2016-08-12(Fri)
「敵」ってなんだ? ~三宅洋平氏と安倍昭恵氏の件をめぐって~
なんだよ、まだ引きずってるのか? と言う人もいるだろうけれど、これはとっても大事なこと、本質的なことだと思うので、いくらでも引きずってやろうと思っている。
三宅洋平氏が参院選後に安倍昭恵氏とメシを食い、何回か話し合った挙げ句、沖縄県高江の座り込み現場に昭恵氏をアテンドした。
これは、日本の中ではメザシの目ほどにもならない小さな出来事かもしれない。 しかし、この問題をめぐっておきた小さな嵐は、とても大きな問題をはらんでいる。
三宅洋平氏が提起した問題は、ひとことでいうと 「敵vs味方」という対立軸の否定 だ。 それは私の想像ではなく、直接言葉にしてもいる。
だから三宅氏に対して、「敵を引き込むとは何事か!」とか「安倍昭恵は島尻を涙ながらに応援してたぞ!」とかいくら批判しても、そもそも「敵」という概念がないのだから、まったくかみ合わない。
逆に、「敵vs味方」じゃダメと思っている人からは、「まだそんなこと言ってるのかよ」「古くさいな」というこれまたかみ合わない応答が返ってくる。
それが、かの事件をめぐって起きている現状だといえる。 そして、感情的な対立が静かに深まりながら、本質的な議論はなされていない。
■■
いいか悪いかは別にして、今議論すべきは 「敵vs味方」はナンセンスなのか? それを乗り越えるものはあるのか? ということではないか。
私個人は、「敵」はいるし、峻別すべきだし、敵は優秀だし、よって常に疑ってかかるべし と思っている。
ただし、「敵」は常に固定されてものではない。 自分たちの命や誇りを守る ということに対して、危害を加えるものが「敵」なのであり、それは時と場合によって変化する。
わかりやすい最近の例で言えば、
大阪都構想においての自民党大阪府連。
参院選の野党共闘における民進党。
脱原発の小泉純一郎。
TPPに反対するトランプ。
などなど、そのシーンでは敵じゃない、ということはよくある。 政治における「敵」というのは、時代劇に出てくる「父の仇」とは違うのである。
安倍晋三にしても、今のところ「敵」でないシーンを想像することはできないけれども、これから先何が起きるかはわからないとは言える。
しかしだからこそ、「いま敵は誰か」を判別し、焦点を絞り、峻別することは非常に大事だ。 最も鋭い対立軸を設定し、そこで問題を問題として皆の目に見えるようにしなければ、辺野古にしろ高江にしろ他の全ての問題にしても、気が付かないうちに圧倒的な権力を握っているものの好きなように進められてしまう。
圧倒的なチカラの差があるという現実を見ずに、「対立ではなく話し合い」と弱い側が言ってしまえば、強い側にとってこんなにオイシイ話はない。 まさに、思う壺というやつである。
対立が先鋭化しているからこそ、話し合いという可能性もうまれることはある。 典型的なのが、ガンジーだろう。
インド全土に暴動が吹き荒れるなかで、非暴力不服従で人望を集めるガンジーは、イギリスから見ても「落とし所」だった。 イギリスから見たインドは、国内の暴動、日本のファシズム、中国の共産主義、という危機が迫っていた。その中で、ギリギリの妥協としてのガンジーだったのだ。 単純に非暴力は強い という話ではない。
もちろん、そうした情勢を的確に判断し、自らその戦略を実行したガンジーは不屈の天才政治家だとおもう。 ただ、非暴力を半ば宗教的に信奉し、ガンジーを聖人に祭り上げてしまうのは、裏があるなと感じてしまうのである。
■■
と、私は「敵vs味方」OK論者なのであるが、では三宅氏の提起した「敵vs味方」ではない とナンセンスと思っているかというとそうではない。 なぜならば、圧倒的多数の日本人が「敵vs味方」という感覚を持っていないからだ。
「問題」を感じている人は結構多いけれども、彼ら彼女らは「敵」がいるという感覚はたぶん持っていない。 それどころか、「敵vs味方」という構図を見せられた瞬間、「自分の世界じゃない」と感じているのではないだろうか。
このことは 日頃「敵vs味方」の現場で汗を流している人たちは、よくよく直視しなければならない。
私は、現場で頑張っている人に対しては、それがオールド左翼スタイルであろうが、ニューウェーブであろうが、敬意をもっている。
高江の現場から伝わってくる話を見聞きすると、まさにオールドとニューが融合した味のある運動が展開されているようだ。 運動のための運動ではなく、真剣に対峙する人たちが集まれば、こうしたことが起きるようだ。
その現場の人たちの気持ちを無視してやらかした、という意味では三宅氏のやったことの無神経さは弁護のしようが無いと私も思うけれども、ただ、高江の問題を現場から日本中に広げていくためにどうしたらいいのか、という観点で考えた時、先ほど述べた「ほとんどの日本人は、敵vs味方という構図を避ける」という現実は重い。
私個人は、だからと言って安倍昭恵に話をしても意味は無い、と思っているけれども、その個人の考えとは別に、「そういうことも含めて、数千万人に声を届けるにはどうしたらいいんだ」 ということを考えてみたい、とも切実に思う。
よって、私からの提案は以下の通り
・三宅洋平氏は 高江の現場の人たち対しては 気持ちを無視したことを謝罪するべき
・三宅洋平氏の提起した問題について、正面から議論すべき
「どうやって言葉を届けるのか」 そこから逃避してはいけない。

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三宅洋平氏が参院選後に安倍昭恵氏とメシを食い、何回か話し合った挙げ句、沖縄県高江の座り込み現場に昭恵氏をアテンドした。
これは、日本の中ではメザシの目ほどにもならない小さな出来事かもしれない。 しかし、この問題をめぐっておきた小さな嵐は、とても大きな問題をはらんでいる。
三宅洋平氏が提起した問題は、ひとことでいうと 「敵vs味方」という対立軸の否定 だ。 それは私の想像ではなく、直接言葉にしてもいる。
だから三宅氏に対して、「敵を引き込むとは何事か!」とか「安倍昭恵は島尻を涙ながらに応援してたぞ!」とかいくら批判しても、そもそも「敵」という概念がないのだから、まったくかみ合わない。
逆に、「敵vs味方」じゃダメと思っている人からは、「まだそんなこと言ってるのかよ」「古くさいな」というこれまたかみ合わない応答が返ってくる。
それが、かの事件をめぐって起きている現状だといえる。 そして、感情的な対立が静かに深まりながら、本質的な議論はなされていない。
■■
いいか悪いかは別にして、今議論すべきは 「敵vs味方」はナンセンスなのか? それを乗り越えるものはあるのか? ということではないか。
私個人は、「敵」はいるし、峻別すべきだし、敵は優秀だし、よって常に疑ってかかるべし と思っている。
ただし、「敵」は常に固定されてものではない。 自分たちの命や誇りを守る ということに対して、危害を加えるものが「敵」なのであり、それは時と場合によって変化する。
わかりやすい最近の例で言えば、
大阪都構想においての自民党大阪府連。
参院選の野党共闘における民進党。
脱原発の小泉純一郎。
TPPに反対するトランプ。
などなど、そのシーンでは敵じゃない、ということはよくある。 政治における「敵」というのは、時代劇に出てくる「父の仇」とは違うのである。
安倍晋三にしても、今のところ「敵」でないシーンを想像することはできないけれども、これから先何が起きるかはわからないとは言える。
しかしだからこそ、「いま敵は誰か」を判別し、焦点を絞り、峻別することは非常に大事だ。 最も鋭い対立軸を設定し、そこで問題を問題として皆の目に見えるようにしなければ、辺野古にしろ高江にしろ他の全ての問題にしても、気が付かないうちに圧倒的な権力を握っているものの好きなように進められてしまう。
圧倒的なチカラの差があるという現実を見ずに、「対立ではなく話し合い」と弱い側が言ってしまえば、強い側にとってこんなにオイシイ話はない。 まさに、思う壺というやつである。
対立が先鋭化しているからこそ、話し合いという可能性もうまれることはある。 典型的なのが、ガンジーだろう。
インド全土に暴動が吹き荒れるなかで、非暴力不服従で人望を集めるガンジーは、イギリスから見ても「落とし所」だった。 イギリスから見たインドは、国内の暴動、日本のファシズム、中国の共産主義、という危機が迫っていた。その中で、ギリギリの妥協としてのガンジーだったのだ。 単純に非暴力は強い という話ではない。
もちろん、そうした情勢を的確に判断し、自らその戦略を実行したガンジーは不屈の天才政治家だとおもう。 ただ、非暴力を半ば宗教的に信奉し、ガンジーを聖人に祭り上げてしまうのは、裏があるなと感じてしまうのである。
■■
と、私は「敵vs味方」OK論者なのであるが、では三宅氏の提起した「敵vs味方」ではない とナンセンスと思っているかというとそうではない。 なぜならば、圧倒的多数の日本人が「敵vs味方」という感覚を持っていないからだ。
「問題」を感じている人は結構多いけれども、彼ら彼女らは「敵」がいるという感覚はたぶん持っていない。 それどころか、「敵vs味方」という構図を見せられた瞬間、「自分の世界じゃない」と感じているのではないだろうか。
このことは 日頃「敵vs味方」の現場で汗を流している人たちは、よくよく直視しなければならない。
私は、現場で頑張っている人に対しては、それがオールド左翼スタイルであろうが、ニューウェーブであろうが、敬意をもっている。
高江の現場から伝わってくる話を見聞きすると、まさにオールドとニューが融合した味のある運動が展開されているようだ。 運動のための運動ではなく、真剣に対峙する人たちが集まれば、こうしたことが起きるようだ。
その現場の人たちの気持ちを無視してやらかした、という意味では三宅氏のやったことの無神経さは弁護のしようが無いと私も思うけれども、ただ、高江の問題を現場から日本中に広げていくためにどうしたらいいのか、という観点で考えた時、先ほど述べた「ほとんどの日本人は、敵vs味方という構図を避ける」という現実は重い。
私個人は、だからと言って安倍昭恵に話をしても意味は無い、と思っているけれども、その個人の考えとは別に、「そういうことも含めて、数千万人に声を届けるにはどうしたらいいんだ」 ということを考えてみたい、とも切実に思う。
よって、私からの提案は以下の通り
・三宅洋平氏は 高江の現場の人たち対しては 気持ちを無視したことを謝罪するべき
・三宅洋平氏の提起した問題について、正面から議論すべき
「どうやって言葉を届けるのか」 そこから逃避してはいけない。


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