2018-08-06(Mon)
8月6日に思う 「過ちを繰り返させない」
毎年8月6日になると思うのです。
「過ちは繰り返しませぬから」
これじゃあ 原爆は仕方ありませんでした になってしまう。
たしかに、日本は侵略という過ちを犯しました。
それは疑問の余地がありません。
しかし、侵略した国には原爆を落としてもいいのか。
無差別大量殺人兵器を使用してもしかたがないのか。
それはちがうでしょう。
原爆で亡くなった方々の魂をおさめる原爆慰霊碑に「繰り返しませぬ」と書いてあることに、私は強烈な違和感を感じます。
「過ちを繰り返させぬ」ではなく、なぜ「過ちは繰り返しませぬ」なのでしょう。
高熱と放射能で亡くなった広島市民が犯した過ちとはなんなのでしょうか。
原爆を、その異次元の殺傷能力を知りながら、いやそれを実証実験するために2発も落としたのは、アメリカです。
「I will not repeat the mistake.」と英語で書いてあるならわかります。
なぜ日本語で、どう考えても主語が広島市民かのような書き方で、「繰り返しませぬ」なのでしょうか。
731部隊が中国人をマルタと称して人体実験に使い、残虐に殺戮したことは、決して許されることではありません。
南京大虐殺が、30万人であろうが3万人であろうが、それは大虐殺であり、言い訳などできようはずがないことは明らかです。
直接の罪は犯していない現在の私たちにも、日本国としての責任は明確にあります。
では、原爆という史上希に見る大虐殺は、相手が侵略国であれば許されるのでしょうか。
仕方ないのでしょうか。
そんなわけありません。断じて。
まさにこの構図は、戦後の日本を象徴していると思うのです。
自らの戦争責任をアイマイにしてもらうかわりに、アメリカはすべて正しい、原爆ですら「過ちは自らにある」と言ってしまう奴隷的な関係性です。
戦犯と言えば東京裁判しか一般には意識されないが、「私は貝になりたい」で知られるようになったBC級戦犯で死刑になった日本人は1000人くらいと言われています。赤紙で招集され、上官の命令で犯した罪で死刑になった人が1000人いるのです。
その一方で、昭和天皇を筆頭に、決定したり指揮したりした人間のほとんどが、死刑なるどころか戦後の日本社会のリーダーとして蘇っていきました。
招集された兵士が死刑になるのならば、指導した人間はどんなに軽くとも終身強制労働にしなければならないはずです。
しかし、彼らは自らの戦争責任をアイマイにしてもらう代わりに、アメリカの戦争犯罪にはすべて目をつぶり、それどころか以来73年続く軍事占領をすすんで受け入れてきたのです。思いやり予算までつけて。
私は、あの原爆慰霊に書いてある 「過ちは繰り返しませぬから」をみる度に、このアイマイさの象徴を見る思いがします。
日本を戦争に導いた指導者の責任も、原爆を落としたアメリカの責任も 「繰り返させない」のではなく、市民自らがまるで自分の責任下のように「繰り返しまぬ」と言う慰霊碑。
■
慰霊祭の主席者で、あの碑文を唱えるべきだったのは、広島市長でもなく、もちろん被爆者や遺族でもなく、唯一、安倍晋三内閣総理大臣ただ一人です。
A級戦犯になるはずだった岸信介の後継者にして、米国トランプ大統領のパシリである安倍晋三は、「させない」という使役形ではなく、自らのこととして語るべき立場にあります。
その安倍晋三は、式典がおこなわれている間中、(少なくともTVに映っている限りでは)ずっと顔をしかめて、まるで二日酔いの頭痛に耐えているような顔をしていました。
献花の際も、場所を間違えて掛かりの人に「あっちあっち」と支持されて右往左往する始末でした。
ちょうどその表情を捕らえているツイートがあったので引用させてもらいます
一方、松井広島市長は、「核抑止や核の傘は間違いだ」と踏み込んだ平和宣言を発しました。正直、もともと自民党の松井市長がここまで言うとはちょっとびっくりしました。
「核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい。」
(広島市HP より)
核兵器禁止条約に励まされたのだろうと思います。
世界は広島を注視している。孤立していない。そんな実感があり、ここまで言い切る勇気が出たのでしょう。
あるいは、松井市長の昨年の平和宣言で使った「橋渡し」という言葉を、条約に参加しないアリバイのために外務省が広島でやっている「賢人会議」が悪用したことにたいする 怒りかもしれません。
松井市長は条約を核保有国に広めていくための「橋渡し」を提言したのに、「賢人会議」は核保有国の立場を非保有国に認めさせるための「橋渡し」にすり替えたのです。
画期的な平和宣言の後、安倍総理大臣はあいさつにたちました。
松井市長に 「核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい」と要望されたにもかかわらず、条約にはひとことも触れず、「核兵器国と非核兵器国双方の橋渡し」という「賢人会議」が換骨奪胎した言い訳を口にしました。
安倍晋三の言う「橋渡し」とは、ありていに言えば「核保有国(アメリカ)のパシリとして、非保有国にカネ(日本国民の税金)をばらまいて言うことを聞かせます」 という意味です。
こんな首相をかれこれ5年半も選び続けてしまっているのは たしかに私たちの「過ち」です。
もし「過ちを繰り返さない」のであれば、こんな安倍内閣の支持率を、どんなに多くとも消費税率以下にしなくてはなりません。
■
あらためて、「過ちは繰り返しませぬから」 ではなく 「繰り返させない」という決意を、この日に確認したいと思います。
悪に従ってしまった過ちを繰り返さないためには、「繰り返させない」という決意が必要です。
誰が悪いのかよく分からないようにした、一億総懺悔の「繰り返さぬ」では、ダメなんです。
悪いのは戦争を始めた人間、始めようとしている人間です。
そして、人体実験で原爆という人類史上最悪の大量破壊兵器を計画し実行した人間です。
この被爆者や遺族の怒りの目にこそ、「繰り返させない」という意思がこもっていると思います。

(朝日新聞 2018.8.6)


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「過ちは繰り返しませぬから」
これじゃあ 原爆は仕方ありませんでした になってしまう。

それは疑問の余地がありません。
しかし、侵略した国には原爆を落としてもいいのか。
無差別大量殺人兵器を使用してもしかたがないのか。
それはちがうでしょう。
原爆で亡くなった方々の魂をおさめる原爆慰霊碑に「繰り返しませぬ」と書いてあることに、私は強烈な違和感を感じます。
「過ちを繰り返させぬ」ではなく、なぜ「過ちは繰り返しませぬ」なのでしょう。
高熱と放射能で亡くなった広島市民が犯した過ちとはなんなのでしょうか。
原爆を、その異次元の殺傷能力を知りながら、いやそれを実証実験するために2発も落としたのは、アメリカです。
「I will not repeat the mistake.」と英語で書いてあるならわかります。
なぜ日本語で、どう考えても主語が広島市民かのような書き方で、「繰り返しませぬ」なのでしょうか。
731部隊が中国人をマルタと称して人体実験に使い、残虐に殺戮したことは、決して許されることではありません。
南京大虐殺が、30万人であろうが3万人であろうが、それは大虐殺であり、言い訳などできようはずがないことは明らかです。
直接の罪は犯していない現在の私たちにも、日本国としての責任は明確にあります。
では、原爆という史上希に見る大虐殺は、相手が侵略国であれば許されるのでしょうか。
仕方ないのでしょうか。
そんなわけありません。断じて。
まさにこの構図は、戦後の日本を象徴していると思うのです。
自らの戦争責任をアイマイにしてもらうかわりに、アメリカはすべて正しい、原爆ですら「過ちは自らにある」と言ってしまう奴隷的な関係性です。
戦犯と言えば東京裁判しか一般には意識されないが、「私は貝になりたい」で知られるようになったBC級戦犯で死刑になった日本人は1000人くらいと言われています。赤紙で招集され、上官の命令で犯した罪で死刑になった人が1000人いるのです。
その一方で、昭和天皇を筆頭に、決定したり指揮したりした人間のほとんどが、死刑なるどころか戦後の日本社会のリーダーとして蘇っていきました。
招集された兵士が死刑になるのならば、指導した人間はどんなに軽くとも終身強制労働にしなければならないはずです。
しかし、彼らは自らの戦争責任をアイマイにしてもらう代わりに、アメリカの戦争犯罪にはすべて目をつぶり、それどころか以来73年続く軍事占領をすすんで受け入れてきたのです。思いやり予算までつけて。
私は、あの原爆慰霊に書いてある 「過ちは繰り返しませぬから」をみる度に、このアイマイさの象徴を見る思いがします。
日本を戦争に導いた指導者の責任も、原爆を落としたアメリカの責任も 「繰り返させない」のではなく、市民自らがまるで自分の責任下のように「繰り返しまぬ」と言う慰霊碑。
■
慰霊祭の主席者で、あの碑文を唱えるべきだったのは、広島市長でもなく、もちろん被爆者や遺族でもなく、唯一、安倍晋三内閣総理大臣ただ一人です。
A級戦犯になるはずだった岸信介の後継者にして、米国トランプ大統領のパシリである安倍晋三は、「させない」という使役形ではなく、自らのこととして語るべき立場にあります。
その安倍晋三は、式典がおこなわれている間中、(少なくともTVに映っている限りでは)ずっと顔をしかめて、まるで二日酔いの頭痛に耐えているような顔をしていました。
献花の際も、場所を間違えて掛かりの人に「あっちあっち」と支持されて右往左往する始末でした。
ちょうどその表情を捕らえているツイートがあったので引用させてもらいます
安倍晋三・内閣総理大臣@広島・平和記念式典 。。。暑い。。。 pic.twitter.com/irZ70spDzs
— モリカケ王©! (@yzjps) 2018年8月5日
一方、松井広島市長は、「核抑止や核の傘は間違いだ」と踏み込んだ平和宣言を発しました。正直、もともと自民党の松井市長がここまで言うとはちょっとびっくりしました。
「核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい。」
(広島市HP より)
核兵器禁止条約に励まされたのだろうと思います。
世界は広島を注視している。孤立していない。そんな実感があり、ここまで言い切る勇気が出たのでしょう。
あるいは、松井市長の昨年の平和宣言で使った「橋渡し」という言葉を、条約に参加しないアリバイのために外務省が広島でやっている「賢人会議」が悪用したことにたいする 怒りかもしれません。
松井市長は条約を核保有国に広めていくための「橋渡し」を提言したのに、「賢人会議」は核保有国の立場を非保有国に認めさせるための「橋渡し」にすり替えたのです。
画期的な平和宣言の後、安倍総理大臣はあいさつにたちました。
松井市長に 「核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい」と要望されたにもかかわらず、条約にはひとことも触れず、「核兵器国と非核兵器国双方の橋渡し」という「賢人会議」が換骨奪胎した言い訳を口にしました。
安倍晋三の言う「橋渡し」とは、ありていに言えば「核保有国(アメリカ)のパシリとして、非保有国にカネ(日本国民の税金)をばらまいて言うことを聞かせます」 という意味です。
こんな首相をかれこれ5年半も選び続けてしまっているのは たしかに私たちの「過ち」です。
もし「過ちを繰り返さない」のであれば、こんな安倍内閣の支持率を、どんなに多くとも消費税率以下にしなくてはなりません。
■
あらためて、「過ちは繰り返しませぬから」 ではなく 「繰り返させない」という決意を、この日に確認したいと思います。
悪に従ってしまった過ちを繰り返さないためには、「繰り返させない」という決意が必要です。
誰が悪いのかよく分からないようにした、一億総懺悔の「繰り返さぬ」では、ダメなんです。
悪いのは戦争を始めた人間、始めようとしている人間です。
そして、人体実験で原爆という人類史上最悪の大量破壊兵器を計画し実行した人間です。
この被爆者や遺族の怒りの目にこそ、「繰り返させない」という意思がこもっていると思います。

(朝日新聞 2018.8.6)


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