2009-03-14(Sat)
建築士という仕事
昔からよく言う話。
「一級建築士とかけて足の裏についたご飯粒と解く」
その心は
「とらなくちゃ気持ち悪いが、とっても食えない」
このご時世で、一層実感がこもってきた。
高度経済成長の名残がある頃は、名義貸しなどが公然と行われて、結構な実入りになっていたという。
しかし、今や名義貸しなんかしたら命取りだ。
2007年に建築基準法と建築士法が変わった。
官僚のイイワケ作りのために、建築業界は大混乱した。
倒産した会社もたくさんあったはずだ。
そして、役人が投げ捨てた責任は、すべて建築士に押しつけられた。
建築業界の古い体質については、なんやかんやと話題になる。
が、その最たるものが建築確認だということはあまり指摘されない。
普通の人は建築許可だと思っているけれども、ほとんどの建築は許可はいらない。
「許可」ではなく「自己責任」なのである。
「許可」してしまうと、その内容に役所が責任を取らなくてはならない。
だから「許可」はしない。あくまで、何が起ころうと自己責任だ。
そのくせ、ほとんど許可と変わらないくらいの規制はされる。
それも、以前は「何がダメ」とか「こうした方が良い」とか内容を指摘していたのが、法改定後は原則として内容の指摘もしない。
自主的に規制内容に合致させよ ということ。
合致していなければ見ない。差し戻し。
却下ですらない。却下という責任すら取らない。
これが、「確認申請」といわれる代物。
許可ではなく確認。
「確認しただけ。見ただけ。あとで何かあってもそれは申請した建築士の責任。」
「法規だけでなく、役人が勝手に決めた内規にも合致していなければ確認しない。見ないから持って帰れ。」
2007年以降、役所の免責を徹底させた裏で、一級建築士の免許取消や営業停止の処分は激増した。
2006年にはゼロだったものが、2007年21件、2008年31件。
もちろん、悪質なものもあるし、処分されて当然の連中も多数いることは承知している。
が、役所、デベロッパー、工務店、建築士 という業界関係者の中で、いちばん立場が弱く金もなく責任だけがたくさんある建築士に、全部責任を押しつけようという意図がありありなのである。
まるで、東京地検が、自民党は無視して、民主党だけに手を下すように、実権を持っている連中を野放しにして、正論を吐いたらオマンマ食い上げになる設計事務所を狙い撃ちにしている。
重ねて言うが、設計事務所の不正を正当化するわけではない。
言いたいのは、一番実権をもっているデベロッパーやゼネコンを、あるいは不動産金融セクションを放置しておいて、末端の設計事務所に悪役を押しつけることの不当さだ。
同業の友人が設計料を時給に換算してみたところ、1500円だったという。
これを高いと見るか安いと見るか、意見はあるだろう。
コンスタントに設計依頼があったとしても、週40時間で6万円、月に25万足らず。
(実際は、食っていくためには不眠不休で時間を稼がなくてはならない。)
これで、家一軒の構造、使い勝手、健康、デザインなどなど、全般にわたって責任を問われる。
先日たまたま友人の依頼で図面作成のちょい仕事をした。
他人の考えたプランを、図面に落とすだけの単純作業だから、「仕事くれた人には申し訳ないけれども、つまらないだろうな」と思いながら手を付けた。
ところが、意外な感情に自分でびっくりした。結構楽しいのである。
やってみて気がついたのは、ものすごく気楽なのだ。
もちろん、正確に書かなくてはならないという緊張はあるけれども、自分で設計するときの緊張感とは比べものにならない。
その気楽さが、ここ数年ずっと緊張し続けてきた心に、ちょっとした解放感をあたえたらしい。
駆け出しの頃はマンションや学校の設計にも携わったし、一時期は店舗デザインばかりしていたこともある。
設計ばかりでなく、夜に設計した図面を、昼は自分で現場監督していたこともある。
いろいろやってみた中でも、住宅の設計は本当におもしろい。
天職かな と思うときもある。
お施主さんも十人十色だけれども、ありがたいことに、とてもいい人たちと出会うことができている。
こんなに恵まれていていいのかな、と思うときもある。
その一方で、責任の広さに戸惑うことも多い。
住宅は生活の場、人の容れ物だけに、ありとあらゆることが関わってくる。
しかし、こちとら生身の人間に過ぎない。そのギャップにクラクラしながらも、なんとか対応しようともがいてきた。
業界をちょっと知っている人ならば分かる話だが、ゼネラリストの建築家なんて売れない。
一点突破こそが、メジャーへの一里塚。
デザイン、構造、間取り、断熱、素材(健康)、耐久性、環境、価格。ちょっと考えただけでも、住宅の要素はたくさんある。
どれかに飛び抜けている人はたくさんいるが、このすべてにこだわってつくっている人を、私は寡聞にして知らない。
そんな、非効率な営業戦略をとる人は滅多にいないし、また、一人の人間の限界を超えている。
では、チームでやればいいのかというと、やはり統括する人間がいないとチグハグな家になってしまう。
しかも、一芸に秀でた人は既に名をなしているので、他のプロデューサーの下で働くことを望まない。
結局、トータルにいい家を供給する体制は、今の日本には、無いかもしれない。
自分でやってきた仕事を振り返って、正直言って「これは凄い!」と飛び上がって叫ぶようなことは何もない。
デザインはシンプルにして「はずさない」ということをガイドラインにしてきた。店舗デザインをしていた頃は、壁の角をどう見せるかで一晩も二晩も悩んだりした。神は細部に宿る なんて言う言葉も承知はしているけれども、今そんなことをしていたら他のことを考えられない。
それは、結局家をダメにしてしまう。
構造は、いろんな要素の中ではこだわってきた。
なにせ、2階建ての木造住宅は構造計算をせずに建てる。普通は。
それで良いのかな という思いが高じて、自分で構造計算をするようになり、一通りのことはできるようになった。
また、木造の場合、計算に出てこない様々な要素が強度に影響する。
構造面では、神は細部に宿る を実践しているかもしれない。
間取りも、相当時間をかける。間取りは人間の生活そのものだから。
視線と動線をコントロールすることが、人と家の関係の基本。
それに、空間を切り取ることは、家の内観デザインでもある。
断熱は最近はやりだけれども、ほどほどにしている。
気をつけているのは3点。
湿気を調節することと、蓄熱すること、それに体に悪くないこと。
湿度の温度のバンパーになるということなんだけれども、詳細はここでは省く。
素材の力は、健康に影響するだけでなく、空間の質を決めてしまう。
日進月歩でいろんなものが登場するが、全部試してみることはできないので、体験的にいいものを使い続けている。
木、紙、土、石。組み合わせを間違えなければ、ディティールの甘さを補ってあまりある空間を構成してくれる。
耐久性で一番の問題は基礎のコンクリート、ということに住宅屋さんは無頓着だ。
環境を売りにする業者は星の数ほどいる。
杉花粉をまき散らす日本の山と、どう関係するのか。
山を美化するのも嘘。山のおいしいとこだけ持って行くのは詐欺。
コスト。生来の貧乏性が、吉と出るか凶と出るか。
とにかく、あまり高いものは使わない。
有名建築家のように、施主の金で芸術作品をつくろうという算段はしていない。
それぞれの分野で、もっとこうすれば、もっとああすれば、思うことはたくさんあるけれども、一つにこだわりすぎで大きな穴が開かないようにしてきたつもりだ。
そのことを問われる家が、この3月と4月に竣工する。
2軒とも、私が設計した中では大きい家。ややお金もかかっているし、デザインの遊びもちょっとある。
その一方で、スタンダードにしてきた要素の真価も問われる。
このさい、ちょっと宣伝をしておくと、3月29日と4月19日に、これら家の完成見学会をするので、興味のある人は、メールなどで問い合わせてください。
てなことも言いつつ、この大不況を生き抜くためには、こうした少々お金をかけた家ばかりではいけないとも思っている。
家賃並みのローンを60歳まで払えば完済できる程度のローンで、職場まで通勤できて、構造と健康の安全は確保されていて、おまけに庭で食糧自給できる。
こんな「大不況に生き抜く家」の供給。これは、一人ではできないので、友人の不動産屋と共同で取り組んでいる。
工夫すれば、結構いろんな可能性がある。
大不況は、狙い違わず建築業界を直撃している。
相当深刻な近未来が迫ってきている。
大不況を生き抜くのは、他人事ではない。
この苦しくて希薄な空気の中に私は、なぜかうっすらと生き甲斐を感じてしまう。
「一級建築士とかけて足の裏についたご飯粒と解く」
その心は
「とらなくちゃ気持ち悪いが、とっても食えない」
このご時世で、一層実感がこもってきた。
高度経済成長の名残がある頃は、名義貸しなどが公然と行われて、結構な実入りになっていたという。
しかし、今や名義貸しなんかしたら命取りだ。
2007年に建築基準法と建築士法が変わった。
官僚のイイワケ作りのために、建築業界は大混乱した。
倒産した会社もたくさんあったはずだ。
そして、役人が投げ捨てた責任は、すべて建築士に押しつけられた。
建築業界の古い体質については、なんやかんやと話題になる。
が、その最たるものが建築確認だということはあまり指摘されない。
普通の人は建築許可だと思っているけれども、ほとんどの建築は許可はいらない。
「許可」ではなく「自己責任」なのである。
「許可」してしまうと、その内容に役所が責任を取らなくてはならない。
だから「許可」はしない。あくまで、何が起ころうと自己責任だ。
そのくせ、ほとんど許可と変わらないくらいの規制はされる。
それも、以前は「何がダメ」とか「こうした方が良い」とか内容を指摘していたのが、法改定後は原則として内容の指摘もしない。
自主的に規制内容に合致させよ ということ。
合致していなければ見ない。差し戻し。
却下ですらない。却下という責任すら取らない。
これが、「確認申請」といわれる代物。
許可ではなく確認。
「確認しただけ。見ただけ。あとで何かあってもそれは申請した建築士の責任。」
「法規だけでなく、役人が勝手に決めた内規にも合致していなければ確認しない。見ないから持って帰れ。」
2007年以降、役所の免責を徹底させた裏で、一級建築士の免許取消や営業停止の処分は激増した。
2006年にはゼロだったものが、2007年21件、2008年31件。
もちろん、悪質なものもあるし、処分されて当然の連中も多数いることは承知している。
が、役所、デベロッパー、工務店、建築士 という業界関係者の中で、いちばん立場が弱く金もなく責任だけがたくさんある建築士に、全部責任を押しつけようという意図がありありなのである。
まるで、東京地検が、自民党は無視して、民主党だけに手を下すように、実権を持っている連中を野放しにして、正論を吐いたらオマンマ食い上げになる設計事務所を狙い撃ちにしている。
重ねて言うが、設計事務所の不正を正当化するわけではない。
言いたいのは、一番実権をもっているデベロッパーやゼネコンを、あるいは不動産金融セクションを放置しておいて、末端の設計事務所に悪役を押しつけることの不当さだ。
同業の友人が設計料を時給に換算してみたところ、1500円だったという。
これを高いと見るか安いと見るか、意見はあるだろう。
コンスタントに設計依頼があったとしても、週40時間で6万円、月に25万足らず。
(実際は、食っていくためには不眠不休で時間を稼がなくてはならない。)
これで、家一軒の構造、使い勝手、健康、デザインなどなど、全般にわたって責任を問われる。
先日たまたま友人の依頼で図面作成のちょい仕事をした。
他人の考えたプランを、図面に落とすだけの単純作業だから、「仕事くれた人には申し訳ないけれども、つまらないだろうな」と思いながら手を付けた。
ところが、意外な感情に自分でびっくりした。結構楽しいのである。
やってみて気がついたのは、ものすごく気楽なのだ。
もちろん、正確に書かなくてはならないという緊張はあるけれども、自分で設計するときの緊張感とは比べものにならない。
その気楽さが、ここ数年ずっと緊張し続けてきた心に、ちょっとした解放感をあたえたらしい。
駆け出しの頃はマンションや学校の設計にも携わったし、一時期は店舗デザインばかりしていたこともある。
設計ばかりでなく、夜に設計した図面を、昼は自分で現場監督していたこともある。
いろいろやってみた中でも、住宅の設計は本当におもしろい。
天職かな と思うときもある。
お施主さんも十人十色だけれども、ありがたいことに、とてもいい人たちと出会うことができている。
こんなに恵まれていていいのかな、と思うときもある。
その一方で、責任の広さに戸惑うことも多い。
住宅は生活の場、人の容れ物だけに、ありとあらゆることが関わってくる。
しかし、こちとら生身の人間に過ぎない。そのギャップにクラクラしながらも、なんとか対応しようともがいてきた。
業界をちょっと知っている人ならば分かる話だが、ゼネラリストの建築家なんて売れない。
一点突破こそが、メジャーへの一里塚。
デザイン、構造、間取り、断熱、素材(健康)、耐久性、環境、価格。ちょっと考えただけでも、住宅の要素はたくさんある。
どれかに飛び抜けている人はたくさんいるが、このすべてにこだわってつくっている人を、私は寡聞にして知らない。
そんな、非効率な営業戦略をとる人は滅多にいないし、また、一人の人間の限界を超えている。
では、チームでやればいいのかというと、やはり統括する人間がいないとチグハグな家になってしまう。
しかも、一芸に秀でた人は既に名をなしているので、他のプロデューサーの下で働くことを望まない。
結局、トータルにいい家を供給する体制は、今の日本には、無いかもしれない。
自分でやってきた仕事を振り返って、正直言って「これは凄い!」と飛び上がって叫ぶようなことは何もない。
デザインはシンプルにして「はずさない」ということをガイドラインにしてきた。店舗デザインをしていた頃は、壁の角をどう見せるかで一晩も二晩も悩んだりした。神は細部に宿る なんて言う言葉も承知はしているけれども、今そんなことをしていたら他のことを考えられない。
それは、結局家をダメにしてしまう。
構造は、いろんな要素の中ではこだわってきた。
なにせ、2階建ての木造住宅は構造計算をせずに建てる。普通は。
それで良いのかな という思いが高じて、自分で構造計算をするようになり、一通りのことはできるようになった。
また、木造の場合、計算に出てこない様々な要素が強度に影響する。
構造面では、神は細部に宿る を実践しているかもしれない。
間取りも、相当時間をかける。間取りは人間の生活そのものだから。
視線と動線をコントロールすることが、人と家の関係の基本。
それに、空間を切り取ることは、家の内観デザインでもある。
断熱は最近はやりだけれども、ほどほどにしている。
気をつけているのは3点。
湿気を調節することと、蓄熱すること、それに体に悪くないこと。
湿度の温度のバンパーになるということなんだけれども、詳細はここでは省く。
素材の力は、健康に影響するだけでなく、空間の質を決めてしまう。
日進月歩でいろんなものが登場するが、全部試してみることはできないので、体験的にいいものを使い続けている。
木、紙、土、石。組み合わせを間違えなければ、ディティールの甘さを補ってあまりある空間を構成してくれる。
耐久性で一番の問題は基礎のコンクリート、ということに住宅屋さんは無頓着だ。
環境を売りにする業者は星の数ほどいる。
杉花粉をまき散らす日本の山と、どう関係するのか。
山を美化するのも嘘。山のおいしいとこだけ持って行くのは詐欺。
コスト。生来の貧乏性が、吉と出るか凶と出るか。
とにかく、あまり高いものは使わない。
有名建築家のように、施主の金で芸術作品をつくろうという算段はしていない。
それぞれの分野で、もっとこうすれば、もっとああすれば、思うことはたくさんあるけれども、一つにこだわりすぎで大きな穴が開かないようにしてきたつもりだ。
そのことを問われる家が、この3月と4月に竣工する。
2軒とも、私が設計した中では大きい家。ややお金もかかっているし、デザインの遊びもちょっとある。
その一方で、スタンダードにしてきた要素の真価も問われる。
このさい、ちょっと宣伝をしておくと、3月29日と4月19日に、これら家の完成見学会をするので、興味のある人は、メールなどで問い合わせてください。
てなことも言いつつ、この大不況を生き抜くためには、こうした少々お金をかけた家ばかりではいけないとも思っている。
家賃並みのローンを60歳まで払えば完済できる程度のローンで、職場まで通勤できて、構造と健康の安全は確保されていて、おまけに庭で食糧自給できる。
こんな「大不況に生き抜く家」の供給。これは、一人ではできないので、友人の不動産屋と共同で取り組んでいる。
工夫すれば、結構いろんな可能性がある。
大不況は、狙い違わず建築業界を直撃している。
相当深刻な近未来が迫ってきている。
大不況を生き抜くのは、他人事ではない。
この苦しくて希薄な空気の中に私は、なぜかうっすらと生き甲斐を感じてしまう。
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