2008-12-15(Mon)
日本のアイデンティティーを破壊したのは誰だ
迷走する麻生政権に,今さら何を言っても始まらないが,こうした混乱と絶望が日増しに高まる時期は,ファシズムを醸成する。
今のところ,それを担えるだけのタマが出て来ていないけれども,これからの数年は非常に危険であると思う。
見えている範囲で一番危険なのは,やはり我らが知事殿だ。
橋下徹というキャラは,ファシストとしての条件をしっかりと備えている。
麻生太郎や安倍晋三のような御曹司では,真性ファシストは務まらない。もっと「庶民的」な出自をもち,ある種の共感を呼ぶ資質が必要だ。
また,権力そのものではなく,一見権力に逆らっているような姿勢も必要だ。
そして,民衆の味方のような顔をして,人間のもつ一番いやらしい部分をくすぐって糾合する。
もう一つ,必須のものは,親衛隊のような暴力装置だ。
これについては,橋下がどれだけの裏部隊を抱えているのかは確証がない。
ただ,一部では許永中との関係も取りざたされるように,何が出てくるかは分かったものではない。
■■
さらに,日本の場合これに天皇教が加わる。
明治時代に創設された天皇教は,日本人の心を操る道具として,未だに健在だからだ。
「この次のオリンピックのほうは目指しません」と,天皇を前にしてもしゃあしゃあと言ってのける若者もいるけれども,ほとんどの大人は固まってしまってマインドコントロールそのものだ。
先代の戦争責任の問題や,税金で食わせてることなどを差し引いても,道であったら「こんにちは。いつもテレビで拝見しています。」とか言うくらいの普通のおじさんだ。そのおじさんを見て,「ありがたい」なんて感じるのは,もうすでにオウム状態なのだけれども,あまりにも多くの人がマインドコントロールにハマっているから,問題にもならない。
だから,ファシズムが台頭してくるとしたら,天皇教を目一杯使ってくる。
もちろん,使う人間は天皇個人を尊敬しているわけでもなければ,崇拝しているわけでもない。
鈴木邦夫のような本気で天皇が好きな右翼は,むしろ希であり,本流にはなれない。
麻薬の売人は,自分では決して使わないのと同じなのだろう。
それにしても,なんで天皇教信者がこんなにも多いのか,私は子どもの頃から不思議だった。
今の皇太子が,私とほぼ同世代だから,ニュースで「ひろのみやサマ」という言葉を聞く度に,なんで同じ年格好のこどもが「サマ」なのか,変だなあと子ども心に思っていた。
その秘密が,最近になって少し分かるようになってきた。
それは,お寺や神社によく足を運ぶようになったせいだ。
ウチの事務所の近くに,素戔嗚尊を祀った神社がある。小さいけれどもなかなかいい場所で,わりとよく行って参拝する。もちろん,現存する神社は好むと好まざるとにかかわらず,天皇教に組み入れられていることは知っている。
けれども,もともとの神様というのは,そこら中にいたのであって,本来は天皇教とは関係ないものだと思っているから,あまり拘らずに気に入った神社では参拝する。
さらに,最近は吉野林業との関係で,世界遺産にもなった大峯修験のことをちょこっと勉強してみる機会も出てきた。
内田康夫の小説で有名になった天河大辨財天社には何回も足を運んだし,先日は金峯山寺の蔵王堂や吉野水分神社などの世界遺産にも行くことができた。
そんななかで,明治政府の廃仏毀釈という暴挙を改めて思い起こし,今でも修験に息づいている草の根の精神や,平和への明確な方向性を見ることができた。
蔵王堂で購入した「はじめての修験道」という本では,世界遺産に指定されたことに関して,ユネスコ憲章の前文を紹介していた。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。(後略)
恥ずかしながら,この本をキッカケにして始めてユネスコ憲章を読んだ。
あえて言えば,心の問題だけで戦争は始まるのではないが,逆に,政治経済の問題だけで平和は獲得されない。そのことも,前文では書いてある。
政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
日本にある世界遺産のうち,どれだけがこの精神を自覚しているだろうか。原爆ドームを除いては,ほとんど無いのではないか。だいたい,文部科学省の中に置かれている日本ユネスコ協会のホームページからこのユネスコ憲章を探すのも,結構大変だ。トップページどころか,4層目までたどって行かなくては出てこない。
世界遺産活動はトップページに大きなタグがあるけれども,いくら見ても憲章の精神については説明がない。
このようにまるで観光産業と化したユネスコ世界遺産を維持していくために,あえて憲章の平和思想を持ち出す吉野大峯修験の懐の大きさは,すごく好ましく思える。
そして,神仏混淆の修験の世界こそ,平和をめざす世界遺産に相応しいと,この本は言う。
日本は全国土の7割が山といわれている。有史以前から日本列島に住み着いて,精神文化を築き続けてきた私たちの先祖たちは,山や大自然からもたらされる豊かな恵みのなかで,多神教的な風土にもとづく歴史を積み上げてきた。
それゆえに,日本人一般の信仰は,その原点をたどれば,自然のなかで,日本古来の神々をも,外国から来た諸仏諸菩薩も,まったく分けへだてなく,敬い拝むという多神教的な風土の大らかさに根ざしていたはずなのである。
まさに,こうした精神の大らかさを育むためにこそ世界遺産というのがあるのではないか,と言うのである。
続けて,さらに,
ところが,このような日本固有の精神文化は,明治の欧米化や近代化政策によって,次第に捨てられかえりみられなくなってしまった。昨今の殺伐とした社会のなかで,人々の心が荒廃し,かつては想像もできなかった事件が頻発する原因もまた,日本人がこうした民族のアイデンティティを喪失していったがゆえと思われてならない。
ここで,民族のアイデンティティという,用語としては右翼が好む用語が出てくる。これを読んで,私はハタと思い至った。
日本人のアイデンティティとは,天皇教なんて関係無い多神教,分け隔てのない神仏混淆なのだと。
天皇を頂点にいただき,それの下に連なるような天皇教の八百の神なんて,多神教とは言えまい。あくまで,絶対神の天皇を想定するのだから,限りなく一神教に近い。
しかししかし,明治政府が実に巧妙だったのは,天皇教を日本人のアイデンティティである多神教の上に載っけてしまった,もっと言えば乗っ取ったということだ。
老木や巨石や山を拝んでいた日本人に,その親分は天皇だと強制したのである。
分かりやすく言えば,トトロに飼い主がいて,なんとそれは天皇だった,というストーリーを用意したのだ。
明治の初期には,キリスト教を国教にすべきだという議論もあったらしい。なにせ,新しい国家を正当化するための宗教が欲しかっただけだから,使えるものなら,キリストでも天皇でも何でもよかった。
この時,もし明治政府の国教を一神教のキリスト教にしていたら,これほど深く長く日本人を洗脳することはできなかったかもしれない。
ところが,明治政府は国家神道という巧妙な作戦をとった。
これによって,アイデンティティとしての多神教的な心情を国家に簒奪され,操られてしまった。
■■
さて,戦争は終わった。とにもかくにも戦後というモノが始まった。
ここでも,天皇教は生き残った。
生き残るために犠牲にしたモノはあまりにも多い。
沖縄を身代わりに差し出したという話は有名だが,これまで述べてきた日本人のアイデンティティも,自らの生き残りのために生ゴミのように投げ捨てた。
毒を喰らわば皿まで と言うが,天皇教のとった戦術は,皿を捨てて見せて毒を隠し持つという手法だった。
天皇教を図らずも載せてきた多神教的な日本人の心情,アイデンティティをファシズムのバックボーンのように見せかけて,本当の毒である天皇教の方を温存した。
戦後の日本をめぐる混乱は,ある意味全部ここに端を発する。
本当の毒である天皇教,それを利用して戦争を起こした責任,それらをはっきりと断罪できていれば,本来はあるがままの皿であるアイデンティティまで投げ捨てることはなかった。
それを,天皇教の身代わりで捨てさせられた日本人は,経済復興しか共通の価値観をもてなくなってしまった。
だから,高度経済成長までは,かろうじて共通基盤を設定できた。
それが行きづまり,心の時代とかなんとか言われるようになってからが大変。
片や無批判に天皇教を載せたままの皿を復活させようとするし,片やその間違いを自覚する勢力はあるがままのアイデンティティをも罪悪視する。
この不毛な二元論をうち破る力が,本来の多神教的な心情にはある。
考えるまでもないが,「いただきま~す」と言って手を合わせるとき,だれも天皇のことなんて考えていない。
神社で柏手を打つ人の99.9%は,その神様がどこのどなたかも知らないし,どのように天皇につながっているかなんて思ってもいない。
それでも,手を合わせたり柏手を打ったりすると安心するのが,天皇教やそれ以前の儒教にも壊されなかった日本人のアイデンティティなのではないか。
巨木やご飯粒にも神性を感じることのできる能力は,先の本を書いた田中利典さんや正木晃さんの言うとおり,心の中に平和の砦を築くことにもつなげていける。
もちろん,天皇教に乗っ取られて戦争の精神を体現した実績も忘れてはいけない。
■■
私がずっとこだわってきた「反戦な家づくり」ということと「木の家」ということが,ここでハッキリと結びついたような気がする。
「木の家」というのは,様々な科学的・工学的な説明もあるけれども,つまるところ信仰心だと思う。
家になってくれる木に,手を合わせて住んでほしいということ。
しかし,それだけではその信仰心は,命を本当に大切にする保証はない。
天皇教というウイルスに対する抵抗力は極めて弱い。
だから,もう一つ「反戦な家づくり」というキーワードが必要になる。
そんな思いで,これからも木の家づくりをしていきたいと思う。
そして,自覚的無自覚的に日本のアイデンティティで悩むすべての人は,天皇教によってうち捨てられた心情を取り戻さなくては救われない。
そのためには,まず天皇教をきちんと批判できるところまで,洗脳を解除しなくてはならない。
早晩,麻生政権はみじめな終末を迎えるだろう。
その時が,チャンスでもありピンチでもある。
万が一,天皇教を守護としたファシズムがしゃしゃり出てきたとき,自信をもって否定できるようにすること。
それが,木を崇拝する木の家づくりの実践なのだろう。
今のところ,それを担えるだけのタマが出て来ていないけれども,これからの数年は非常に危険であると思う。
見えている範囲で一番危険なのは,やはり我らが知事殿だ。
橋下徹というキャラは,ファシストとしての条件をしっかりと備えている。
麻生太郎や安倍晋三のような御曹司では,真性ファシストは務まらない。もっと「庶民的」な出自をもち,ある種の共感を呼ぶ資質が必要だ。
また,権力そのものではなく,一見権力に逆らっているような姿勢も必要だ。
そして,民衆の味方のような顔をして,人間のもつ一番いやらしい部分をくすぐって糾合する。
もう一つ,必須のものは,親衛隊のような暴力装置だ。
これについては,橋下がどれだけの裏部隊を抱えているのかは確証がない。
ただ,一部では許永中との関係も取りざたされるように,何が出てくるかは分かったものではない。
■■
さらに,日本の場合これに天皇教が加わる。
明治時代に創設された天皇教は,日本人の心を操る道具として,未だに健在だからだ。
「この次のオリンピックのほうは目指しません」と,天皇を前にしてもしゃあしゃあと言ってのける若者もいるけれども,ほとんどの大人は固まってしまってマインドコントロールそのものだ。
先代の戦争責任の問題や,税金で食わせてることなどを差し引いても,道であったら「こんにちは。いつもテレビで拝見しています。」とか言うくらいの普通のおじさんだ。そのおじさんを見て,「ありがたい」なんて感じるのは,もうすでにオウム状態なのだけれども,あまりにも多くの人がマインドコントロールにハマっているから,問題にもならない。
だから,ファシズムが台頭してくるとしたら,天皇教を目一杯使ってくる。
もちろん,使う人間は天皇個人を尊敬しているわけでもなければ,崇拝しているわけでもない。
鈴木邦夫のような本気で天皇が好きな右翼は,むしろ希であり,本流にはなれない。
麻薬の売人は,自分では決して使わないのと同じなのだろう。
それにしても,なんで天皇教信者がこんなにも多いのか,私は子どもの頃から不思議だった。
今の皇太子が,私とほぼ同世代だから,ニュースで「ひろのみやサマ」という言葉を聞く度に,なんで同じ年格好のこどもが「サマ」なのか,変だなあと子ども心に思っていた。
その秘密が,最近になって少し分かるようになってきた。
それは,お寺や神社によく足を運ぶようになったせいだ。
ウチの事務所の近くに,素戔嗚尊を祀った神社がある。小さいけれどもなかなかいい場所で,わりとよく行って参拝する。もちろん,現存する神社は好むと好まざるとにかかわらず,天皇教に組み入れられていることは知っている。
けれども,もともとの神様というのは,そこら中にいたのであって,本来は天皇教とは関係ないものだと思っているから,あまり拘らずに気に入った神社では参拝する。
さらに,最近は吉野林業との関係で,世界遺産にもなった大峯修験のことをちょこっと勉強してみる機会も出てきた。
内田康夫の小説で有名になった天河大辨財天社には何回も足を運んだし,先日は金峯山寺の蔵王堂や吉野水分神社などの世界遺産にも行くことができた。
そんななかで,明治政府の廃仏毀釈という暴挙を改めて思い起こし,今でも修験に息づいている草の根の精神や,平和への明確な方向性を見ることができた。
蔵王堂で購入した「はじめての修験道」という本では,世界遺産に指定されたことに関して,ユネスコ憲章の前文を紹介していた。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。(後略)
恥ずかしながら,この本をキッカケにして始めてユネスコ憲章を読んだ。
あえて言えば,心の問題だけで戦争は始まるのではないが,逆に,政治経済の問題だけで平和は獲得されない。そのことも,前文では書いてある。
政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
日本にある世界遺産のうち,どれだけがこの精神を自覚しているだろうか。原爆ドームを除いては,ほとんど無いのではないか。だいたい,文部科学省の中に置かれている日本ユネスコ協会のホームページからこのユネスコ憲章を探すのも,結構大変だ。トップページどころか,4層目までたどって行かなくては出てこない。
世界遺産活動はトップページに大きなタグがあるけれども,いくら見ても憲章の精神については説明がない。
このようにまるで観光産業と化したユネスコ世界遺産を維持していくために,あえて憲章の平和思想を持ち出す吉野大峯修験の懐の大きさは,すごく好ましく思える。
そして,神仏混淆の修験の世界こそ,平和をめざす世界遺産に相応しいと,この本は言う。
日本は全国土の7割が山といわれている。有史以前から日本列島に住み着いて,精神文化を築き続けてきた私たちの先祖たちは,山や大自然からもたらされる豊かな恵みのなかで,多神教的な風土にもとづく歴史を積み上げてきた。
それゆえに,日本人一般の信仰は,その原点をたどれば,自然のなかで,日本古来の神々をも,外国から来た諸仏諸菩薩も,まったく分けへだてなく,敬い拝むという多神教的な風土の大らかさに根ざしていたはずなのである。
まさに,こうした精神の大らかさを育むためにこそ世界遺産というのがあるのではないか,と言うのである。
続けて,さらに,
ところが,このような日本固有の精神文化は,明治の欧米化や近代化政策によって,次第に捨てられかえりみられなくなってしまった。昨今の殺伐とした社会のなかで,人々の心が荒廃し,かつては想像もできなかった事件が頻発する原因もまた,日本人がこうした民族のアイデンティティを喪失していったがゆえと思われてならない。
ここで,民族のアイデンティティという,用語としては右翼が好む用語が出てくる。これを読んで,私はハタと思い至った。
日本人のアイデンティティとは,天皇教なんて関係無い多神教,分け隔てのない神仏混淆なのだと。
天皇を頂点にいただき,それの下に連なるような天皇教の八百の神なんて,多神教とは言えまい。あくまで,絶対神の天皇を想定するのだから,限りなく一神教に近い。
しかししかし,明治政府が実に巧妙だったのは,天皇教を日本人のアイデンティティである多神教の上に載っけてしまった,もっと言えば乗っ取ったということだ。
老木や巨石や山を拝んでいた日本人に,その親分は天皇だと強制したのである。
分かりやすく言えば,トトロに飼い主がいて,なんとそれは天皇だった,というストーリーを用意したのだ。
明治の初期には,キリスト教を国教にすべきだという議論もあったらしい。なにせ,新しい国家を正当化するための宗教が欲しかっただけだから,使えるものなら,キリストでも天皇でも何でもよかった。
この時,もし明治政府の国教を一神教のキリスト教にしていたら,これほど深く長く日本人を洗脳することはできなかったかもしれない。
ところが,明治政府は国家神道という巧妙な作戦をとった。
これによって,アイデンティティとしての多神教的な心情を国家に簒奪され,操られてしまった。
■■
さて,戦争は終わった。とにもかくにも戦後というモノが始まった。
ここでも,天皇教は生き残った。
生き残るために犠牲にしたモノはあまりにも多い。
沖縄を身代わりに差し出したという話は有名だが,これまで述べてきた日本人のアイデンティティも,自らの生き残りのために生ゴミのように投げ捨てた。
毒を喰らわば皿まで と言うが,天皇教のとった戦術は,皿を捨てて見せて毒を隠し持つという手法だった。
天皇教を図らずも載せてきた多神教的な日本人の心情,アイデンティティをファシズムのバックボーンのように見せかけて,本当の毒である天皇教の方を温存した。
戦後の日本をめぐる混乱は,ある意味全部ここに端を発する。
本当の毒である天皇教,それを利用して戦争を起こした責任,それらをはっきりと断罪できていれば,本来はあるがままの皿であるアイデンティティまで投げ捨てることはなかった。
それを,天皇教の身代わりで捨てさせられた日本人は,経済復興しか共通の価値観をもてなくなってしまった。
だから,高度経済成長までは,かろうじて共通基盤を設定できた。
それが行きづまり,心の時代とかなんとか言われるようになってからが大変。
片や無批判に天皇教を載せたままの皿を復活させようとするし,片やその間違いを自覚する勢力はあるがままのアイデンティティをも罪悪視する。
この不毛な二元論をうち破る力が,本来の多神教的な心情にはある。
考えるまでもないが,「いただきま~す」と言って手を合わせるとき,だれも天皇のことなんて考えていない。
神社で柏手を打つ人の99.9%は,その神様がどこのどなたかも知らないし,どのように天皇につながっているかなんて思ってもいない。
それでも,手を合わせたり柏手を打ったりすると安心するのが,天皇教やそれ以前の儒教にも壊されなかった日本人のアイデンティティなのではないか。
巨木やご飯粒にも神性を感じることのできる能力は,先の本を書いた田中利典さんや正木晃さんの言うとおり,心の中に平和の砦を築くことにもつなげていける。
もちろん,天皇教に乗っ取られて戦争の精神を体現した実績も忘れてはいけない。
■■
私がずっとこだわってきた「反戦な家づくり」ということと「木の家」ということが,ここでハッキリと結びついたような気がする。
「木の家」というのは,様々な科学的・工学的な説明もあるけれども,つまるところ信仰心だと思う。
家になってくれる木に,手を合わせて住んでほしいということ。
しかし,それだけではその信仰心は,命を本当に大切にする保証はない。
天皇教というウイルスに対する抵抗力は極めて弱い。
だから,もう一つ「反戦な家づくり」というキーワードが必要になる。
そんな思いで,これからも木の家づくりをしていきたいと思う。
そして,自覚的無自覚的に日本のアイデンティティで悩むすべての人は,天皇教によってうち捨てられた心情を取り戻さなくては救われない。
そのためには,まず天皇教をきちんと批判できるところまで,洗脳を解除しなくてはならない。
早晩,麻生政権はみじめな終末を迎えるだろう。
その時が,チャンスでもありピンチでもある。
万が一,天皇教を守護としたファシズムがしゃしゃり出てきたとき,自信をもって否定できるようにすること。
それが,木を崇拝する木の家づくりの実践なのだろう。
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