2010-09-27(Mon)
だれが平和を守るのか
今回の尖閣問題で、「自主防衛」論が盛り上がっている。
ツイッター大王(?)の岩上安身さん然り、決然と内閣を去った原口さん然り。
たしかに、アメリカに守ってもらうという幻想(日米安保)が、全ての戦後を作り出してきた。
良い意味では平和で戦争がなかったと言われ、悪い意味では対米従属を骨身にたたき込まれたと言われる。
悪い方の意味は確かにその通りだ。
今の日本社会に影響力のある政治、行政(官僚)、経済、マスコミ、司法、そのすべてがアメリカ抜きでは夜も日も明けない。
では、良い意味のほうは言葉通りとっても良いのだろうか。
愚かな戦争の後、アメリカによって日本が武装解除されたのは間違いない。
負けても往生際の悪い連中に対して、今の憲法を押しつけたのもアメリカだ。
敗戦後も獄中に放置された政治犯を、真っ先に解放したのもアメリカだった。
これを、どうとらえるか、が大事なのだと思う。
武装解除し、憲法を押しつけ、政治犯を解放したことについて、「余計なことをしやがって」と怒るのか、「アメリカさんありがとう」と感謝するのか。
日本の主流は、長らく「アメリカさんありがとう」だった。
これは、自民党から共産党まで、共通している。
建前はともかく、本音は皆そうだった。
そんななかで、「余計なことをしやがって」と怒る連中は、反米右翼といわれた。
分かりやすく言えば、あの愚かな戦争を正しい戦争だったと言い張る馬鹿者どものこと。
この連中は、自民党の一部や、裏社会や宗教の姿をとって、隠然と勢力を保ってきた。
1980年代までの日本は、およそそういう構図だった。
■■
だが、ここで日本人は大反省をするべきだと、私は思う。
武装解除され、憲法を押しつけられ、政治犯の解放もしてもらったアメリカに対して、「ありがとう」と「けしからん」だけしか、ないのか??
日本の文化は恥の文化だとか言うけれども、なんでこのときに「恥ずかしい」と思わなかったのだろうか。
戦争を食い止めることもできなかった。
ゲンバクを二つも落とされるまで止めさせることもできなかった。
旧泰然たる政治家に任せっきりで名実ともに新しい憲法を自分たちで作ることもできなかった。
戦争に反対してつかまっていた政治犯を自分たちで解放することも忘れていた。
戦争犯罪人を自ら裁くこともできなかった。
つまり、戦争を反省することができなかった。
日本人は戦争を反省していない。
反戦をいう人ですら、その多くが反省していない。
その証拠が、終戦 という言い方だ。
自分たちの力で終わらせることすらできなかった、という痛切な反省がないから、平気で「終戦」なんていう言葉を使う。
憲法を押しつけられたことで、くだらないプライドを傷つけられたことなどどうでもいい。
それよりも、かろうじて戦犯をのがれた戦争時のままの政治家を引きずり下ろして、自分たちの力で新憲法、平和憲法を作れなかったことを、恥と痛みをもって反省するべきだ。
政治犯の解放を忘れていた、ということは、本当に日本民衆史の汚点だ。
戦争を終わらせられたとき、日本の民衆がいかに無策であったか、無力であったかということを、如実に示している。
東京裁判も、反米右翼は批判するのがダイスキだ。
しかし、私の言いたい批判は中身が違う。
なんで、日本の民衆も被告であると同時に原告として臨めなかったのか。
戦争に引っ張り込んだ張本人を、引きずり出して八つ裂きにするくらいの気持ちをもてなかったのか。
なによりも、天皇の責任を不問にしたことが、諸悪の根源だ。
こんなアイマイなことを国家の柱として押し通してしまったから、戦後の日本はアイマイの国になってしまった。
本音と建て前を使い分けるのがアタリマエの国になってしまった。
一番エライ人が一番汚いことをする、一番汚いことをした人が一番偉そうにする、という心の底の共通認識ができてしまった。
そうして、日本人は反省をせずに、形だけ転換した。
昨日まで鬼畜米英を叫んでいた教師が、民主主義を教え始めた。
戦争を反省しなかったのは、なにも反米右翼ばかりではなかったのだ。
きっちりと血のにじむ反省していれば、実はアメリカが戦争を仕掛けたということも堂々と指摘できるし、どの国に対しても言うべきことは言える。
それをしていないから、そもそも恥という観念のない反米右翼以外は、ものの言えない従属的な国民性を身につけてしまった。
■■
では、血のにじむ反省の行き着く先はどこなのか。
私は、それはたしかに「自主防衛」なのだとおもう。
ただし、「自主」は本当に「自分」だ。
誰かがやってくれるのではなく、「自分」だ。
「防衛」する対象もまた、「自分」だ。
国というアイマイなものではない。
民主主義において、国というのは手段であって目的ではない。
and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth
リンカーンは、南北戦争の戦没者の追悼でこの演説をした。
for the people なのであって、for the nation ではない。
リンカーンを正当化するつもりではなく、この時代から、民主主義を標榜するのであれば、国は目的ではなく手段だったということ。
だから、防衛する対象は、断じて国ではない。民衆であり、そのひとりである「自分」だ。
自衛隊が武器をもった官僚組織であることは、旧日本軍から変わらない。
「後から俺も行く」と言って特攻隊を無駄死にさせた挙げ句、自衛隊の幹部や国会議員に収まった連中がどれだけいるか。
沖縄で住民を盾にして生き延びた軍事官僚がどれだけいたことか。
「満州」で開拓民を置き去りにしてわれ勝ちに逃げ出したのは、どこの国の軍事官僚だったか。
霞ヶ関官僚も検察官僚も、これほどに非道い実態を目の当たりにしながら、軍事官僚だけが純粋に国民の平和を願っているなんて、どうやったら信じられるのだろうか。
軍事官僚の自衛隊が、自分たちを守ってくれるなんて思うのは大間違いだ。
地震のときは役に立つかもしれないが、武器を持って動き出したら、優先されるのは自分たちの省益だ。
省益と自己保身しか頭の中にないのは、自衛隊だろうが霞ヶ関だろうが検察だろうが、みな一緒。
■■
政治主導というのは、すなわち民主主義ということ。
選挙で選ばれた国民に責任のある国会議員が主導する という意味。
しかし実態は、霞ヶ関にも検察にも、ちょっとやそっとでは踏み込めない。
鳩山が敗れ小沢が敗れ、菅は卑屈に頭を垂れる。
まして、武器をもった軍事官僚に、どうやって国会議員が主導するのか。
民主主義の軍隊というものが存在し得るのか。
あるいは、し得ないのか。
普天間問題、尖閣問題など、政権交代効果もあってこれまで如何に日本がアメリカに隷属してきたかと言うことが明らかになってきた。
同時に、日本という国が、定見のないフラフラの国であることも、いやでも目に付くようになってきた。
これは良いことでもある。
これをきっかけに、65年ぶりに日本人は反省をすることができる。
そうして、はじめて自分の足でたつ国民になることができる。
しかし、反省をすっ飛ばして、一足飛びに「自主防衛」に行ってしまうことにも危機感を覚える。
反省なき自主防衛は、国体護持になる。
for the nation なのであって、for the people ではない。
言っている本人の意図にかかわらず、かならずそうなる。
なぜならば、自衛隊は軍事官僚だからだ。
「自主防衛」を言う人たちの多くは、官僚支配を打破しようと努力している人たちだ。
だから、是非とも、目を見開いて、自衛隊=軍事官僚 という現実を見ていただきたい。
どうか、自主防衛=自衛隊増強 という愚論に与しないよう 切に願いたい。
今考えるべきは、民主主義における「自主防衛」って何なのか、逃げずに考えること。
尖閣の問題から逃げ回る社民党では、平和を語ることはできない。
反中感情を煽ったり、日米安保にすがりついたり、自衛隊の増強を唱えたり、でなはい、民衆の「自主防衛」とは何なのか、向き合う必要がある。
最後に、以前の記事をリンクしておく。
未読の方は、ご一読を。
脱落リベラルの会が結成?
65年前の今日、広島に原爆は落ちたのか?

にほんブログ村
- 関連記事
-
- やっぱり! 検察審査会の実態 (2010/10/16)
- どうしちゃったんだ喜納昌吉 (2010/10/15)
- 朝日新聞の「真実を求める会」記事について 続き (2010/10/09)
- たった7日間で審査した「起訴相当」 (2010/10/08)
- 「政治とカネ」の呪文は賞味期限切れ (2010/10/05)
- 領土問題なんて興味ない (2010/10/03)
- 長島昭久の建白書を読んでみる・・(最悪だ!) (2010/09/29)
- だれが平和を守るのか (2010/09/27)
- 現実味を増した「恐怖の前原ヒーロー化計画」 【普天間問題】 (2010/09/18)
- かってに組閣ゲーム (2010/09/17)
- まず現実を見ることから 【菅政権】 (2010/09/15)
- またしても露骨な反小沢人事はあるか (2010/09/15)
- あきらめない (2010/09/14)
- 菅陣営に重大な「党員買収」疑惑 (2010/09/14)
- 名護市議選 反対派大勝利について 【普天間・辺野古】 (2010/09/13)