2016-04-04(Mon)
想い遣る頭脳と柔らかい心
「あさが来た」が終わった。
前半は幕末から明治にかけてを町場の目から描いていてなかなか面白かった。
幕末志士ものや、明治偉人ものは多数あるけれど、明治初期のカオスを町の目から描いたものはあまり多くない。
山田風太郎の明治ものとか、松井今朝子の銀座開化おもかげ草紙シリーズとか、それらしいのを探して読んでみた。エンターテイメントとしてはすごく面白いが、やはり幕末ものにくらべるとわずかしかないし、これはこれで一人の庶民の目になりすぎていて、歴史の流れがよくわからない。
その意味では、このドラマは個人の目と歴史の流れが両方それなりにわかる数少ない明治ものだったと思う。
しかし後半は、めっきり偉人礼賛と説教ばかりが鼻について、面白くなくなってしまった。ああ、やはり三井財閥の娘の物語だよな、という感じで。
しかも、原作の「土佐堀川」の吊り広告をよく見ると、潮出版と描いてある。あれまと思ったら、作者の古川智映子は創価学会の文芸部員だという・・・。
『あさが来た』原案作者を「池田大作」創価学会名誉会長が褒めちぎっていた(デイリー新潮)
てなことで、すっかり熱が冷めて後半は惰性で見ていた。最終回もあさの説教で終わるという設定で、平和の「へ」の字も捨て去ってしまった学会にもう一度平和の仮面をかぶせるつもりかね と冷ややかな目で見ていた。
が、あさの説教のなかでひとつだけ耳に残った台詞があった。それが表題に使った
「想い遣る頭脳と、柔らかい心」という言葉だ。
なぜ耳に引っかかったかというと、普通の道徳講話ならば「想い遣る心と、柔らかい頭」と言うだろうと思ったからだ。
想い遣りという感情的な行為に頭脳を使うという表現には、聞いた瞬間違和感を感じる。
では、理論的に想い遣るとはどういうことか。それはたぶん、想い遣る範囲を恣意的に限定しないということではないか。
心は強く人を動かすけれども、届く範囲は限られる。届く範囲が限定されたり選別されたりした温情は、むしろファナティックな排外主義につながることもある。
ヒトラーはドイツに住むゲルマン民族の健常者にとっては、なかなか善政を行ったのであり、その範囲だけにドイツ人の心が限定され、その裏返しで激しいレイシズムに走るように巧妙に操作していた。
論理的に普遍性を設定した上に、想い遣りというものが乗ることで始めてそれは平和につながることができる。
また、柔らかい図脳ではなく、柔らかい心であることにも意味があると思う。
図脳、すなわち論理はやたらと柔らかくしてはいけない。無節操や嘘つきはいけない、ということだ。
山本太郎さんが「自民党は毎日がエイプリルフール」とNHKでぶちかましたそうだが、朝令暮改や公約破りのような柔らかさはもっての外である。
きちんと筋を通した上で、それを現実に当てはめる時にこそ柔らかい心使いが必要であり、意味がある。
そんなわけで、この台詞が原作にあるのか、脚本家が考えたのかは知らないけれど、最後の台詞だけは、なかなか考えているな、と思った次第。
前半は幕末から明治にかけてを町場の目から描いていてなかなか面白かった。
幕末志士ものや、明治偉人ものは多数あるけれど、明治初期のカオスを町の目から描いたものはあまり多くない。
山田風太郎の明治ものとか、松井今朝子の銀座開化おもかげ草紙シリーズとか、それらしいのを探して読んでみた。エンターテイメントとしてはすごく面白いが、やはり幕末ものにくらべるとわずかしかないし、これはこれで一人の庶民の目になりすぎていて、歴史の流れがよくわからない。
その意味では、このドラマは個人の目と歴史の流れが両方それなりにわかる数少ない明治ものだったと思う。
しかし後半は、めっきり偉人礼賛と説教ばかりが鼻について、面白くなくなってしまった。ああ、やはり三井財閥の娘の物語だよな、という感じで。
しかも、原作の「土佐堀川」の吊り広告をよく見ると、潮出版と描いてある。あれまと思ったら、作者の古川智映子は創価学会の文芸部員だという・・・。
『あさが来た』原案作者を「池田大作」創価学会名誉会長が褒めちぎっていた(デイリー新潮)
てなことで、すっかり熱が冷めて後半は惰性で見ていた。最終回もあさの説教で終わるという設定で、平和の「へ」の字も捨て去ってしまった学会にもう一度平和の仮面をかぶせるつもりかね と冷ややかな目で見ていた。
が、あさの説教のなかでひとつだけ耳に残った台詞があった。それが表題に使った
「想い遣る頭脳と、柔らかい心」という言葉だ。
なぜ耳に引っかかったかというと、普通の道徳講話ならば「想い遣る心と、柔らかい頭」と言うだろうと思ったからだ。
想い遣りという感情的な行為に頭脳を使うという表現には、聞いた瞬間違和感を感じる。
では、理論的に想い遣るとはどういうことか。それはたぶん、想い遣る範囲を恣意的に限定しないということではないか。
心は強く人を動かすけれども、届く範囲は限られる。届く範囲が限定されたり選別されたりした温情は、むしろファナティックな排外主義につながることもある。
ヒトラーはドイツに住むゲルマン民族の健常者にとっては、なかなか善政を行ったのであり、その範囲だけにドイツ人の心が限定され、その裏返しで激しいレイシズムに走るように巧妙に操作していた。
論理的に普遍性を設定した上に、想い遣りというものが乗ることで始めてそれは平和につながることができる。
また、柔らかい図脳ではなく、柔らかい心であることにも意味があると思う。
図脳、すなわち論理はやたらと柔らかくしてはいけない。無節操や嘘つきはいけない、ということだ。
山本太郎さんが「自民党は毎日がエイプリルフール」とNHKでぶちかましたそうだが、朝令暮改や公約破りのような柔らかさはもっての外である。
きちんと筋を通した上で、それを現実に当てはめる時にこそ柔らかい心使いが必要であり、意味がある。
そんなわけで、この台詞が原作にあるのか、脚本家が考えたのかは知らないけれど、最後の台詞だけは、なかなか考えているな、と思った次第。
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