2016-09-20(Tue)
民進に寄りかからない野党共闘という選択肢
野田民進党という悪夢を目の前にして、これまで我慢に我慢を重ねてきた人たちも、いよいよ「野党共闘から自由になろう」てなことを言い始めている。
気持ちはすっごくよくわかる。
私は民進党の極悪分子よりも、口だけ良い子という連中のほうが嫌いだ。戦争法や改憲に反対して立派な演説をしておきながら、イザとなったら党議拘束で「一票」に成り下がる連中だ。彼らの、「良い話」を聞くと、心が冷え冷えとしてくる。
かように、2010年以来、恨みは私の骨髄に達する民主党・民進党ではあるが、それでもしかし、目の前の選挙を考えたとき、野党共闘は捨て去って良いものではないということも、理解している。
そう簡単に「野党共闘から自由になろう」なんて甘いことを言って悦に入るのなら、最初から政治になど首をつっこまない。もし年末に解散総選挙ということになったら、私は迷わず野党共闘をベターな選択だと考える。野党共闘で勝てるとは思わないが、やらなければもっと酷い惨敗が待っていることは確実だからだ。
ただし、これまでの野党共闘のありかたには、大きな問題があった。それは、民進党に寄りかかった共闘だったということだ。
共産党側から見ても、生活・社民の側から見ても、民進頼みの共闘であったことはあきらかだ。
共闘に消極的な民進に対して共産党は身を引く形で民進を神輿に乗せた。それは仕方のないことだし、共産党の態度は褒めるべきなのだが、しかし、結果として民進に手綱をゆだねてしまった。
社民や生活は、自らを軸とする戦略をとることをせず、共産と民進の進展に寄りかかることしかできなかった。これも現有議席数をみれば致し方ないようにも見えるが、これは間違いだった、と明言しておきたい。
野党共闘にこそ、「自立と共生」が必要なのだ。
■■
ほとんどの人が、自らの主張は封印し、民進党の腐敗に目をつぶり、野田やレンホウを首班指名するつもりでなくては野党共闘はできない、と誤解している。
それは、大間違いだ。
共闘の原則は相互批判の自由であるはずだ。「違うけどいっしょにやる」のが共闘であり、言いたいことも言えずに窒息しながらやるのは共闘ではなく翼賛である。
共闘するためには、まず自らが立つこと。自分の主張が鮮明になる党を立て、それらの党が「違うけど一緒にやる」という合意に至った時始めて、共闘というものが成立する。
その意味では、これまでの野党共闘は共闘ではなく、民進を神輿に乗せるための翼賛体制だったと言っても過言ではない。
致し方ない必要悪だったことは認めるが、それでも本来の共闘でなかったと言う点は明確にしなければならない。
ではどうすれば良いのか。
二つの発想が必要だと、私は考えている。
一つは足し算だ。
先の参院選で、社民、生活、怒りを合計すると約320万票。この三党の統一名簿は最終的に社民党に拒否されたけれども、もし実現していれば、もう少し期待票は集まったかもしれない。仮に400万とすると、共産党の600万票と充分に対等に話のできる数字になる。
現状では、共産党とは雲泥の差があるゆえに、共闘とは名ばかりで一方的に使われていた小政党たる我々も、まとまれば対等の共闘を協議することができる。是々非々で相互批判はしながらも、共産+三党の1000万になれば、国民から見たパワーも格段に違うし、民進も無視するわけにいかなくなる。野党第一党にのほほんと座っていられると安心していた民進は、協力して地位を維持するのか、敵対して賭に出るのかを迫られる。
地位保全のために協力することになれば、今度は一方的に神輿に乗せる野党翼賛ではなく、対等な野党共闘が成立するし、敵対してくれば第二自民の正体があらわとなり、この選挙での野党の勝利は無いものの、民進を絶滅して政治地図を一気に塗り替え、次回につなぐ結果をだすことが可能だ。
なぜそんなことが言えるのかというと、私は大阪の現状を見ているから。オルタナティブが登場すれば、いい加減な民進党は絶滅するという現実を、目の当たりにしているからだ。
もう一つは、かけ算だ。
いくら足し算で皮算用しても、そこに「勢い」がなければ捕らぬ狸で終わることは私にも分かっている。
「勢い」とはなにか。
それは、何が何でも、なりふり構わず「政権とる」という信念と迫力だ。
それを、誰にもわかるように、伝わるように表現することだ。
小沢さんのように揺らがぬ決意があっても、「お天道さんが見ている」と達観していては、国民の目には見えない。
カッコイイ音楽でもいいし、泥臭いミカン箱の演説でもいい。手段は意思と目的から導かれるのであって、「何が何でも」という集団がまず立つこと。
それは、形式的には社民、生活、怒りの三党連合ということになるのかもしれないが、現状のまま糾合しても、国民の目をひんむくようなインパクトは生まれない。「なんだこいつら」「めちゃめちゃ本気やん」と思わせる要素をぶち込むこと。独りよがりではなく、でも空気なんて読まない、鉄の意志。
それができれば、かけ算と足し算をあわせて、民進に寄りかからない野党共闘は可能だし、さらにその先の展望も見いだすことができるだろう。
世論調査で安倍自民の支持率が高いのは、当然のことだ。
漠然とした不安が大きければ大きいほど、庶民は強いものにすがろうとする。
それが不安を作り出している張本人だとしても、口先だけのフニャフニャ野党よりもマシだ、と考えるはずだ。
必要なのは「こいつらだったらやってくれるかも」と、思わせる本気の集団なのだ。
そのために、どういう戦略と戦術をとるべきなのか。
もう少し考えてみたい。


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気持ちはすっごくよくわかる。
私は民進党の極悪分子よりも、口だけ良い子という連中のほうが嫌いだ。戦争法や改憲に反対して立派な演説をしておきながら、イザとなったら党議拘束で「一票」に成り下がる連中だ。彼らの、「良い話」を聞くと、心が冷え冷えとしてくる。
かように、2010年以来、恨みは私の骨髄に達する民主党・民進党ではあるが、それでもしかし、目の前の選挙を考えたとき、野党共闘は捨て去って良いものではないということも、理解している。
そう簡単に「野党共闘から自由になろう」なんて甘いことを言って悦に入るのなら、最初から政治になど首をつっこまない。もし年末に解散総選挙ということになったら、私は迷わず野党共闘をベターな選択だと考える。野党共闘で勝てるとは思わないが、やらなければもっと酷い惨敗が待っていることは確実だからだ。
ただし、これまでの野党共闘のありかたには、大きな問題があった。それは、民進党に寄りかかった共闘だったということだ。
共産党側から見ても、生活・社民の側から見ても、民進頼みの共闘であったことはあきらかだ。
共闘に消極的な民進に対して共産党は身を引く形で民進を神輿に乗せた。それは仕方のないことだし、共産党の態度は褒めるべきなのだが、しかし、結果として民進に手綱をゆだねてしまった。
社民や生活は、自らを軸とする戦略をとることをせず、共産と民進の進展に寄りかかることしかできなかった。これも現有議席数をみれば致し方ないようにも見えるが、これは間違いだった、と明言しておきたい。
野党共闘にこそ、「自立と共生」が必要なのだ。
■■
ほとんどの人が、自らの主張は封印し、民進党の腐敗に目をつぶり、野田やレンホウを首班指名するつもりでなくては野党共闘はできない、と誤解している。
それは、大間違いだ。
共闘の原則は相互批判の自由であるはずだ。「違うけどいっしょにやる」のが共闘であり、言いたいことも言えずに窒息しながらやるのは共闘ではなく翼賛である。
共闘するためには、まず自らが立つこと。自分の主張が鮮明になる党を立て、それらの党が「違うけど一緒にやる」という合意に至った時始めて、共闘というものが成立する。
その意味では、これまでの野党共闘は共闘ではなく、民進を神輿に乗せるための翼賛体制だったと言っても過言ではない。
致し方ない必要悪だったことは認めるが、それでも本来の共闘でなかったと言う点は明確にしなければならない。
ではどうすれば良いのか。
二つの発想が必要だと、私は考えている。
一つは足し算だ。
先の参院選で、社民、生活、怒りを合計すると約320万票。この三党の統一名簿は最終的に社民党に拒否されたけれども、もし実現していれば、もう少し期待票は集まったかもしれない。仮に400万とすると、共産党の600万票と充分に対等に話のできる数字になる。
現状では、共産党とは雲泥の差があるゆえに、共闘とは名ばかりで一方的に使われていた小政党たる我々も、まとまれば対等の共闘を協議することができる。是々非々で相互批判はしながらも、共産+三党の1000万になれば、国民から見たパワーも格段に違うし、民進も無視するわけにいかなくなる。野党第一党にのほほんと座っていられると安心していた民進は、協力して地位を維持するのか、敵対して賭に出るのかを迫られる。
地位保全のために協力することになれば、今度は一方的に神輿に乗せる野党翼賛ではなく、対等な野党共闘が成立するし、敵対してくれば第二自民の正体があらわとなり、この選挙での野党の勝利は無いものの、民進を絶滅して政治地図を一気に塗り替え、次回につなぐ結果をだすことが可能だ。
なぜそんなことが言えるのかというと、私は大阪の現状を見ているから。オルタナティブが登場すれば、いい加減な民進党は絶滅するという現実を、目の当たりにしているからだ。
もう一つは、かけ算だ。
いくら足し算で皮算用しても、そこに「勢い」がなければ捕らぬ狸で終わることは私にも分かっている。
「勢い」とはなにか。
それは、何が何でも、なりふり構わず「政権とる」という信念と迫力だ。
それを、誰にもわかるように、伝わるように表現することだ。
小沢さんのように揺らがぬ決意があっても、「お天道さんが見ている」と達観していては、国民の目には見えない。
カッコイイ音楽でもいいし、泥臭いミカン箱の演説でもいい。手段は意思と目的から導かれるのであって、「何が何でも」という集団がまず立つこと。
それは、形式的には社民、生活、怒りの三党連合ということになるのかもしれないが、現状のまま糾合しても、国民の目をひんむくようなインパクトは生まれない。「なんだこいつら」「めちゃめちゃ本気やん」と思わせる要素をぶち込むこと。独りよがりではなく、でも空気なんて読まない、鉄の意志。
それができれば、かけ算と足し算をあわせて、民進に寄りかからない野党共闘は可能だし、さらにその先の展望も見いだすことができるだろう。
世論調査で安倍自民の支持率が高いのは、当然のことだ。
漠然とした不安が大きければ大きいほど、庶民は強いものにすがろうとする。
それが不安を作り出している張本人だとしても、口先だけのフニャフニャ野党よりもマシだ、と考えるはずだ。
必要なのは「こいつらだったらやってくれるかも」と、思わせる本気の集団なのだ。
そのために、どういう戦略と戦術をとるべきなのか。
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