2007-11-26(Mon)
現代人を呪縛する3つのキーワード・「エコ」「消費者」「心の豊かさ」
現実にインド洋やイラクで、自衛隊が戦争に従事する世の中になってしまった今、なんでこうなってしまったのか、改めて考えてみた。
一番簡単な答えは、反対するものがいなくなった、あるいは極端に弱体化した、ということだろう。
戦争やりたい連中は、1945年にポツダム宣言を受諾したその瞬間から、ず~と一貫して戦争したくてウズウズしていたのだから、昨日今日始まった話ではない。
60年来の念願かなって大喜び、というところだ。
その念願を、叶えさせなかったのは、当初の数年間はアメリカのせいかもしれないが、少なくとも1950年以降はアメリカのおかげではない。
日本の再軍備をガンガン進めてきたのは、他ならぬアメリカであって、今日のアフガン・イラク参戦にまで直結している。
■■
では、なにが60年間、日本を辛くも戦争参加させなかったものは何かといえば、やはり「反戦」であったと言える。
日本人の価値観の、深い深いところに、「戦争をおこした奴らへの憎しみ」があった。
しかし、一方で戦争体験者が少なくなり、他方で労働運動の解体が進んだ1980年代、「戦争が憎い」という日本人の価値観に大きな変化が強制される。
「反戦」という心の中の芯、を静かに葬り去る価値観として、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」が登場した。
注意したいのは、「反戦」の反対は「戦争」ではないこと。
「反戦」の反対は、「一億総懺悔」だ。
つまり、「みんな等しく悪いのよ」と、人の良い庶民の心根を利用して、「戦争をおこした奴らへの憎しみ」をはぐらかし、免罪することが、「反戦」の反対語なのである。
その意味で、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」、というキーワードは、四半世紀を経て再び登場した「一億総懺悔」であったのだけれども、その当時は、そんなことには誰も気がつかなかった。
むしろ、クリーンで新鮮な価値観として、積極的に評価されてきた。
■■
1970年代の公害問題の影響もあり、「エコロジー」という専門用語は、あっという間に流行り言葉になった。
もちろん、クリーンで明るいイメージとともに。
(以下、「」付きの「エコロジー」は、専門用語としての意味ではなく、流行り言葉としての意味)
しかし、公害問題と「エコロジー」には、根本的に違う面がある。
公害問題には、公害を出した企業に対するたたかいがあった。責任追及があった。やめろ、という声があった。
しかし、「エコロジー」は、「みんなそろって地球に優しく」、である。
かく言う私も、高校生の時にコンラート・ローレンツや吉良竜夫の本など読んで、生態学の勉強をしたいと本気で思っていたことがある。
しかし、エコロジーが生態学という意味であることすら忘れられてしまうような、猫も杓子も「えころじ~」な流行が始まり、妙な違和感を覚えていた。
今にして思えば、敵が誰だか分からないようにして、「人間みんな悪いのよ」とワケも分からず反省させる、かく乱作戦であった。
そして、言うまでもなく、これがそのままCO2温暖化脅威論につながっている。
もう20年以上も、周到に「エコ」という原罪論を刷り込まれてきた現代の人間は、「私たちの出しているCO2が悪い」と言われると、パブロフの犬のように「燃費の良い車に買いかえよう」と言い出す。
しかし、そもそも、車なんて売るな、とは誰も言わないし、車がなくてすむような経済にするべきだ、とも誰も言わない。
もちろん、いくら燃費がよくても、新車を買う方が総エネルギーはたくさん消費してしまうよ、とも言わない。
私自身、ゴアが映画を作るまでは、CO2主犯説を、ろくに調べもせずに信じていた。
アル・ゴアが言ってるから、疑ってみたわけで、ゴアさんには感謝しなくてはならないかもしれない。
■■
「エコ」とともに、あたりまえの言葉になってしまったのが「消費者」である。
主婦連や生協などを主軸にしながら、1960年代の高度成長と軌を一にして運動が高まってきた。
60年代から70年代には、「消費者」と言えば、「生産者である企業と対決する」と言う意味が含まれていた。
しかし、80年代に入り、「消費者」は、「マーケティングの対象」になってしまった。
「お客様は神様です」という,三波春夫の芸道を語る名文句が,なにやら商売のコツのように語られ始めたのも,この時代ではなかったか。
ちなみに,三波春夫の言う「お客様は神様です」は,神様こそがお客様だという,神に捧げる芸能の本来の姿に近いものだったようだ。自分の芸を引き出してくれる客の力を神に見立てているとも言える。
この辺の気持ちは,私も客商売なので,少し分かるような気がする。
ともあれ,生産者と闘っていた消費者は,生産者たるメーカーのお客様としての「消費者」に,180度姿を変えた。
「消費者」本位,という大義名分に乗っかって,あれも買え,これも買え,とモノばかり買わされ,家の中はモノでいっぱい。
モノがあふれるから,家も建てようというトンでもない経済循環を生みだしながら,生かさぬよう殺さぬよう「消費者」は消費をさせられていく。
当たり前だが,消費は手段であって目的ではない。あくまでも,生活するための一つの手段に過ぎない。自給自足できていれば,消費はしなくても生活はできる。
だから,私は自分のことを「消費者」とは言わない。あくまでも「生活者」なのである。
しかし,今の世の中,消費が目的化している。エルメスのバッグは,使うためというよりも,所有するため,つまり買うために買っているひとがほとんどだろう。
そこまで高級ブランドでなくても,まだ使えるものをドンドン捨てて,カッコイイものを買い求める。
ただ捨てるのでは「エコ」に反するから,新しい商品はしっかり「エコ」な顔をしていたりするし,捨てるのではなくてリサイクルだとか言って安心する。
実は,古くても我慢して使い続けることが,いちばん省資源だということを,誰も言わない。
そうやって消費し続けたあげくの果てが,耐震偽装マンションだ。
もちろん,あんなのは氷山の一角。
消費者を喜ばせる表の顔の裏側で,どんな商品をつかまされているのか,牙を抜かれた「消費者」は,見ぬくことも抗議することもできなくなってしまった。
■■
とは言え,これだけモノを買わせられ続け,いらんモノに埋もれて暮らしていると,さすがに虚しくなってくる。
そこを巧みについたのが,「心の豊かさ」だ。
そもそも,いらんモノをたくさん買わされたからといって,物質的に豊かになったと言えるのだろうか。
年金を削り,医療費を削り,生活保護を削り,国民を餓死させるような国が,物質的に豊かになったと言えるのか。
一家で食っていこうと思ったら,過労死覚悟でなくては立ちゆかないこの世の中が,本当に物質的に豊かなんだろうか。
そうした疑問を封じ込める魔法の呪文が,「心の豊かさ」である。
1981年に第二臨調が発足し,国鉄や電電公社などの民営化=組合つぶしに手をつけ始めた。その第二臨調の土光敏夫のメザシが有名になった。
メザシに負けた国労と言ったら怒られるだろうが,労働者の権利を主張する組合に対し,「清貧」を演出する土光のほうが勝ったのである。
もちろんNHKに放映された土光家のメザシ定食はヤラセだったらしいが,そんなものに国民が挙げてダマされたのは,「消費者」として生きさせられている虚しさを,どんぴしゃりと突かれてしまったからだ。
■■
80年代を通じて,呪文は日本中に蔓延した。
「エコ」「消費者本位」「心の豊かさ」と言えば,だれもが信じる正義の味方。
この呪文に共通しているのは,けっして責任をハッキリさせないこと。
敵を見ない。敵という概念を捨てて,みんな悪いんだという詭弁で騙す。
エコに反することは,本当は誰が一番しているのか。
都合の良いものを消費させるために労働者を生かしている(飼っている)のは誰なのか。
生きるために本当に必要なモノは全然豊かではないのは,誰のせいなのか。
こうした,生活者としての根本的な疑問と責任追及の矛先をはぐらかし,万が一楯突くものには,絶対正義の顔ではね返す。
かくして,ゲンダイの呪縛されたる日本人が出来上がった。
かつて,日本人の腹の中にすわっていた戦争を起こしたものへの憎しみは,次世代へと受け継がれるかわりに,CO2への憎しみにすり替わってしまった。
今,自国の軍が戦争に参戦しているのに,わずか1万人単位の反戦集会を組織する主体すら存在しない。
特効薬があればいいけれど,なかなか見つからない。
気が付いた一人が,みずから呪縛の縄を斬り捨てるところから,新しい物語は始まるのかもしれない。
一番簡単な答えは、反対するものがいなくなった、あるいは極端に弱体化した、ということだろう。
戦争やりたい連中は、1945年にポツダム宣言を受諾したその瞬間から、ず~と一貫して戦争したくてウズウズしていたのだから、昨日今日始まった話ではない。
60年来の念願かなって大喜び、というところだ。
その念願を、叶えさせなかったのは、当初の数年間はアメリカのせいかもしれないが、少なくとも1950年以降はアメリカのおかげではない。
日本の再軍備をガンガン進めてきたのは、他ならぬアメリカであって、今日のアフガン・イラク参戦にまで直結している。
■■
では、なにが60年間、日本を辛くも戦争参加させなかったものは何かといえば、やはり「反戦」であったと言える。
日本人の価値観の、深い深いところに、「戦争をおこした奴らへの憎しみ」があった。
しかし、一方で戦争体験者が少なくなり、他方で労働運動の解体が進んだ1980年代、「戦争が憎い」という日本人の価値観に大きな変化が強制される。
「反戦」という心の中の芯、を静かに葬り去る価値観として、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」が登場した。
注意したいのは、「反戦」の反対は「戦争」ではないこと。
「反戦」の反対は、「一億総懺悔」だ。
つまり、「みんな等しく悪いのよ」と、人の良い庶民の心根を利用して、「戦争をおこした奴らへの憎しみ」をはぐらかし、免罪することが、「反戦」の反対語なのである。
その意味で、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」、というキーワードは、四半世紀を経て再び登場した「一億総懺悔」であったのだけれども、その当時は、そんなことには誰も気がつかなかった。
むしろ、クリーンで新鮮な価値観として、積極的に評価されてきた。
■■
1970年代の公害問題の影響もあり、「エコロジー」という専門用語は、あっという間に流行り言葉になった。
もちろん、クリーンで明るいイメージとともに。
(以下、「」付きの「エコロジー」は、専門用語としての意味ではなく、流行り言葉としての意味)
しかし、公害問題と「エコロジー」には、根本的に違う面がある。
公害問題には、公害を出した企業に対するたたかいがあった。責任追及があった。やめろ、という声があった。
しかし、「エコロジー」は、「みんなそろって地球に優しく」、である。
かく言う私も、高校生の時にコンラート・ローレンツや吉良竜夫の本など読んで、生態学の勉強をしたいと本気で思っていたことがある。
しかし、エコロジーが生態学という意味であることすら忘れられてしまうような、猫も杓子も「えころじ~」な流行が始まり、妙な違和感を覚えていた。
今にして思えば、敵が誰だか分からないようにして、「人間みんな悪いのよ」とワケも分からず反省させる、かく乱作戦であった。
そして、言うまでもなく、これがそのままCO2温暖化脅威論につながっている。
もう20年以上も、周到に「エコ」という原罪論を刷り込まれてきた現代の人間は、「私たちの出しているCO2が悪い」と言われると、パブロフの犬のように「燃費の良い車に買いかえよう」と言い出す。
しかし、そもそも、車なんて売るな、とは誰も言わないし、車がなくてすむような経済にするべきだ、とも誰も言わない。
もちろん、いくら燃費がよくても、新車を買う方が総エネルギーはたくさん消費してしまうよ、とも言わない。
私自身、ゴアが映画を作るまでは、CO2主犯説を、ろくに調べもせずに信じていた。
アル・ゴアが言ってるから、疑ってみたわけで、ゴアさんには感謝しなくてはならないかもしれない。
■■
「エコ」とともに、あたりまえの言葉になってしまったのが「消費者」である。
主婦連や生協などを主軸にしながら、1960年代の高度成長と軌を一にして運動が高まってきた。
60年代から70年代には、「消費者」と言えば、「生産者である企業と対決する」と言う意味が含まれていた。
しかし、80年代に入り、「消費者」は、「マーケティングの対象」になってしまった。
「お客様は神様です」という,三波春夫の芸道を語る名文句が,なにやら商売のコツのように語られ始めたのも,この時代ではなかったか。
ちなみに,三波春夫の言う「お客様は神様です」は,神様こそがお客様だという,神に捧げる芸能の本来の姿に近いものだったようだ。自分の芸を引き出してくれる客の力を神に見立てているとも言える。
この辺の気持ちは,私も客商売なので,少し分かるような気がする。
ともあれ,生産者と闘っていた消費者は,生産者たるメーカーのお客様としての「消費者」に,180度姿を変えた。
「消費者」本位,という大義名分に乗っかって,あれも買え,これも買え,とモノばかり買わされ,家の中はモノでいっぱい。
モノがあふれるから,家も建てようというトンでもない経済循環を生みだしながら,生かさぬよう殺さぬよう「消費者」は消費をさせられていく。
当たり前だが,消費は手段であって目的ではない。あくまでも,生活するための一つの手段に過ぎない。自給自足できていれば,消費はしなくても生活はできる。
だから,私は自分のことを「消費者」とは言わない。あくまでも「生活者」なのである。
しかし,今の世の中,消費が目的化している。エルメスのバッグは,使うためというよりも,所有するため,つまり買うために買っているひとがほとんどだろう。
そこまで高級ブランドでなくても,まだ使えるものをドンドン捨てて,カッコイイものを買い求める。
ただ捨てるのでは「エコ」に反するから,新しい商品はしっかり「エコ」な顔をしていたりするし,捨てるのではなくてリサイクルだとか言って安心する。
実は,古くても我慢して使い続けることが,いちばん省資源だということを,誰も言わない。
そうやって消費し続けたあげくの果てが,耐震偽装マンションだ。
もちろん,あんなのは氷山の一角。
消費者を喜ばせる表の顔の裏側で,どんな商品をつかまされているのか,牙を抜かれた「消費者」は,見ぬくことも抗議することもできなくなってしまった。
■■
とは言え,これだけモノを買わせられ続け,いらんモノに埋もれて暮らしていると,さすがに虚しくなってくる。
そこを巧みについたのが,「心の豊かさ」だ。
そもそも,いらんモノをたくさん買わされたからといって,物質的に豊かになったと言えるのだろうか。
年金を削り,医療費を削り,生活保護を削り,国民を餓死させるような国が,物質的に豊かになったと言えるのか。
一家で食っていこうと思ったら,過労死覚悟でなくては立ちゆかないこの世の中が,本当に物質的に豊かなんだろうか。
そうした疑問を封じ込める魔法の呪文が,「心の豊かさ」である。
1981年に第二臨調が発足し,国鉄や電電公社などの民営化=組合つぶしに手をつけ始めた。その第二臨調の土光敏夫のメザシが有名になった。
メザシに負けた国労と言ったら怒られるだろうが,労働者の権利を主張する組合に対し,「清貧」を演出する土光のほうが勝ったのである。
もちろんNHKに放映された土光家のメザシ定食はヤラセだったらしいが,そんなものに国民が挙げてダマされたのは,「消費者」として生きさせられている虚しさを,どんぴしゃりと突かれてしまったからだ。
■■
80年代を通じて,呪文は日本中に蔓延した。
「エコ」「消費者本位」「心の豊かさ」と言えば,だれもが信じる正義の味方。
この呪文に共通しているのは,けっして責任をハッキリさせないこと。
敵を見ない。敵という概念を捨てて,みんな悪いんだという詭弁で騙す。
エコに反することは,本当は誰が一番しているのか。
都合の良いものを消費させるために労働者を生かしている(飼っている)のは誰なのか。
生きるために本当に必要なモノは全然豊かではないのは,誰のせいなのか。
こうした,生活者としての根本的な疑問と責任追及の矛先をはぐらかし,万が一楯突くものには,絶対正義の顔ではね返す。
かくして,ゲンダイの呪縛されたる日本人が出来上がった。
かつて,日本人の腹の中にすわっていた戦争を起こしたものへの憎しみは,次世代へと受け継がれるかわりに,CO2への憎しみにすり替わってしまった。
今,自国の軍が戦争に参戦しているのに,わずか1万人単位の反戦集会を組織する主体すら存在しない。
特効薬があればいいけれど,なかなか見つからない。
気が付いた一人が,みずから呪縛の縄を斬り捨てるところから,新しい物語は始まるのかもしれない。
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