2009-04-14(Tue)
なんで国産の木の家にこだわるのか
昨日、林業体験ツアーを行った。
お金を出して宣伝もできないので、自己流でプレスリリースを作って新聞各社に流したところ、朝日の地方版に出たようなのだけれど、反響はごく僅かだった。
結局、家づくりに関することは、ものすごく警戒心が強くなっているのだろうと思う。
何を言っても、皆さん裏の裏を読んでいるから、なかなか信頼してもらえない。
その意味では、価値観の共感を得ることが、唯一の方法なのだろうと思う。
国産材とか森林保護とかの一般的なメッセージはもちろん基本だが、そのくらいの今や「誰でも言っている」言葉だけでは、強い共感には至らない。
メッセージとは、言い換えれば「社会的な意義」とも言えるかもしれない。
ちょっと偉そうな言い方だけど。
私たち自身が、なんで木の家にこだわっているのか、ということです。
なんとなく木が好きだからとか、たまたまご縁があったから、というのがキッカケではあるけれど、それにとどまらない意義を感じているか、目指しているかということ。
私の場合は、
①木の家は人を元気にしてくれるという実感
②国土の4分の1に植林してしまった以上は、我々の世代が責任を取らなくてはならないという責任感
③高収入でない普通の人でも木の家に住めるようにしたいという使命感
そしてもちろん、
④木の家づくりで飯を食えれば幸せという希望
①について切実に思うのは、子どものストレス。小学生の10人に1人、中学生の4人に1人がウツの傾向があるという新聞記事が少し前にあった。
日々慌ただしく、しかも将来に希望のもてない現在の子どもの生活を見ていると、無理もないなと思う。
そんな子どもたちのストレスを,少しでも和らげることができないか。
また、子どもにストレスを与えている大人の気持ちを少しでも大らかにすることはできないか。
これは、素材としての木という面と、産地との結びつきという面の両方からアプローチできると思う。理屈はいろいろあるけど、これまでの実践から確信めいたモノがある。
②については、木が売れない、という点ではどこの産地も例外なく危機感は持っているが、かつての国策である拡大造林の功罪踏み込んでいる例はあまりないように見受けられる。
先日、ある林業家の話を聞いた。その中で印象的だったのは、戦争中の供出で良い木の多くが取られてしまったこと、戦後の拡大造林で南斜面などの植えるべきではない場所にどんどん植林されたせいで花粉症の原因になってしまったことなどなど。
森は、私有地であっても良くも悪しくも社会的な存在だ。プラス面もマイナス面も含めて、これからの森をつくるために家をつくる人に協力してもらう、というのが国産材を使う ということだと思う。
その時々の国策に左右されずに、「どんな森にするのか」というビジョンを持ち、その実現のために山のサイドも街のサイドも協力していこうよ、というのがあるべき姿ではないだろうか。
③については、近頃つくづく思っている。木の家を建てる人は、どうしてもある程度の資産や収入のある人になっている。もちろん、それもありがたいことだし楽しい仕事だけれども、しかし「金のないモンはタ○ホーム」で良いとも思えない。
これまでも多くの会社やグループがローコスト住宅に取り組んできたけれども、どれも物質としての価格のみ求めて「価値」が抜けていたように思える。
価格を下げられる「価値観」があって、はじめて本来のローコストがあるはず。
分かりやすく言えば、優先順位の付けかた。
ローコストにする以上は、犠牲にする部分も当然必要。それを、きっちりと納得する(してもらう)ための価値観がまず必要。
そこで犠牲を受け入れることなくローコストに踏み込むと、品質低下と値切りというどうしようもない道に進んでしまう。
④については、この因果な業界はなんとかならんのか、という思いでもある。普通に働けば普通に食える、という当たり前の世界がなんと遠いことか。
立木から竣工までの流れ全体を考え直さなければならないのではないか。そんな気がしている。
だんだん、とりとめがなくなってきた。
本日はこれまでにて。
お金を出して宣伝もできないので、自己流でプレスリリースを作って新聞各社に流したところ、朝日の地方版に出たようなのだけれど、反響はごく僅かだった。
結局、家づくりに関することは、ものすごく警戒心が強くなっているのだろうと思う。
何を言っても、皆さん裏の裏を読んでいるから、なかなか信頼してもらえない。
その意味では、価値観の共感を得ることが、唯一の方法なのだろうと思う。
国産材とか森林保護とかの一般的なメッセージはもちろん基本だが、そのくらいの今や「誰でも言っている」言葉だけでは、強い共感には至らない。
メッセージとは、言い換えれば「社会的な意義」とも言えるかもしれない。
ちょっと偉そうな言い方だけど。
私たち自身が、なんで木の家にこだわっているのか、ということです。
なんとなく木が好きだからとか、たまたまご縁があったから、というのがキッカケではあるけれど、それにとどまらない意義を感じているか、目指しているかということ。
私の場合は、
①木の家は人を元気にしてくれるという実感
②国土の4分の1に植林してしまった以上は、我々の世代が責任を取らなくてはならないという責任感
③高収入でない普通の人でも木の家に住めるようにしたいという使命感
そしてもちろん、
④木の家づくりで飯を食えれば幸せという希望
①について切実に思うのは、子どものストレス。小学生の10人に1人、中学生の4人に1人がウツの傾向があるという新聞記事が少し前にあった。
日々慌ただしく、しかも将来に希望のもてない現在の子どもの生活を見ていると、無理もないなと思う。
そんな子どもたちのストレスを,少しでも和らげることができないか。
また、子どもにストレスを与えている大人の気持ちを少しでも大らかにすることはできないか。
これは、素材としての木という面と、産地との結びつきという面の両方からアプローチできると思う。理屈はいろいろあるけど、これまでの実践から確信めいたモノがある。
②については、木が売れない、という点ではどこの産地も例外なく危機感は持っているが、かつての国策である拡大造林の功罪踏み込んでいる例はあまりないように見受けられる。
先日、ある林業家の話を聞いた。その中で印象的だったのは、戦争中の供出で良い木の多くが取られてしまったこと、戦後の拡大造林で南斜面などの植えるべきではない場所にどんどん植林されたせいで花粉症の原因になってしまったことなどなど。
森は、私有地であっても良くも悪しくも社会的な存在だ。プラス面もマイナス面も含めて、これからの森をつくるために家をつくる人に協力してもらう、というのが国産材を使う ということだと思う。
その時々の国策に左右されずに、「どんな森にするのか」というビジョンを持ち、その実現のために山のサイドも街のサイドも協力していこうよ、というのがあるべき姿ではないだろうか。
③については、近頃つくづく思っている。木の家を建てる人は、どうしてもある程度の資産や収入のある人になっている。もちろん、それもありがたいことだし楽しい仕事だけれども、しかし「金のないモンはタ○ホーム」で良いとも思えない。
これまでも多くの会社やグループがローコスト住宅に取り組んできたけれども、どれも物質としての価格のみ求めて「価値」が抜けていたように思える。
価格を下げられる「価値観」があって、はじめて本来のローコストがあるはず。
分かりやすく言えば、優先順位の付けかた。
ローコストにする以上は、犠牲にする部分も当然必要。それを、きっちりと納得する(してもらう)ための価値観がまず必要。
そこで犠牲を受け入れることなくローコストに踏み込むと、品質低下と値切りというどうしようもない道に進んでしまう。
④については、この因果な業界はなんとかならんのか、という思いでもある。普通に働けば普通に食える、という当たり前の世界がなんと遠いことか。
立木から竣工までの流れ全体を考え直さなければならないのではないか。そんな気がしている。
だんだん、とりとめがなくなってきた。
本日はこれまでにて。
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