2018-10-05(Fri)
「沖縄の基地問題はすべての日本人の責任か」という問題について
たまたまツイッターのタイムラインで、こんなやり取りを拝見しました。
書かれている方はお二方とも私は直接は存じ上げない方です。ただし、どちらも辺野古には反対の立場であることは間違いありません。
比嘉さんは沖縄の方で、さとうさんは本土の方のように見受けられます。
実はわたしも、似たようなやり取りを経験したことがあります。
少し前、ある会合で「沖縄に押しつけちゃダメでしょ」署名を日本中でやりませんか、という提案をしたときです。
同席のリベラルの方から 「それを利用されて、橋下徹がやったみたいに八尾にオスプレイ持ってきましょう、となったらアカンやないか」と言われ、全体の空気もそっちになって私の提案は流れてしまったのでした。
デニーさん当選!の高揚感の中で話をすると、なんだか上記のさとうさんや、私と議論したリベラルの方が無責任みたいに見えますが、なかなかそう簡単に決めつけられるものではないと、私は思っています。
私個人は比嘉さんのご意見に100%賛同しますが、橋下徹がやりかけた、議論抜きの「大阪に基地を」運動もたしかに大問題だったわけです。
「沖縄に押しつける」の反対は 「全国で引き受ける」 ではなく、 「全国で基地が必要かどうか議論する」なわけですが、不用意に運動をやってしまうと、それを日本会議あたりに逆用されて「では全国で引き受けよう」とやられるリスクはたしかにあると思います。
もちろん、本気で「引き受けよう」というのではなく、議論抜きにそれを突きつけられた本土の人たちが、言葉を濁して言外に「やっぱり沖縄に置いといて」と言い出すのを期待しているのです。
私がお話をしたリベラルの方も、「八尾に米軍基地できたら嫌や」ということより、そういう展開を心配していたのです。
そういう「内心忸怩たる思いを、むりやり国民に抱かせる」戦略は、一度やられてしまうと傷が深くなり、何世代にもわたってものが言えない国民が形成されます。
いま、せっかく沖縄のことを考える国民が増えてきたところなので、ここは大事に議論を広げていくべき時です。
一足飛びに、「大阪で引き受けよう!」とかワーワーやられてしまうと、それにたいする「反対運動」は、言葉には出さないけど内心は「やっぱり沖縄に置いといて」という内心忸怩運動になってしまいます。
そうなったら、国民の中に醸成されつつあった沖縄を自らのこととして考える芽は、吹き飛んでしまいます。
そういうリスクは、たしかにあるのです。
とはいえ、それでもやはり「沖縄に押しつけちゃダメでしょ」というところから出発しないと、日本の民主主義はスタートラインにすら立てないと私は考えます。
「内心忸怩たる思いを、むりやり国民に抱かせる」戦略は、実は73年前にいちどやられています。
もちろん、大反省すべきことをやらかしたのは事実なので、内心忸怩なのは当然と言えば当然ですが、でも、それでも反省の上に自らの生きる権利と誇りは明確にすべきだったのです。
しかし、戦後の日本人は、反省もアイマイ、権利もアイマイ、なんとなく内心忸怩でものが言えない という国民にされてきました。
左翼が反省担当、右翼が権利担当で、お互いに牽制させることで、どっちも進まないように仕組まれ、「誇り無い豊かさ」を享受してきました。
そんな日本人の目の前で、左翼でもない右翼でもない、フラットなものの見方を示してくれたのが、沖縄です。翁長さんとデニーさんの選挙です。
「平和を願う ウチナンチュの誇り」というものをはっきりと見せてくれました。
私たちは、「平和を願う 日本人の誇り」を掲げるべきではないのでしょうか。
この左翼と右翼が手をつないだようなスローガンを、奇異に感じる方も多いでしょうけど、「奇異に感じる」ご自分の感性をまず顧みていただきたいのです。
これ、日本人 のところに他の国の名前を入れてみたら、めっちゃ普通ですよ。平和を願うドイツ人の誇り とか 平和を願うエジプト人の誇り とか 全然違和感ないじゃないですか。
なんで、皆さんの心は 平和を願う日本人の誇り と言うと違和感を感じるのですか?
たしかに侵略戦争をやったことは事実であり、反省もなく「日本人の誇り」なんて言うのは言語道断でしょう。
必要なのは、明確な反省の上に、他の国民と同じような「誇り」を持てる国にするということじゃないんでしょうか。
その反省は、実は侵略戦争だけじゃありません。
その後の日本国憲法のもとでも、日本人はあるものを踏みつけて暮らしてきました。
私は日本国憲法のことを 右手に1条、左手に9条、足の下に沖縄 と評しています。
日米安保とワンセットでしか存在してこなかった憲法は、沖縄を犠牲にすることで成りたってきたのです。
日本人は、そのことを気が付きながら、ちょっと内心忸怩になりながら、でも見ないふりして「沖縄大好き!」と言ってきたのです。
ここにメスを入れないことは、侵略戦争を反省しないことと同じです。
だからといって、「そんなんじゃダメだ!」と日本人に猛省を求めるのもナンセンスです。
そんなお説教でどうにかなるのなら、とっくに変わっているでしょう。
現実的な気付きのキッカケが必要なのです。
その意味で 「沖縄にばっか基地を押しつけちゃダメだよね」という議論は、ジワジワと注意深く、でも確実に進めていくべきだと思います。
デニーさんの勝利で注目が集まっている今こそ、日本人の呪縛を解くために、もの言える国民になるために、皆で沖縄のことを考え、基地と日米安保を考え、議論すべき絶好機です。


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書かれている方はお二方とも私は直接は存じ上げない方です。ただし、どちらも辺野古には反対の立場であることは間違いありません。
どうして国民全体で議論することが、責任の所在をごまかすことになるのですか?責任は日本国民1人ひとりにあります。国民的議論の結果、普天間の代替施設は不要ということになれば普天間は閉鎖すれば良いのでは。沖縄では市長選ですら争点となるのに、日本全体での議論を不適切とされるのは驚きます。 https://t.co/CQ0jNSy2G4
— 比嘉まりん (@reireiusagi) 2018年10月5日
比嘉さんは沖縄の方で、さとうさんは本土の方のように見受けられます。
実はわたしも、似たようなやり取りを経験したことがあります。
少し前、ある会合で「沖縄に押しつけちゃダメでしょ」署名を日本中でやりませんか、という提案をしたときです。
同席のリベラルの方から 「それを利用されて、橋下徹がやったみたいに八尾にオスプレイ持ってきましょう、となったらアカンやないか」と言われ、全体の空気もそっちになって私の提案は流れてしまったのでした。
デニーさん当選!の高揚感の中で話をすると、なんだか上記のさとうさんや、私と議論したリベラルの方が無責任みたいに見えますが、なかなかそう簡単に決めつけられるものではないと、私は思っています。
私個人は比嘉さんのご意見に100%賛同しますが、橋下徹がやりかけた、議論抜きの「大阪に基地を」運動もたしかに大問題だったわけです。
「沖縄に押しつける」の反対は 「全国で引き受ける」 ではなく、 「全国で基地が必要かどうか議論する」なわけですが、不用意に運動をやってしまうと、それを日本会議あたりに逆用されて「では全国で引き受けよう」とやられるリスクはたしかにあると思います。
もちろん、本気で「引き受けよう」というのではなく、議論抜きにそれを突きつけられた本土の人たちが、言葉を濁して言外に「やっぱり沖縄に置いといて」と言い出すのを期待しているのです。
私がお話をしたリベラルの方も、「八尾に米軍基地できたら嫌や」ということより、そういう展開を心配していたのです。
そういう「内心忸怩たる思いを、むりやり国民に抱かせる」戦略は、一度やられてしまうと傷が深くなり、何世代にもわたってものが言えない国民が形成されます。
いま、せっかく沖縄のことを考える国民が増えてきたところなので、ここは大事に議論を広げていくべき時です。
一足飛びに、「大阪で引き受けよう!」とかワーワーやられてしまうと、それにたいする「反対運動」は、言葉には出さないけど内心は「やっぱり沖縄に置いといて」という内心忸怩運動になってしまいます。
そうなったら、国民の中に醸成されつつあった沖縄を自らのこととして考える芽は、吹き飛んでしまいます。
そういうリスクは、たしかにあるのです。
とはいえ、それでもやはり「沖縄に押しつけちゃダメでしょ」というところから出発しないと、日本の民主主義はスタートラインにすら立てないと私は考えます。
「内心忸怩たる思いを、むりやり国民に抱かせる」戦略は、実は73年前にいちどやられています。
もちろん、大反省すべきことをやらかしたのは事実なので、内心忸怩なのは当然と言えば当然ですが、でも、それでも反省の上に自らの生きる権利と誇りは明確にすべきだったのです。
しかし、戦後の日本人は、反省もアイマイ、権利もアイマイ、なんとなく内心忸怩でものが言えない という国民にされてきました。
左翼が反省担当、右翼が権利担当で、お互いに牽制させることで、どっちも進まないように仕組まれ、「誇り無い豊かさ」を享受してきました。
そんな日本人の目の前で、左翼でもない右翼でもない、フラットなものの見方を示してくれたのが、沖縄です。翁長さんとデニーさんの選挙です。
「平和を願う ウチナンチュの誇り」というものをはっきりと見せてくれました。
私たちは、「平和を願う 日本人の誇り」を掲げるべきではないのでしょうか。
この左翼と右翼が手をつないだようなスローガンを、奇異に感じる方も多いでしょうけど、「奇異に感じる」ご自分の感性をまず顧みていただきたいのです。
これ、日本人 のところに他の国の名前を入れてみたら、めっちゃ普通ですよ。平和を願うドイツ人の誇り とか 平和を願うエジプト人の誇り とか 全然違和感ないじゃないですか。
なんで、皆さんの心は 平和を願う日本人の誇り と言うと違和感を感じるのですか?
たしかに侵略戦争をやったことは事実であり、反省もなく「日本人の誇り」なんて言うのは言語道断でしょう。
必要なのは、明確な反省の上に、他の国民と同じような「誇り」を持てる国にするということじゃないんでしょうか。
その反省は、実は侵略戦争だけじゃありません。
その後の日本国憲法のもとでも、日本人はあるものを踏みつけて暮らしてきました。
私は日本国憲法のことを 右手に1条、左手に9条、足の下に沖縄 と評しています。
日米安保とワンセットでしか存在してこなかった憲法は、沖縄を犠牲にすることで成りたってきたのです。
日本人は、そのことを気が付きながら、ちょっと内心忸怩になりながら、でも見ないふりして「沖縄大好き!」と言ってきたのです。
ここにメスを入れないことは、侵略戦争を反省しないことと同じです。
だからといって、「そんなんじゃダメだ!」と日本人に猛省を求めるのもナンセンスです。
そんなお説教でどうにかなるのなら、とっくに変わっているでしょう。
現実的な気付きのキッカケが必要なのです。
その意味で 「沖縄にばっか基地を押しつけちゃダメだよね」という議論は、ジワジワと注意深く、でも確実に進めていくべきだと思います。
デニーさんの勝利で注目が集まっている今こそ、日本人の呪縛を解くために、もの言える国民になるために、皆で沖縄のことを考え、基地と日米安保を考え、議論すべき絶好機です。


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