2013-02-10(Sun)
人民の命のパルチザン
生活の党のホームページを見ると、ロゴマークの下に「People's Life Party」と書いてある。
People's Life は 国民生活とも読めるが、人民の命 とも読める。後者の意味であることを願いたい。国民生活では、消費者庁の管轄する官僚用語みたいで、ぴんと来ない。
放射能を筆頭に、あらゆる意味で命の危険が迫っている今日、生活の党は、実は命の党であってほしい。
また、国民という言葉は、国の都合に翻弄される民 という上から目線が強烈であり、やはり一番シンプルな人民という言葉がいい。
生活の党の本旨は、人民の命の党であることを、小沢代表他の方々にお願いをしたい。
そして、Party である。もちろん、普通は政党のこと。
しかし、ここではあえてパルチザンと言ってみたい。
いまどきは、パルチザンというとサッカーチームのことかと思う人も多いかもしれないが、語源はpartyと同じであり、直訳すれば党員というような意味なのだろう。
世界史上で数多くの国に様々なパルチザンが登場し、ファシズムや侵略に対して闘った。ごく少数の勢力からやがて国を動かすチカラになっていった。
もちろん、生活の党に往年のパルチザンを重ねるのは無理がある。まして、武器をもって闘えなんて言うわけじゃあない。
それでも、あえてパルチザンという言葉を持ち出したのは、そのくらいの「思い切りの良さ」がなくては反撃できないのではないか と思ったからだ。
まず、生活の党は、実質的に非合法化されている。
えっ と思うだろうか?
しかし、2009年以来の小沢氏とその政治グループに対する仕打ちを思い出してみれば、これが合法的な権利を認められた存在だと言えるだろうか。
主に検察とマスメディアによって、実質的な非合法組織にされてしまっている とちゃんと自覚した方がいい。現実から目をそらしても、何も生まれないのだから。
客観的な基準、世界基準に照らしてみれば、生活の党は「黙認されている非合法団体」という扱いだ。
生活の党が法律を犯しているのではなく、取り締まる側が法を無視しているのは言うまでもないが、党の活動の困難さは、非合法組織並みなのである。
そして、非合法化された党には、それなりの闘い方があるはずだ。
自民党以来の、我王道を行く では通用しない。通用しないことが、残念ながら非情な結果として証明されてしまった。
強い確信を持った少数が闘うためには、ゲリラ戦しかない。
100億の献金を集めて、300人の候補を立て、一気に過半数を狙う、という戦法が今すぐできないことは、生活の党を支持しているほとんどの人がイヤというほどわかっている。
300人どころか、参議院選挙で現職以外の候補を擁立できるかどうかさえ分からない状況なのだから。
2009年の政権交代からの急転落だけを見ると、なにか絶望的な気分になってしまう。
しかも、原発と放射能という、一刻の猶予もない大問題があるだけに、本当にキリキリと胃が締め付けられる。
そんな、どうにもこうにも手詰まりになったとき、私が必ず読む本がある。
ロマンロランの「ベートーベンの生涯」と、羽仁五郎の「自伝的戦後史」だ。
ロマンロランのほうは内面的に行き詰まったとき、羽仁五郎はまさに今のようなとき。
(右サイドにリンクあり)
羽仁五郎の何がすごいかというと、ラディカルなこと。物事の根源を、ズバッとみとおしていること。
「戦後史の正体」のような政治史の裏面という意味ではなく、一人一人の人民が深く「考える」ということを提起してくれている。
その羽仁五郎のことばに、「真理は少数にあり」ということがある。
数が多いのが正しい という橋下徹のような浅はかな理屈ではない。
真理はかならず少数から始まり、やがて多数になるという性質のものだ という。
そして、少数のパルチザンが、表現はできないけれども「考えている」人民とつながっていくことで、力を付けていく。その闘いこそが、ゲリラなのであり、別に武器を振り回すだけがゲリラ戦ではない。
まずは、声なき声と共に生きること。
この際、落選したことを奇貨として、非正規労働者として働きながら、先の見えない暮らしを実感してみること。
あるいは、何ヶ月か東北で暮らしてみる。何かをするのではなく、声なき声、表現手段を持たない人びとの声を聞くこと。
政治家としての視察ではなく、生活者として共にあることで、見えてくるものがあるはずだ。
その先に、パルチザンの同志は集まり、党としてのあり方が見えてくるだろう。
と同時に、存在を知らしめる活動もしなくてはならない。これも、マスメディアやお金を使った広告などの王道戦略は、考えるだけムダだ。
ネットもできるだけ活用するべきだが、現状では携帯メール以外の実用レベルのネット普及率は、それほど高くない。リアルの宣伝活動を、どうやって効果的におこなうか。
これはやはり、小沢さんにがんばってもらうしかない。全国駅頭縦断ツアーである。
小沢さん一人がしゃべるのではなくて、国民の生活が第一の結党大会のように、福島の人や市井の人々のリレートークを交えながら、小沢さんが話しをする。もちろん、大きな駅前で。
ぜひとも元双葉町長の井戸川さんを口説き落として、一緒に演説をしてもらいたい。井戸川さんほど心にひびく政治家はいない。小沢さんとのダブルキャストをぜひとも。
それを聞きに行く運動、その動画を広める運動、そのミニ版を様々な街頭でやる運動へと連動させていく。
それともうひとつは、市民運動との連携だ。
連携と言っても、そう簡単にはいかない。市民側には「元自民党」という意識があり、必ずしもウエルカムではない。政治家は、最初は教えを請うつもりで、どんどんアプローチしていけばいい。
市民運動の中にも、かなり偏狭な人もいれば、のりしろのある人もいる。
市民運動のネットワークは、じつはかなりの地下水脈だ。しかし、それが政治には結びつかない。
それを嘆いていてもしかたがない。まずは、政治の側がパルチザンとして中に入っていくことからしか、始まらない。
政治家が「政治家」という鎧をぬぎ、人民と共にあるパルチザンとして生き始めること。そう発想すると、色々な道が見えてくるような気がする。
どうしても、パルチザンという言葉に抵抗があるならば、小沢氏のいう「川上戦術」と言い換えてもいい。選挙の川上戦術を、もっと日常生活全般に広げたのが、私のいうパルチザンだ。
そして、それが People's Life Party という名前を持つ党の、本当のあり方だと思うのだ。
■■
ゲリラ戦かどうかはわからないけれども、人民の命のために、2月17日は これ
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People's Life は 国民生活とも読めるが、人民の命 とも読める。後者の意味であることを願いたい。国民生活では、消費者庁の管轄する官僚用語みたいで、ぴんと来ない。

また、国民という言葉は、国の都合に翻弄される民 という上から目線が強烈であり、やはり一番シンプルな人民という言葉がいい。
生活の党の本旨は、人民の命の党であることを、小沢代表他の方々にお願いをしたい。
そして、Party である。もちろん、普通は政党のこと。
しかし、ここではあえてパルチザンと言ってみたい。
いまどきは、パルチザンというとサッカーチームのことかと思う人も多いかもしれないが、語源はpartyと同じであり、直訳すれば党員というような意味なのだろう。
世界史上で数多くの国に様々なパルチザンが登場し、ファシズムや侵略に対して闘った。ごく少数の勢力からやがて国を動かすチカラになっていった。
もちろん、生活の党に往年のパルチザンを重ねるのは無理がある。まして、武器をもって闘えなんて言うわけじゃあない。
それでも、あえてパルチザンという言葉を持ち出したのは、そのくらいの「思い切りの良さ」がなくては反撃できないのではないか と思ったからだ。

えっ と思うだろうか?
しかし、2009年以来の小沢氏とその政治グループに対する仕打ちを思い出してみれば、これが合法的な権利を認められた存在だと言えるだろうか。
主に検察とマスメディアによって、実質的な非合法組織にされてしまっている とちゃんと自覚した方がいい。現実から目をそらしても、何も生まれないのだから。
客観的な基準、世界基準に照らしてみれば、生活の党は「黙認されている非合法団体」という扱いだ。
生活の党が法律を犯しているのではなく、取り締まる側が法を無視しているのは言うまでもないが、党の活動の困難さは、非合法組織並みなのである。
そして、非合法化された党には、それなりの闘い方があるはずだ。
自民党以来の、我王道を行く では通用しない。通用しないことが、残念ながら非情な結果として証明されてしまった。
強い確信を持った少数が闘うためには、ゲリラ戦しかない。
100億の献金を集めて、300人の候補を立て、一気に過半数を狙う、という戦法が今すぐできないことは、生活の党を支持しているほとんどの人がイヤというほどわかっている。
300人どころか、参議院選挙で現職以外の候補を擁立できるかどうかさえ分からない状況なのだから。
2009年の政権交代からの急転落だけを見ると、なにか絶望的な気分になってしまう。
しかも、原発と放射能という、一刻の猶予もない大問題があるだけに、本当にキリキリと胃が締め付けられる。
そんな、どうにもこうにも手詰まりになったとき、私が必ず読む本がある。
ロマンロランの「ベートーベンの生涯」と、羽仁五郎の「自伝的戦後史」だ。
ロマンロランのほうは内面的に行き詰まったとき、羽仁五郎はまさに今のようなとき。
(右サイドにリンクあり)

「戦後史の正体」のような政治史の裏面という意味ではなく、一人一人の人民が深く「考える」ということを提起してくれている。
その羽仁五郎のことばに、「真理は少数にあり」ということがある。
数が多いのが正しい という橋下徹のような浅はかな理屈ではない。
真理はかならず少数から始まり、やがて多数になるという性質のものだ という。
そして、少数のパルチザンが、表現はできないけれども「考えている」人民とつながっていくことで、力を付けていく。その闘いこそが、ゲリラなのであり、別に武器を振り回すだけがゲリラ戦ではない。
まずは、声なき声と共に生きること。
この際、落選したことを奇貨として、非正規労働者として働きながら、先の見えない暮らしを実感してみること。
あるいは、何ヶ月か東北で暮らしてみる。何かをするのではなく、声なき声、表現手段を持たない人びとの声を聞くこと。
政治家としての視察ではなく、生活者として共にあることで、見えてくるものがあるはずだ。
その先に、パルチザンの同志は集まり、党としてのあり方が見えてくるだろう。
と同時に、存在を知らしめる活動もしなくてはならない。これも、マスメディアやお金を使った広告などの王道戦略は、考えるだけムダだ。
ネットもできるだけ活用するべきだが、現状では携帯メール以外の実用レベルのネット普及率は、それほど高くない。リアルの宣伝活動を、どうやって効果的におこなうか。

小沢さん一人がしゃべるのではなくて、国民の生活が第一の結党大会のように、福島の人や市井の人々のリレートークを交えながら、小沢さんが話しをする。もちろん、大きな駅前で。
ぜひとも元双葉町長の井戸川さんを口説き落として、一緒に演説をしてもらいたい。井戸川さんほど心にひびく政治家はいない。小沢さんとのダブルキャストをぜひとも。
それを聞きに行く運動、その動画を広める運動、そのミニ版を様々な街頭でやる運動へと連動させていく。
それともうひとつは、市民運動との連携だ。
連携と言っても、そう簡単にはいかない。市民側には「元自民党」という意識があり、必ずしもウエルカムではない。政治家は、最初は教えを請うつもりで、どんどんアプローチしていけばいい。
市民運動の中にも、かなり偏狭な人もいれば、のりしろのある人もいる。
市民運動のネットワークは、じつはかなりの地下水脈だ。しかし、それが政治には結びつかない。
それを嘆いていてもしかたがない。まずは、政治の側がパルチザンとして中に入っていくことからしか、始まらない。
政治家が「政治家」という鎧をぬぎ、人民と共にあるパルチザンとして生き始めること。そう発想すると、色々な道が見えてくるような気がする。
どうしても、パルチザンという言葉に抵抗があるならば、小沢氏のいう「川上戦術」と言い換えてもいい。選挙の川上戦術を、もっと日常生活全般に広げたのが、私のいうパルチザンだ。
そして、それが People's Life Party という名前を持つ党の、本当のあり方だと思うのだ。
■■
ゲリラ戦かどうかはわからないけれども、人民の命のために、2月17日は これ
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