2008-08-14(Thu)
敗戦と住宅のこと
原点は、やはりこの光景にある。

(大阪大空襲)
侵略と敗戦の結果、全世帯数の1/4にあたる420万戸の住宅が不足したという。
4人に一人は家が無かった。バラックで雨露を凌いだり、親類に居候したりできたのはラッキーな部類で、中には小学校を実力占拠して住んでしまうなんてことも、結構フツウに行われたらしい。
(バラック住宅 神戸市のHPより)
■■
当たり前だけれども、雨露を凌ぐことは、食料とならんで深刻な問題だったのだ。
ただ、食べ物は本当に何も無い状態だったけれども、住宅は、バラックをたてるような残骸は転がっていた。
だから、とにかくある物をひっかきあつめて、家のような形をしたものを作ってしまった。
それに拍車をかけたのが、家賃の高騰と、賃貸住宅の復旧の遅れだった。
今では信じられないような数字だが、戦前は、全世帯の9割以上が借家や社宅や間借りで住んでいた。
持ち家は8%に満たない。

(クリックで拡大 昭和37年労働省)
ところが、戦後はその借家の再建が進まず、かろうじて再建したものや焼け残ったものは家賃が高騰した。
国も、30万戸の越冬用の応急住宅を作ると言いながら、実際は1/3しか作らなかった。
その一方で、小は地主のミニ開発から、大は政商による鉄道事業もからめた大規模宅地開発まで、持ち家政策という名の不動産バブル政策を、復興の柱にしていく。
結果、敗戦から10年目の1955年には、持ち家は52%近くにのぼっている。
住み手は食うや食わず、供給側は資材不足のうえにほとんどノーチェックの無法地帯。
これで、まともな家が建つわけがないのは、今考えればアッタリマエのなんとやらだけれども、そうやって何百万という家が建てられていった。
そんななかでも、今日でもまともな家が少しは残っているのは、当時の大工や職人の良心と心意気だったということだろう。
しかし、そんな幸運な家はごくごく少数派であり、ほとんどは、とりあえず建っているようなものだった。
私自身、これまでリフォームや建て替えや耐震診断などで、そんな驚くべき家をたくさん見てきた。
■■
現実がこうして進行していく間に、建築家は何をしていたか。
故宮脇檀氏の「日本の住宅設計」に詳しい。
現実が空白であるだけに自由奔放で気宇壮大であるはずのこれらのプロジェクトには、逆に計画を推進する主体の不在、タイムスケジュール・経済計画の欠如、経済事情等現実の暗さの逆投影としてしか意味を持たなかった。
と、まあ現実離れしたお遊びに心血を注いでいた。
都市部では、8割から9割の住宅が破壊された焼け野原を目の前にして、なんのリアリティもない復興プランを描いて喜んでいたのである。
この時点で、日本で建築家という職業が一本立ちするチャンスを逃したとも言える。
もちろん、その後に見られる「最小限住宅」の流行や、前川國男のプレモスなどの問題意識はあったものの、実際の国民の経済生活と切り結ぶことなく、理想論の域を出ることなく、やがて高度経済成長のなかに溶けていってしまった。
そして、こうした最小限住宅やプレモスなどを、リアルの世界で進めていったのは、プレハブメーカーであり、ミニ開発をおこなう不動産業者であったということは、まったく皮肉なことだった。
工業化住宅の先鞭をつけたプレモスは、前川建築事務所と東大の小野薫教授の共同設計で、山陰工業株式会社という会社で実際に工場生産された。

前川國男曰く
敗戦の日本には資材も金も足りないことは分かりきっている。それだからと言って、壕舎生活や共同生活や身動きならぬ6坪住宅でどうしてわれわれは一人前の生産ができようか? どうして日本の再建ができようか?
普通の住宅6坪を建てる資金で、10坪建てる方法はないか?
こうした問題意識はステキだったのだが、現実は数百戸を生産して挫折した。
敗因を一言で言えば、バラックモドキよりは高価で、金持ちには貧相、ということだったようだ。
その挫折後10年を経て、大和ハウスのミゼットハウスが登場する。そして、換骨奪胎、似て非なる住宅メーカーの歴史が始まる。
最小限住宅に至っては、学者や建築家のパズル遊びであったようにすら見える。
もちろん、当の本人は、住宅難に対処しようと真剣であったのだろうが、住み手が何に困り何を求めているのか、その重い現実と交わることなく、高邁な理念のみが空中散歩しているような印象だ。
だからこそ、実際には多く建てられることなく、建てられた多くが建築家の自宅であった。
しかし、その「最小限」という一種の合理性は、都市部での建売住宅の間取りに、これまた換骨奪胎して受け継がれた。
建売住宅の間取りを作る人たちの、職人芸はある意味すごい。
最小限でありながら「売れる」間取りを、しかも一晩に何軒も書き上げる。
これは、日本の建築界の隠れた能力だと思うが、しかし、その恩恵に預かりたいとは思わない。
かつての最小限住宅が、建築家の自己満足であったとするならば、建売業者の最小限住宅は、(全部が全部とは言わないまでも)「売れる」という価値観にのみ則った自己満足であり、いずれにしても、住み手の方は向いていない。
■■
日本の住宅事情の原点が、このへんにあるということは、誰の目にも明らかなのにもかかわらず、はっきりと指摘されることが少ない。
反戦な家づくりを考えていくためには、まずこの原点を押さえておきたいと思い、敗戦の日を前にして、ちょっと書き留めておく。
ロシアとアメリカの石油パイプラインをめぐる争いが、またまた戦争の火を吹き上げている。
このパイプラインには日本の国際石油開発(株)が2.5%、伊藤忠が3.4%権利を持っている。他国の話ではない。

いくら頑丈で綺麗な家を作っても、戦争になれば、ただの瓦礫だ。
住むひとも建てる人も、そのことは忘れないでほしい。

(大阪大空襲)
侵略と敗戦の結果、全世帯数の1/4にあたる420万戸の住宅が不足したという。
4人に一人は家が無かった。バラックで雨露を凌いだり、親類に居候したりできたのはラッキーな部類で、中には小学校を実力占拠して住んでしまうなんてことも、結構フツウに行われたらしい。

■■
当たり前だけれども、雨露を凌ぐことは、食料とならんで深刻な問題だったのだ。
ただ、食べ物は本当に何も無い状態だったけれども、住宅は、バラックをたてるような残骸は転がっていた。
だから、とにかくある物をひっかきあつめて、家のような形をしたものを作ってしまった。
それに拍車をかけたのが、家賃の高騰と、賃貸住宅の復旧の遅れだった。
今では信じられないような数字だが、戦前は、全世帯の9割以上が借家や社宅や間借りで住んでいた。
持ち家は8%に満たない。

(クリックで拡大 昭和37年労働省)
ところが、戦後はその借家の再建が進まず、かろうじて再建したものや焼け残ったものは家賃が高騰した。
国も、30万戸の越冬用の応急住宅を作ると言いながら、実際は1/3しか作らなかった。
その一方で、小は地主のミニ開発から、大は政商による鉄道事業もからめた大規模宅地開発まで、持ち家政策という名の不動産バブル政策を、復興の柱にしていく。
結果、敗戦から10年目の1955年には、持ち家は52%近くにのぼっている。
住み手は食うや食わず、供給側は資材不足のうえにほとんどノーチェックの無法地帯。
これで、まともな家が建つわけがないのは、今考えればアッタリマエのなんとやらだけれども、そうやって何百万という家が建てられていった。
そんななかでも、今日でもまともな家が少しは残っているのは、当時の大工や職人の良心と心意気だったということだろう。
しかし、そんな幸運な家はごくごく少数派であり、ほとんどは、とりあえず建っているようなものだった。
私自身、これまでリフォームや建て替えや耐震診断などで、そんな驚くべき家をたくさん見てきた。
■■
現実がこうして進行していく間に、建築家は何をしていたか。
故宮脇檀氏の「日本の住宅設計」に詳しい。
現実が空白であるだけに自由奔放で気宇壮大であるはずのこれらのプロジェクトには、逆に計画を推進する主体の不在、タイムスケジュール・経済計画の欠如、経済事情等現実の暗さの逆投影としてしか意味を持たなかった。
と、まあ現実離れしたお遊びに心血を注いでいた。
都市部では、8割から9割の住宅が破壊された焼け野原を目の前にして、なんのリアリティもない復興プランを描いて喜んでいたのである。
この時点で、日本で建築家という職業が一本立ちするチャンスを逃したとも言える。
もちろん、その後に見られる「最小限住宅」の流行や、前川國男のプレモスなどの問題意識はあったものの、実際の国民の経済生活と切り結ぶことなく、理想論の域を出ることなく、やがて高度経済成長のなかに溶けていってしまった。
そして、こうした最小限住宅やプレモスなどを、リアルの世界で進めていったのは、プレハブメーカーであり、ミニ開発をおこなう不動産業者であったということは、まったく皮肉なことだった。
工業化住宅の先鞭をつけたプレモスは、前川建築事務所と東大の小野薫教授の共同設計で、山陰工業株式会社という会社で実際に工場生産された。

前川國男曰く
敗戦の日本には資材も金も足りないことは分かりきっている。それだからと言って、壕舎生活や共同生活や身動きならぬ6坪住宅でどうしてわれわれは一人前の生産ができようか? どうして日本の再建ができようか?
普通の住宅6坪を建てる資金で、10坪建てる方法はないか?
こうした問題意識はステキだったのだが、現実は数百戸を生産して挫折した。
敗因を一言で言えば、バラックモドキよりは高価で、金持ちには貧相、ということだったようだ。
その挫折後10年を経て、大和ハウスのミゼットハウスが登場する。そして、換骨奪胎、似て非なる住宅メーカーの歴史が始まる。
最小限住宅に至っては、学者や建築家のパズル遊びであったようにすら見える。
もちろん、当の本人は、住宅難に対処しようと真剣であったのだろうが、住み手が何に困り何を求めているのか、その重い現実と交わることなく、高邁な理念のみが空中散歩しているような印象だ。
だからこそ、実際には多く建てられることなく、建てられた多くが建築家の自宅であった。
しかし、その「最小限」という一種の合理性は、都市部での建売住宅の間取りに、これまた換骨奪胎して受け継がれた。
建売住宅の間取りを作る人たちの、職人芸はある意味すごい。
最小限でありながら「売れる」間取りを、しかも一晩に何軒も書き上げる。
これは、日本の建築界の隠れた能力だと思うが、しかし、その恩恵に預かりたいとは思わない。
かつての最小限住宅が、建築家の自己満足であったとするならば、建売業者の最小限住宅は、(全部が全部とは言わないまでも)「売れる」という価値観にのみ則った自己満足であり、いずれにしても、住み手の方は向いていない。
■■
日本の住宅事情の原点が、このへんにあるということは、誰の目にも明らかなのにもかかわらず、はっきりと指摘されることが少ない。
反戦な家づくりを考えていくためには、まずこの原点を押さえておきたいと思い、敗戦の日を前にして、ちょっと書き留めておく。
ロシアとアメリカの石油パイプラインをめぐる争いが、またまた戦争の火を吹き上げている。
このパイプラインには日本の国際石油開発(株)が2.5%、伊藤忠が3.4%権利を持っている。他国の話ではない。

いくら頑丈で綺麗な家を作っても、戦争になれば、ただの瓦礫だ。
住むひとも建てる人も、そのことは忘れないでほしい。
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