2010-02-15(Mon)
「正義」という幻想から逃げだそう
あまり時間がないのに、つい書き始めてしまった。
しかも、こんなテーマで・・・
結論から言ってみる。
絶対的、普遍的な正義、つまり、誰にとっても正義 なんてものは無い。
私にとっての正義、あなたにとっての正義はあるかもしれない。
しかし、所詮この世は利害が絡まり合い、相反しながら皆が生きている。
だから、絶対的な正義なんて無い。
いや、人殺しをしない なんていうのは絶対の正義だ というかもしれない。
しかしどうだ。
核廃絶を叫ぶオバマがしていることは何か?
連日連夜、殺し続けている。「正義」のために。
これは、一部のアメリカ人にとっては正義の戦争、正義の人殺しなのである。
もろちん、それ以外のほとんどの人にとっては正義のわけはないが、オバマや一部アメリカ人やイスラエルにとっては、非常な虐殺行為でさえ正義なのである。
小沢氏を巡る検察の暴走だって、彼らにとっては正義なのはたしかだ。
正義のためにはどんな不正な手段をとっても、彼らには何の良心の呵責もない。
テレビ番組だって、正義の味方はみんな暴力的だ。
仮面ライダーから湾岸警察に至るまで、平気で被疑者を殴りつける。
それで、溜飲を下げる国民性があるのだから、検察が女性秘書を10時間も監禁しても、誉められこそすれ非難されるなんて露ほども思っていないのは間違いない。
そもそも、民主主義というものは、利害が対立して、絶対的な正義なんて無いからこそ、その調整手段として存在するのではないか。
選挙で多数を取ったものの正義が優先され、負けたものはガマンする。
それにしたって、ガマンの限度を超えたら暴動やクーデターが起きて、民主主義は限界を露呈する。
民主主義は、負けたものが受忍限度ギリギリで生きていくことも保障しなくては、成立しない。
ところが、日本の場合、絶対の真理や正義があるかのように思っている人が多いように見える。
少なくとも、戦前はそうだし、戦後の自民党時代もそのように思わされてきた。
でも、公教育やマスコミなんかで流される正義は、あくまでも「その時代」の「支配者」の正義にすぎない。
時代と支配者にカッコをつけたのは、その両方に意味があるからだ。
支配者 は言うまでもない。その勢力の利害に合った「正義」だとういこと。
もうひとつ、時代 は、その時代背景や時代の特徴に合った「正義」だということだ。
前のエントリーで書いた「クリーンな政治」や「クリーンな入札」なんていうのも、そういうこと。
これらは、経済が成長していて、みんながそこそこ食っていける時代の産物だ。
強大な力をもった支配者が、それなりに食っていける民衆を押さえつけるためのイデオロギーだ。
隠然とした力関係を、微動だにさせないための正義なのである。
その意味では、こうした「正義」といのは、常に唱えられるけれども、一度たりとも実現したことはない、というのも明確な特徴である。
クリーンな政治やクリーンな入札なんて、社会の仕組みとしては一度たりとも機能したことはない。
したことなないからこそ、それを隠して幻想を見せ、文句を言わせないために「クリーン」などと言うのである。
わずかでも談合のない入札が機能し始めたのは、今世紀に入ってからだろう。ほんの10年ばかりのこと。
きわめて不完全だけれども、でも、談合に加わらないものが出てきて、価格破壊がおきたのはたしかだ。
それは、ゼネコンが正義に目覚めたからではなく、長引く不況が深刻で、談合で順番に仕事していたのでは食っていけなくなったからだ。
そこで、談合破りが登場し、われ勝ちの弱肉強食になだれ込んでいったのである。
結果、クリーンな入札は、中小の建設会社を打ちのめし、デフレスパイラルを推し進めることになった。
だから、クリーンな入札なんていう仕組みは、歴史上、一度たりともその有効性を証明できたことはないのである。
クリーンな政治も、言うに及ばず。
企業献金の廃止も、たしかに必要かとも思うが、結局は別の形をとって継続するだろうし、そのことでどの政治家を誰が応援しているのか見えなくなることの方が、害が大きいように思う。
例えば、株式会社○○が献金していれば分かりやすいが、社長や社員の個人献金になったら、国民にはそれが誰なのか分からない。
社長が社員に献金を呼びかけて、奉加帳をまわしても、それ自体は違法ではないだろう。
それが、人事評価にどう影響したかなんて、証明することはほとんど不可能だ。
と、まあそんなわけだから、検察の横暴を非難する気持ちはもちろんあるけれども、大事なことは、検察は「検察庁の正義」で行動しているのであって、それが「自分の正義」とは違うということだ。
もちろん、検察やマスゴミや自民党やアメリカだけではく、民主党や社民党や、あらゆるものにそうした目をもって、自分の考えを持つことだろう。
安定した時代には、それはとても難しいことだけれども、こんな混乱した時代は、むしろ頭を柔らかくするチャンスなんじゃあななろうか。
そう思うと、この世もちょっと楽しくなるような気がする。

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しかも、こんなテーマで・・・
結論から言ってみる。
絶対的、普遍的な正義、つまり、誰にとっても正義 なんてものは無い。
私にとっての正義、あなたにとっての正義はあるかもしれない。
しかし、所詮この世は利害が絡まり合い、相反しながら皆が生きている。
だから、絶対的な正義なんて無い。
いや、人殺しをしない なんていうのは絶対の正義だ というかもしれない。
しかしどうだ。
核廃絶を叫ぶオバマがしていることは何か?
連日連夜、殺し続けている。「正義」のために。
これは、一部のアメリカ人にとっては正義の戦争、正義の人殺しなのである。
もろちん、それ以外のほとんどの人にとっては正義のわけはないが、オバマや一部アメリカ人やイスラエルにとっては、非常な虐殺行為でさえ正義なのである。
小沢氏を巡る検察の暴走だって、彼らにとっては正義なのはたしかだ。
正義のためにはどんな不正な手段をとっても、彼らには何の良心の呵責もない。
テレビ番組だって、正義の味方はみんな暴力的だ。
仮面ライダーから湾岸警察に至るまで、平気で被疑者を殴りつける。
それで、溜飲を下げる国民性があるのだから、検察が女性秘書を10時間も監禁しても、誉められこそすれ非難されるなんて露ほども思っていないのは間違いない。
そもそも、民主主義というものは、利害が対立して、絶対的な正義なんて無いからこそ、その調整手段として存在するのではないか。
選挙で多数を取ったものの正義が優先され、負けたものはガマンする。
それにしたって、ガマンの限度を超えたら暴動やクーデターが起きて、民主主義は限界を露呈する。
民主主義は、負けたものが受忍限度ギリギリで生きていくことも保障しなくては、成立しない。
ところが、日本の場合、絶対の真理や正義があるかのように思っている人が多いように見える。
少なくとも、戦前はそうだし、戦後の自民党時代もそのように思わされてきた。
でも、公教育やマスコミなんかで流される正義は、あくまでも「その時代」の「支配者」の正義にすぎない。
時代と支配者にカッコをつけたのは、その両方に意味があるからだ。
支配者 は言うまでもない。その勢力の利害に合った「正義」だとういこと。
もうひとつ、時代 は、その時代背景や時代の特徴に合った「正義」だということだ。
前のエントリーで書いた「クリーンな政治」や「クリーンな入札」なんていうのも、そういうこと。
これらは、経済が成長していて、みんながそこそこ食っていける時代の産物だ。
強大な力をもった支配者が、それなりに食っていける民衆を押さえつけるためのイデオロギーだ。
隠然とした力関係を、微動だにさせないための正義なのである。
その意味では、こうした「正義」といのは、常に唱えられるけれども、一度たりとも実現したことはない、というのも明確な特徴である。
クリーンな政治やクリーンな入札なんて、社会の仕組みとしては一度たりとも機能したことはない。
したことなないからこそ、それを隠して幻想を見せ、文句を言わせないために「クリーン」などと言うのである。
わずかでも談合のない入札が機能し始めたのは、今世紀に入ってからだろう。ほんの10年ばかりのこと。
きわめて不完全だけれども、でも、談合に加わらないものが出てきて、価格破壊がおきたのはたしかだ。
それは、ゼネコンが正義に目覚めたからではなく、長引く不況が深刻で、談合で順番に仕事していたのでは食っていけなくなったからだ。
そこで、談合破りが登場し、われ勝ちの弱肉強食になだれ込んでいったのである。
結果、クリーンな入札は、中小の建設会社を打ちのめし、デフレスパイラルを推し進めることになった。
だから、クリーンな入札なんていう仕組みは、歴史上、一度たりともその有効性を証明できたことはないのである。
クリーンな政治も、言うに及ばず。
企業献金の廃止も、たしかに必要かとも思うが、結局は別の形をとって継続するだろうし、そのことでどの政治家を誰が応援しているのか見えなくなることの方が、害が大きいように思う。
例えば、株式会社○○が献金していれば分かりやすいが、社長や社員の個人献金になったら、国民にはそれが誰なのか分からない。
社長が社員に献金を呼びかけて、奉加帳をまわしても、それ自体は違法ではないだろう。
それが、人事評価にどう影響したかなんて、証明することはほとんど不可能だ。
と、まあそんなわけだから、検察の横暴を非難する気持ちはもちろんあるけれども、大事なことは、検察は「検察庁の正義」で行動しているのであって、それが「自分の正義」とは違うということだ。
もちろん、検察やマスゴミや自民党やアメリカだけではく、民主党や社民党や、あらゆるものにそうした目をもって、自分の考えを持つことだろう。
安定した時代には、それはとても難しいことだけれども、こんな混乱した時代は、むしろ頭を柔らかくするチャンスなんじゃあななろうか。
そう思うと、この世もちょっと楽しくなるような気がする。

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