る。そうしたら色んな世界が見えた。
その頃に小沢先生の本読む機会があり、この人しかいないと思った。
自分のポジション決めた。
それまでは一般の小沢一郎像だった。
小沢先生の話はわかりやすい。
庶民から見て、わかりにくい政治が多すぎる
なんでこういう方向になるのか。
2009マニフェストは明確でわかりやすい
上智大学の社会福祉専門学校に、仕事しながら夜間通った。
その後、沖縄中部地区の老人福祉センター協議会で事務職を2年間
母は、美ら海水族館からフェリーで30分の伊江島の出身で、本島に出てきてそのまま親戚の家で育った
自分が与那城村で生まれたときは復帰前
復帰した72年当時、半年間はドルと円両方使っていた
小さい店のおばあちゃんは円の計算できない(人もいた)
祖国復帰運動は、教職員組合中心に復帰協という組織があった。
(復帰の年の)5月梅雨入り前に行進団
復帰運動では、手作りで日の丸作って振っていた
72年本土復帰
本土復帰で、自衛隊と日の丸反対イデオロギーが入ってきたと言われている
基地なくなって土地帰ってくると期待していた。子どもも大人も。だから日の丸振っていた
ところが帰ってこない。それで社会党の運動が強くなった
自分は今は保守でもあり革新でもある
辺野古移設反対、消費税反対、TPP反対だから民主党の中の革新
故郷愛し、日本の歴史愛しているのが保守の理由
自分と同年代のハーフは(沖縄では)いじめの対象だった
自分の中でのアイデンティティ葛藤があった
痛いと感じると生きていると感じるので手のひらをナイフで切ったりした
なんでいじめられるのか 誰も答えてくれないので自分で探すしかなかった
少年時代、サイパンで捕虜になって帰ってきた知花さんという「おっかあ」に預けられていた
おっかあが「容姿は皮一枚」と明確に答えてくれた。皮一枚はいだら何の違いがあるか ということ。
当時、同世代のハーフは、前向きに明るく生きていくか、やくざみたいになるかしかなかった。
父親おらず貧しかった。
父親いれば学費の高いアメリカンスクールに通ってバイリンガルになっていたが、自分たちは普通に地元の学校へ通った
米軍基地は今よりも多く、基地の周りを米兵が闊歩していた。隣近所に住んでいた。
ただし、基地のない南部の人は経験していない
(南部、那覇、中部、北部の説明)
基地は中部と那覇に集中している
(以下、玉城氏の作成した小年表を見ながら)
今の米軍基地だけ見ていると、基地のおかげで潤っているとか、共存しているととらえがち
しかし、沖縄はKEYSTONE OF THE PACIFIC 太平洋の要石だ
年表のP1~P2
沖縄の人間は昭和平成に換算すること難しいので西暦で書いた
ニミッツ元帥やマッカーサー司令官は、占領前から沖縄基地化を唱えていた
1945年4月に読谷から北谷にかけて米軍は無血上陸
北へ逃げた人は多く助かった
南部は日本軍が首里で迎え撃つ作戦だった(ので激戦になった)
日本軍はガマ(洞窟)に隠れて攻撃したので、米軍は火炎放射器でガマの中を直接焼き討ち
ひめゆり部隊 一般の女学生 前線にかり出される
ガマに2段ベッド
6月23日 日本軍司令官自決で戦闘が終了
行政機関である沖縄諮諄会は、いちばん大きな捕虜収容所だった石川に設置
捕虜になった人は一度ぜんぶ収容所に集められた
その間に基地が準備され、土地は接収された。
その後、収容所から地域ごとに分遣隊が故郷を見に行ったが、「私の故郷は金網の向こう」
しかたがないので、フェンスにへばりつくようにあばらやを建てて住んだ
やがて、米軍の支給で住宅を建てた
いらなくなった基地は返還されたが、それでも多く残っている
(「米軍基地観光案内」よりスライド。 ※以下はごく部分的な聞き取りメモ)

慶良間諸島 米軍の艦船集結し北谷へ
那覇市内は木造瓦葺きが多かったが、すべて焼かれた
捕虜収容所は集落ごと、小字ごとだったので連絡とれた
日本分割統治の計画あったが → 天皇を中心にした間接統治に変更
内灘 砂川 米軍拡張反対闘争があった
そこで、北富士演習場 岐阜演習場 拡張計画になったが、これも反対運動
そして → キャンプシュワブ 等々
本土から移転してきた海兵隊が居座っているのであって、もともと沖縄にいたのではない
訓練空域 訓練するときは立ち入り禁止
沖縄は囲まれている
管制空域 高さ6000m 半径80km
民間機は那覇空港に近づくと低空飛行強いられるのは、嘉手納基地があるから
米軍施設 県土の10.2% 演習場広大
日本にいる米軍の68.4%
日本にいる海兵隊の9割 14958人
ちなみに自衛隊基地は県土面積の0.3%、6400人
観光収入上がっているが、基地収入はあがっていない。
4兆円の県民総所得の5%にすぎない
辺野古のV字型滑走路は、キャンプシュワブで現在建設中の建物を壊して作る計画
<第2部> 質疑応答
Q1
アメリカが守るのでなければ 日本は今後どうするべきか。自衛隊が守る?自主防衛する?どういった方向?
A(玉城議員)
独立国として深い問題。
沖縄側からあえて言わせてもらう。自衛隊の基地に(沖縄では)抵抗がある。戦争の経緯で軍隊は住民
を守らなかった、ということと二重写しになる。
物理的にこれ以上アメリカに頼るわけに行かない。普天間切り離して、具体的に動いてきている。日本が具体的に動かないと、(返還が)遅れていく。
日本の防衛費は少し伸ばした方がいい。情報、人間の情報能力、他国から情報収集するインテリジェンスという、他と異なる防衛能力が必要
日本ができる独自の努力を、予算掛けてしっかりやる。(そうしたことを)議論すべき。
Q2
沖縄では本土返還をよろこんでいるのか。返還はよかったのか
沖縄の人は独立を考えないのか
A(玉城議員)
大正区など県人会あり、関西と沖縄は縁がある
通い船という民謡で歌われている港は堺のこと (ちょっと謳ってみせる)
今年の5月15日で本土返還40年なので、新聞社などがアンケートを沢山やるだろう
今の現状ではおそらく、よかった:独立など=7:3 くらいではないか
パスポート無しで行きたいところ行ける、食べたいもの食べる、読みたいもの読む これはよかったと思っている。
独立ということでは、県議、県庁、大学先生などが道州制懇話会という1国2制度、全県沖縄観光特区を考えている。自分たちで課税権。真剣に議論している
防衛、教育は日本で、経済と生活は沖縄らしさそうした考えの人は、3割くらいいるのでは
迷いながらも期待している

Q3
小沢氏の判決が迫る今の時期に、なぜフォーラムのテーマが沖縄なのかと知人に聞かれた
A(玉城議員)
小沢先生の件に関心ない人はいない。私自身も沖縄テーマでよかったのかと思わないでもない。
沖縄の問題がここまで解決できなかったのは「カネだけやっていれば沖縄が解決するよ」という考え。
鳩山さんの「最低でも県外」 あれがなかったら日本人は今でも「普天間って何?」だったろう。
「核抜き本土並み」が復帰合い言葉だった。しかし、戦後はそれからも続けれらた。これは政治の責任
教科書に沖縄の記載が何行あるか。対馬丸のことが教科書に2行しかないので(かえって)沖縄のことを気にするようになった、という高校生がいた
無意識という環境が危ない。
Q4
沖縄の未来像。日本に対するアメリカ等の邪魔がなければ、まずこれをする。こんな沖縄をつくると思い描くことは?
A(玉城議員)
一切の邪魔がなければ 自分たちで決めて自分たちで実行する。
八重山の教科書問題。どの教科書渡していいのか自分たちで決めることができない。
制度が未熟ならば、補完するのは地域であり沖縄。
海洋面積や人口に応じてこれだけの予算渡すから、あとは自分たちで考えてね、でいい。
沖縄の領土、領海、人権を守るという、最低にして最大の問題だけを国の責任。
沖縄はバイオエタノール最適の環境。
地方分権は統治の改革だ。
Q5
鳩山政権の失敗についてどう思うか
A(玉城議員)
本音で言うと、鳩山政権に任命された閣僚が悪い
岡田外務大臣、北沢防衛大臣、残念ながら平野さんも仕事できなかった
「最低でも県外」は2009年玉城議員のパーティーで発言
怒りを込めて言いたい。できない議員を閣僚にしてはいけない
官僚はアメリカとつながっている。ウィキリークスで明らか。
鳩山さんは自分の意志で語る方だが、知事の前では官僚の用意したペーパーを顔を上げずに読んだ
<番外編>打ち上げ
※終了後、玉城議員、渡邊議員らを囲んで、スタッフの方々の簡単な食事会があった。なんと厚かましくも私も押しかけてしまった。色々お話しをお聞きした中で、泡瀬干潟の埋め立て問題について、お聞きしたことをメモしておく。これも私の考えは交えていないけれども、聞いたことを私なりにまとめているので、玉城議員の言葉そのままではない。
沖縄市議の時は、埋め立て計画には大反対した。埋め立て範囲も広すぎるし、リゾートがうまく行くわけ無いし、経営計画もずさんだった。
衆議院時代に埋め立て反対だった東門市長は、市長としては市民と話しあって決める と言った。そして、そのようなプロセスを経て、計画を縮小し、内容も変更した。その手続きは正当であり、自分としては、それを支持する。目付役のように、見守っていく。
コザはもともと海が無く、陸地は基地に取られ、沖縄市になってからも、土地利用するには海に出て行くしかない。
辺野古の計画とセットのように言われることがあるが、それはまったく根拠がない。
概ね、そのようなことだった。
正直に言って、泡瀬干潟の問題自体は、私は勉強不足であまりよく知らない。ただ、おそらくはこうした開発計画というのは、後悔する結果になるのだろうという直感はある。自然環境については、これはもう破壊されないわけがない。
仮にそうだとしても、本当に地元で熟議されて、これまでの公共事業のプロセスを覆すような話し合いが行われたのであれば、どこまで私があれこれ言えるのかは分からない。なにせ、東京湾や大阪湾の埋め立てには、何の文句の一つも言ってこなかったのに、沖縄だけは一切まかり成らぬと言えるのか、という疑問は残るからだ。
ただし、それはかなり画期的な手続きが踏まれた場合であって、形式的な検討会議をやりました というだけではこれまでの政治と何ら変わらない。
いっそのこと、市長発議で住民投票をするくらいのことがあってもいいのではないか。
そうした、地元の動きが私にはまったく見えないので、私自身の判断は、ここでは控えたい。
玉城議員との会話の中では、最後のほうはかなりズケズケと質問したのだが、イヤな顔一つせずに丁寧に答えていただいた。
何もかも同じ意見の人なんて、そうそういるものではない。それでも、丁寧な関係を築いて、大事なところでは力をあわせる、という成熟した民主主義のためには、意見を戦わせても、感情の対立にしない ということは、とても大事なことだと思った。
<最後に>
本題の、基地問題については、実に多くの気づきを与えてもらった。
私の考えはまた改めて書きたいと思うが、何点かだけ反復になるけれどもピックアップしておきたい
①捕虜収容所に囚われている間に土地を基地に奪われた
②海兵隊の基地は本土で反対されて沖縄にやってきた
③復帰すれば本土並と思ったのに土地は帰らず基地はそのまま
④独立に、迷いながら期待している人が3割
⑤他と異なる防衛能力が必要
全体を通して、紋切り型ではない、言外の葛藤ものぞかせながらのお話しに、とても説得力があった。
「党内野党」のデニーさんには、ぜひとも頑張っていただきたい。


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