2013-04-22(Mon)
梁山泊と民主主義
水滸伝である。
酔虎伝ではない。念のため。
12世紀の中国、宋の時代。梁山泊に集った108の魔星の生まれ変わりが、義賊として活躍する、あの物語。私は小学校のころに、ハマりにハマって夢中になった。
横山光輝の漫画「水滸伝」から入り、吉川英治の「新水滸伝」を読み、親父が持っていた翻訳物の水滸伝まで手を出した。小学生だったので、翻訳物は難しかったけれども、とにかく水滸伝の世界にすっぽりとはまり込んだ。
その後数十年の間に、多くの作家が水滸伝に挑み、今では水滸伝は北方謙三が書いた小説だと思っている人さえいるのではないだろうか。 先日、たまたま本屋で杉本苑子の「悲華水滸伝」を見つけたので、読んでみることにした。 全5巻と長いので、まだ半分ほどだが、昔の記憶が蘇りなんとも懐かしい感じがする。
と同時に、子どものころとは違う印象も浮かんできた。
■■
そうそう、本論に入る前に、前回の記事を宣伝しておこう。 かなり、気力と時間を使って書いたので、まだ読んでいない方は、ぜひお目通し願いしたい。
「僕たちは何と闘っているのか」
ということで、水滸伝の話。
魔星の生まれ変わりは、治世においては魔となるが、乱世においては正義となる、という易姓革命の思想に裏打ちされつつ、なぜか物語は革命にはむかわない。
それどころか、最後は皇帝に上手いこと使われて、ボロボロになって壊滅していく。
まず感じるのは、梁山泊の英雄のほとんどが、特権階級だということ。とくに、天罡星(てんこうせい)の36人は、だいたい元有力者。要は奇特な旦那衆の物語でもあるのだ。
もちろん、全くの庶民出身もいるけれども、その身分差は梁山泊の中でもナニゲに存続している。 そして、まったく無名の庶民は、無名の軍卒として何千人も登場し、無名のまま死んでいく。
もうひとつ、梁山泊の英雄には、元軍人や官僚で、佞臣に陥れられてやむなく梁山泊に逃げ込んだというパターンが多い。 主だったストーリーは全部そうだと言ってもいい。
そこで最大の悪役として登場するのは、蔡京や童貫や高俅(こうきゅう)などの私利私欲に走る佞臣どもであり、コイツらさえ追い払えば天下太平は実現できるかのようである。
「悪」の原動力はまさに私利私欲であり、まさに悪者の典型として官僚たちが描かれるが、宋は世襲の貴族を廃し、科挙による実力主義の官僚制度を敷いた国でもあった。
良くも悪しくもギラギラした成り上がりの官僚が世の中を仕切っていたのである。これは、大きな意味では歴史の進歩とも言える。
産業や貿易は大いに発展したが、文治主義を取り周辺国との平和をカネで買う政策をとっていたために、やがて経済的に疲弊したと言われている。
そんな中での武断主義そのものの梁山泊は、市場経済と官僚支配に対する、農業経済と地主支配の巻き返しのシンボルであり、古き良き時代のノスタルジーだったのではないかとも思える。
私利私欲の佞臣を絶対悪とする価値観の中には、歴史の認識は存在しない。
何で奴らがそのような行為に走るのか、何でそういう連中ばかりが溢れるのか という観点はない。
■■
水滸伝に限らず、昔の物語の中の悪者は、民衆の怨嗟の的になっている。だから梁山泊のような武装集団が襲いかかって凄惨な血祭りにあげても、歓呼の声でむかえられる。
しかし、これが通用するのは「民主主義」誕生以前までだ。
皇帝や将軍が、絶対的な権力を持っていた時代は、政治の要諦は「力」だった。なかんずくそれは武力だった。
武力で押さえつけられた民は、面従腹背、おとなしく従いながらも憎悪を募らせていく。
あるいは、実際はかなりの搾取をされていても、ほどほどで勘弁してもらえると、徳政だ賢帝だとありがたがる。
どっちにしても分かりやすかった。アメとムチのバランスで政治は決まっていた。
ところが、「民主主義」という統治形態が生まれてから、政治の決定システムは複雑になった。
選挙で決まるという仕組みは、武力による統治から情報による支配に変わっていた。
情報は、保持と伝達がある。
保持に関しては、学閥ー官僚という体制を強化することで、在野の人間がどう頑張ってもほとんど情報を手にすることができないようにした。
伝達は、マスメディアというものを作りだし、大衆への情報を完全にコントロールした。
これは、日本だけではなく、民主主義という形態をとった国に共通の「常識」である。
独裁国家では、万が一情報が漏れても軍事で潰せるが、民主主義国家では、まず情報を統制し、例外事例だけを警察・検察が潰しにかかる。
「民主主義」と「情報統制」は、完全にコインの裏表、ほぼ同義の言葉と思っていい。
だから、水滸伝の世界では、悪政に対しては民衆は恨みに恨んでいるけれども、現代においては悪政は非常に人気がある。
およそ、支持率が高いほど悪辣な政治だと思って ほぼ間違いない。
支持率が下がってくるのは、悪政を行う勢いが衰えてきたという証拠だ。
民主主義には民主主義の統治の手法があるのである。
水滸伝の佞臣どもや、江戸時代の悪代官をイメージしていては、現在の悪人は識別できない。
■■
水滸伝を読み直してみて、このステレオタイプな「佞臣ども」が、今でも悪い奴らの典型になっていることに気がついた。
これこそが、まさに情報統制の結果なのだろう。
そして、疑獄事件は、まさにこのイメージになぞらえて作り出され、都合の悪い政治家や官僚は、これによって社会的に葬り去られてきた。
武力で殺さなくても、この悪人イメージをべったりと塗りつけてしまえば、情報で殺すことが可能なのである。
近年においては、言うまでもなく小沢一郎がこの手法で徹底的に抹殺攻撃を受けた。
普通の精神力ではとうてい耐えられないような攻撃を、小沢一郎は驚異的な忍耐力で耐え抜き、今日なお活躍しているが、しかし受けた傷の深さは、小沢個人のみならず政治勢力を意気消沈させている。
だが、ここでもまた水滸伝から思い当たることがある。
日本人の政治家へ思いは、「奇特な旦那の活躍」への期待なのである。
小沢氏を嫌う人々が、情報統制にまんまと乗せられているのは自明だが、小沢氏に期待するむきも、その多くが「民主主義」の統治手法に手玉に取られている。
小沢氏に期待するのはいい。だが、期待する以上はそれに見合った「自分の行動」が問われるはずなのだが、それがほとんどない。
小沢の旦那に「ひとつお願いしますよ」と託すばかりなのである。
ところが、小沢一郎という人は、原理主義的な民主主義者であり、日本人が「自分の判断」「自分の行動」を始めるのを、ず~~と待ち続けている。代行主義で、何でもかんでもやってしまうということをしない。
支持者と小沢氏の間のその乖離が、この間ずっと続いている足踏みの原因とも言える。
情報統制は民主主義のもっとも基本的な統治手法である以上、ただただ自覚を待っていても「自分の判断」も「自分の行動」もj始まらない。小沢氏には、そのことに思いを致してもらいたい。
他方、支持者を自認する人々は、投票に行くだけでは全然足りないということを自覚したい。今や「小沢さん頼むよ」とお気楽に言っている状態ではないことは、誰の目にも明らかだ。
武力がすべての時代は、兵力を蓄えているものが率先するのは当然でありやむを得なかった。
しかし、今は一人一票の時代だ。旦那衆に頼るのではなく、一人一人が洗脳に等しい情報統制から抜け出して、闘い始めることが絶対に必要だ。
必要なことは、20%の強い意志だ。
過半数のゆるやかな同意ではなく、1%の決死の覚悟でもなく、20%の自覚した意志。
3年の間にそれを醸成することができれば、情報統制をかいくぐり、新たな段階へと進むことができる。
自民党は決して盤石ではない。民主党・野田の自爆テロに等しい行為によって、棚ぼたで拾った政権に過ぎない。
何より、ご主人様たる米国・オバマに嫌われ、安倍晋三の焦りはピークに達している。
闘うべき当面の敵は、情報統制である。
マスメディアに期待するのは、敵に塩をねだるようなもの。
情報統制体制を、口コミが凌駕するしかない。
ネットから、自分の殻から外に飛び出そう。
新党浸透作戦Ⅱ(国民の生活が第一の政治を実現する会 ブログ)
徹底討論「いま、政治とは何か」生活の党若手論客 VS 堀茂樹教授(5/12)
宋江も呉用も林沖もいないけれど、名もない我々が何事かをなせる時代。
民主主義とは、そういう時代でもあるのだ。


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酔虎伝ではない。念のため。
12世紀の中国、宋の時代。梁山泊に集った108の魔星の生まれ変わりが、義賊として活躍する、あの物語。私は小学校のころに、ハマりにハマって夢中になった。

その後数十年の間に、多くの作家が水滸伝に挑み、今では水滸伝は北方謙三が書いた小説だと思っている人さえいるのではないだろうか。 先日、たまたま本屋で杉本苑子の「悲華水滸伝」を見つけたので、読んでみることにした。 全5巻と長いので、まだ半分ほどだが、昔の記憶が蘇りなんとも懐かしい感じがする。
と同時に、子どものころとは違う印象も浮かんできた。
■■
そうそう、本論に入る前に、前回の記事を宣伝しておこう。 かなり、気力と時間を使って書いたので、まだ読んでいない方は、ぜひお目通し願いしたい。
「僕たちは何と闘っているのか」
ということで、水滸伝の話。
魔星の生まれ変わりは、治世においては魔となるが、乱世においては正義となる、という易姓革命の思想に裏打ちされつつ、なぜか物語は革命にはむかわない。
それどころか、最後は皇帝に上手いこと使われて、ボロボロになって壊滅していく。
まず感じるのは、梁山泊の英雄のほとんどが、特権階級だということ。とくに、天罡星(てんこうせい)の36人は、だいたい元有力者。要は奇特な旦那衆の物語でもあるのだ。
もちろん、全くの庶民出身もいるけれども、その身分差は梁山泊の中でもナニゲに存続している。 そして、まったく無名の庶民は、無名の軍卒として何千人も登場し、無名のまま死んでいく。
もうひとつ、梁山泊の英雄には、元軍人や官僚で、佞臣に陥れられてやむなく梁山泊に逃げ込んだというパターンが多い。 主だったストーリーは全部そうだと言ってもいい。
そこで最大の悪役として登場するのは、蔡京や童貫や高俅(こうきゅう)などの私利私欲に走る佞臣どもであり、コイツらさえ追い払えば天下太平は実現できるかのようである。
「悪」の原動力はまさに私利私欲であり、まさに悪者の典型として官僚たちが描かれるが、宋は世襲の貴族を廃し、科挙による実力主義の官僚制度を敷いた国でもあった。

産業や貿易は大いに発展したが、文治主義を取り周辺国との平和をカネで買う政策をとっていたために、やがて経済的に疲弊したと言われている。
そんな中での武断主義そのものの梁山泊は、市場経済と官僚支配に対する、農業経済と地主支配の巻き返しのシンボルであり、古き良き時代のノスタルジーだったのではないかとも思える。
私利私欲の佞臣を絶対悪とする価値観の中には、歴史の認識は存在しない。
何で奴らがそのような行為に走るのか、何でそういう連中ばかりが溢れるのか という観点はない。
■■
水滸伝に限らず、昔の物語の中の悪者は、民衆の怨嗟の的になっている。だから梁山泊のような武装集団が襲いかかって凄惨な血祭りにあげても、歓呼の声でむかえられる。
しかし、これが通用するのは「民主主義」誕生以前までだ。
皇帝や将軍が、絶対的な権力を持っていた時代は、政治の要諦は「力」だった。なかんずくそれは武力だった。
武力で押さえつけられた民は、面従腹背、おとなしく従いながらも憎悪を募らせていく。
あるいは、実際はかなりの搾取をされていても、ほどほどで勘弁してもらえると、徳政だ賢帝だとありがたがる。
どっちにしても分かりやすかった。アメとムチのバランスで政治は決まっていた。
ところが、「民主主義」という統治形態が生まれてから、政治の決定システムは複雑になった。
選挙で決まるという仕組みは、武力による統治から情報による支配に変わっていた。
情報は、保持と伝達がある。
保持に関しては、学閥ー官僚という体制を強化することで、在野の人間がどう頑張ってもほとんど情報を手にすることができないようにした。

これは、日本だけではなく、民主主義という形態をとった国に共通の「常識」である。
独裁国家では、万が一情報が漏れても軍事で潰せるが、民主主義国家では、まず情報を統制し、例外事例だけを警察・検察が潰しにかかる。
「民主主義」と「情報統制」は、完全にコインの裏表、ほぼ同義の言葉と思っていい。
だから、水滸伝の世界では、悪政に対しては民衆は恨みに恨んでいるけれども、現代においては悪政は非常に人気がある。
およそ、支持率が高いほど悪辣な政治だと思って ほぼ間違いない。
支持率が下がってくるのは、悪政を行う勢いが衰えてきたという証拠だ。
民主主義には民主主義の統治の手法があるのである。
水滸伝の佞臣どもや、江戸時代の悪代官をイメージしていては、現在の悪人は識別できない。
■■
水滸伝を読み直してみて、このステレオタイプな「佞臣ども」が、今でも悪い奴らの典型になっていることに気がついた。
これこそが、まさに情報統制の結果なのだろう。
そして、疑獄事件は、まさにこのイメージになぞらえて作り出され、都合の悪い政治家や官僚は、これによって社会的に葬り去られてきた。
武力で殺さなくても、この悪人イメージをべったりと塗りつけてしまえば、情報で殺すことが可能なのである。

普通の精神力ではとうてい耐えられないような攻撃を、小沢一郎は驚異的な忍耐力で耐え抜き、今日なお活躍しているが、しかし受けた傷の深さは、小沢個人のみならず政治勢力を意気消沈させている。
だが、ここでもまた水滸伝から思い当たることがある。
日本人の政治家へ思いは、「奇特な旦那の活躍」への期待なのである。
小沢氏を嫌う人々が、情報統制にまんまと乗せられているのは自明だが、小沢氏に期待するむきも、その多くが「民主主義」の統治手法に手玉に取られている。
小沢氏に期待するのはいい。だが、期待する以上はそれに見合った「自分の行動」が問われるはずなのだが、それがほとんどない。
小沢の旦那に「ひとつお願いしますよ」と託すばかりなのである。
ところが、小沢一郎という人は、原理主義的な民主主義者であり、日本人が「自分の判断」「自分の行動」を始めるのを、ず~~と待ち続けている。代行主義で、何でもかんでもやってしまうということをしない。
支持者と小沢氏の間のその乖離が、この間ずっと続いている足踏みの原因とも言える。
情報統制は民主主義のもっとも基本的な統治手法である以上、ただただ自覚を待っていても「自分の判断」も「自分の行動」もj始まらない。小沢氏には、そのことに思いを致してもらいたい。
他方、支持者を自認する人々は、投票に行くだけでは全然足りないということを自覚したい。今や「小沢さん頼むよ」とお気楽に言っている状態ではないことは、誰の目にも明らかだ。
武力がすべての時代は、兵力を蓄えているものが率先するのは当然でありやむを得なかった。
しかし、今は一人一票の時代だ。旦那衆に頼るのではなく、一人一人が洗脳に等しい情報統制から抜け出して、闘い始めることが絶対に必要だ。
必要なことは、20%の強い意志だ。
過半数のゆるやかな同意ではなく、1%の決死の覚悟でもなく、20%の自覚した意志。
3年の間にそれを醸成することができれば、情報統制をかいくぐり、新たな段階へと進むことができる。
自民党は決して盤石ではない。民主党・野田の自爆テロに等しい行為によって、棚ぼたで拾った政権に過ぎない。
何より、ご主人様たる米国・オバマに嫌われ、安倍晋三の焦りはピークに達している。
闘うべき当面の敵は、情報統制である。
マスメディアに期待するのは、敵に塩をねだるようなもの。
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